第二試合 1.雑木林
正道館大学の施設の一つに、空手や剣道の練習場が併設されている武道館がある。
偵察任務を明日に控えてオフを言い渡されている午後、松浦譲二はその武道館の裏に広がる雑木林に来ていた。
お腹の辺りで肘を柔らかく曲げて腕を前方に突き出し、正対の姿勢で構える。拳を作らずに両手を開いているため、良い案配で身体から力が抜けていて、あらゆる対応動作への移行が容易な体勢となっていた。
譲二は腹式呼吸で肺に清涼な空気を送り込む。血液の循環と共に、新鮮な酸素が四肢の末端へと運ばれていく感覚。
この構えは実用面と同等かそれ以上に心の在りように重きが置かれていて、構えることで戦いへの恐怖を打ち消し、敵と対峙する緊張を和らげる効果があった。
開いている両手は相手の打撃を捌き、払って、腕や衣服をつかむ動作につなげるためのものだ。
足は前後に開き、前に出した右足はつま先を対手の中心に向けていて、後ろに残した左足とほぼ並行になるように踏みしめられている。
掌を見せている意図、つまり打撃を捌くという目的から考えると、両足は前後にではなく、左右に開いた方が防御の態勢をとりやすいのは確かである。
しかし、その後に続くのは受け身と後退だ。左右に足を開いてその場に根を張る構えは、コンビネーション攻撃や連打を受け切るのに有効ではあるが、どうしても前進へのシフトチェンジが一瞬、遅れてしまう。
パンチやキックを捌いた後に目指すのは、敵の体をつかむこと。または、返しの打撃。つまりは反撃、攻勢に転じることだった。
そのために、このような足の位置をとっているのだ。最小の動きで攻撃を回避し、あるいは力点をずらして衝撃を分散させ、同時に相手の懐に入る。それらに特化した歩法。
対手が横に移動して、体の中心点をずらそうとした。試合場の均一な床とは比ぶべくもない土と草で覆われた地面を、これまた柔軟性に乏しい軍靴ですり足を敢行して、譲二はついていく。
そして、敵手の全身を捉えた視界の中で、空気の流れの変化と共に、微細な予備動作を看破する。
来たのは右の中段蹴り。予測どおりだった。
譲二は踏み込みながら、蹴りを放とうとしている膝を掌底で打って、技の出を潰した――
「ぶぼォッ!?」
――もとい、潰せなかった。
「次、いくぞォ!」
「ちょ、ちょっと待ってください! すっごく痛かったです! 今、ブラジリアンキックみたいに上段蹴りにシフトしましたよね!? おごォッ!」
「だから何だというのだ! 実戦ではそういうこともあるだろ! 加減はしてやるから、ほら捌かないか!」
「ぶべらッ! 師匠、追撃はやめて! これ嵌りました脱出不可能です! 仕切り直させてください!」
「いーや、諦めるんじゃない! 対戦格闘ゲームみたいなハメ技なんて現実にはないんだ、がんばってみせろ!」
「鬼だ!?」
「む……! この連撃で何か奥義に至る道筋が見えてきたかもしれん! 後もう少し!」
「教え子を武の探究の踏み台にするのやめてぇ!」
結局、譲二は〈痛くなったらすぐ背デス〉を出すことになってしまい、やっと解放された。
背デスとは、主にキックボクシングの試合で、後頭部や背中を殴ったりしてはいけないというルールを逆手にとって、背を向けることで相手の攻撃をやめさせるという裏ワザ的なディフェンス方法だ。市販の痛み止め錠剤のテレビコマーシャルで流れているフレーズをもじっている。
観客からブーイングされるようになり、審判によっては戦意喪失と見なされて試合を止められてしまう諸刃の剣でもある。公式戦ではできれば使いたくない。
「おまえは本当にセンスがないなぁ……」
朽方曜一郎はそう言って、うーんうむむむと唸る。
まず目を引くのは、百九十センチメートルに届くかという長身と、毛先側で結ってある長髪。髪の毛には白髪が混ざり始めているが、精悍な面差しはまだ若々しく、道着越しに覗く胸板にもほどよく筋肉が付いている。
彼は、譲二に合気道を指南してくれている先輩曹長だった。年齢は三十代半ばなれど、未だに現役の格闘兵で、前線に出て魔改造兵と鎬を削っている。
「すいません……」
ボロボロの体で譲二はそう謝るのがやっとだった。大きいオンスのグローブやレガースを付けて手加減してくれたとはいえ、打撃は変わらず鋭く、体重差もあってとても痛い。
「というか、いつにも増して雑念が多いぞ。どうした? 何かあったのか」
指摘されて譲二は考える。元々雑念だらけなので、思い当たることと言われても困るのだが、強いて挙げるとすれば明日未明に迫った偵察任務だろうか。
それとも……。
「……近頃、昔のことを思い出させられることが多くて。それでですかね」
「ふむ、おまえは孤児院の出だったな。そのときのか?」
「いいえ。そこまでは。思い出すのはもうちょっと最近の……、ここへ配属される前です」
「それを昔と言うのか……」と曜一郎は呆れる。「リングスの新兵訓練か。きつかった口かね?」
「まあ、そうです。良い思い出はありませんでしたね」
「……なら、この話はよしておこう。色々あったようだな」
そう言われて、譲二は自分が苦虫を噛み潰したような表情をしていることに気がついた。意識して眉間のしわを伸ばす。
「しかし、リングスか」
曜一郎は呟く。その懐かしい響きに、譲二は自分が海を渡る鳥になった気分で、ここから遠く北に位置する島と軍事施設を幻視した。
緑溢れる山並みの自然に、分校の名残を留めた訓練施設と、それらの景観の中で浮いている研究棟が見えてくる。記憶の情景は、譲二の胸中に形容しがたい感情をちらつかせていた。
「まさか辰野がそこで教官をやっていたとはな」
譲二はかつて、リングス基地という名称で通っているその軍事施設で数ヶ月間、特殊格闘兵になるための新兵訓練を受けていた。沼井鏡花達もそうで、その内の何人かとは同期だ。
訓練を見てくれていた士官の一人に、辰野道雄というジークンドーの実技教官がいた。“ドラゴン”などと呼ばれてて、日鶴軍最強の武闘家と名高く、彼に心酔する訓練兵が後を絶たなかったのを譲二は覚えている。
朽方曜一郎とドラゴンは旧知の戦友だった。
戦争初期から共に背中を預けて、UFC軍の魔改造兵と戦っていたという。冷静沈着な龍と烈火の如き達人の演武――。譲二はそれが容易に想像できる気がした。
「いやはや、道理で見かけないわけだ」
腕を組む曜一郎の横顔には懐かしさと、ずっと探していた物を見つけたときのような高揚感と、なぜか一抹の落胆が現れている。
譲二はそれらを内包した師匠の表情を不思議に見つめていた。彼とドラゴンとの間に何があったのだろうか、と。
「組手はこのぐらいにしておくか。明日は斥候なんだろ。おまえの集中力が散漫なのはそれもあるかもしれないしな」
と、グローブのマジックテープを剥がしながらぼやく曜一郎。
譲二は「で、でも」と稽古の続きを所望する。せっかくの半日オフをもっと有意義に使いたいという思いがあった。
「馬鹿者。一朝一夕で朽方流合気道が身につくか。おまえはもっと長い時間をかけて鍛錬しなきゃ話にならん」
グローブを外した片手を腰に当てて一喝してきた曜一郎。だが、唐突に口の端をつり上げて、
「……というわけで生きて帰ってこい」
譲二の頭を雑に撫でてくる。
「あ……はい、それは勿論」
何だか子供扱いされていることがむずがゆくて、譲二はわずかに身をよじらせながら、返事をした。
曜一郎はよっこらっせと近くの切株の上に腰を下ろす。佇まいはかっこいい部類に入るんだから、おじさんと思われそうな所作は控えてほしい。
「さっきの長い時間をかけて、のやつだが、おまえは若いのになぜ合気道なんだ?」
ぶっちゃけ合気道なんて、格闘家を志している連中にまったく人気ないぞ、と曜一郎は続ける。
「所詮は護身術。高齢キャラにあてがわれる拳法という風潮があって。太極拳などの型的な武術とごっちゃにされたり。合気道が強いのは漫画の中だけとか、ネット上の動画はインチキもしくは接待だって散々言われる。ほら、いいことないぞ」
「仮にも合気道を修めている師匠がそういうこと言わないで下さいよ……」
譲二が「仮にも」と付けたのには理由があった。合気道は他流試合が禁止されている。合気道の本質は護身術であり、格闘に使用するなどもっての外だ。
ゆえに、有事とはいえ、敵手を無力化するのに積極的に合気道を用いている曜一郎は、その禁を破ったということで除名されている。本人は「それは正しい」とさして気にもしていないが。
以来、曜一郎は我流で合気道の修練を積み、本流から分岐して格闘術としての面を強めた独自の路線をひた歩いている。
そのため、譲二が教えてもらっている合気道は、さっき曜一郎自身も言及したように、厳密には朽方流合気道なのだった。
「正直、他の格闘技を習得した方が単純に、早く強くなっていくのを自覚できると思うんだがね」
曜一郎の言うとおりだった。空手、柔道、キックボクシング、レスリング、柔術……。総合格闘技と親和性が高く、練習効率の良い格闘術はいくつもあった。
むしろ、合気道ほど、総合格闘技に活かしにくい戦闘技術はそうない。
かつて、総合格闘技がテレビの地上波で放送されていた時代。お茶の間にわかりやすいエンターテインメントを提供して幅広い視聴者層を得るため、最初期は本当にあらゆる分野やカテゴリーから選手が出場していたのだが、その中でも合気道をバックボーンとする選手はついぞ現れなかった。
「何で打撃や投げ技あるいは関節技ではなく、捌きを覚えたいんだ?」
曜一郎は合気道とそれ以外の格闘技における技術体系の違いを端的に上げて、再び問うてくる。
失望されないだろうかという不安が一瞬よぎったものの、譲二は正直に答えることにした。やはり恩師には誠実でありたい、という思いがある。
「……拳や身体を痛めたくなくて。極力ダメージを残したくないんですよ、将来のために」
「ほう」と、眉を片方だけ上げる曜一郎。
「特殊格闘兵とはいっても俺は落伍者の烙印を押されていますから。師匠と違って、ただの人間でありながら人間離れしているってこともないし」
そう、譲二はリングスの新兵訓練で落ちこぼれた。能力不足と判定されたのだ。
だからといってリリースされることはなく、そのままここ最前線に配属されているし、他の者と同様に特殊格闘兵としての任務も与えられているのだが。
「それで魔改造兵に勝てるわけがないじゃないですか。だったら、へたに攻撃を覚えても仕方なくて。防御や回避の方面を磨いた方が、生き延びるためには幾らかいいと考えているんですよ」
「なるほど、理には適っている」
明日を生きるために今日をやり過ごすか……人間としてあながち間違ってはいないな、と曜一郎はひとりごちる。そうとも、目先の勝利のために明日を捨てるのは論外だ。
「将来というのは?」
「できるだけ五体満足な身体で平和な世の中になるときを迎えて、長生きできるようにっていう意味です。なので、選手……じゃないですけど、選手生命を縮めるようなことは極力よけていけたらって」
引退してリングから降りた後も人生は続く。むしろ、現役の格闘家を名乗っていた期間よりも、その後の方が長いのだ。
譲二はどこか不随になって車椅子生活を余儀なくされたり、片目を失明してしまったり、薬漬けだったりとボロボロの余生などごめんだった。
「つまり、おまえは……格闘技でチャンピオンになった途端に『怪我をしているのでしっかり治したい』とか言い出して試合が組まれるペースをあからさまに落とそうとし、トーナメント出場までも回避しようとする女々しい奴らみたいに、賢しくやっていきたいと考えているんだな!?」
「言い方ァ!」
びしっと指を差してそんな問題ありそうな引用をしやがる師匠に、譲二は思わずつっこんでしまう。特定方向への謗りが含まれていたのは気のせいではないだろう。
「それで合気道か」と言う曜一郎に、譲二は目を伏せて、やや歯切れ悪く「はい」と返した。
今しがたの理由に曜一郎があまり納得していないことは明白だった。それでも、追及するつもりはないようだ。譲二は小さく息を吐く。
事実、合気道は譲二の理念に適合している格闘術といってよかった。
相手の打撃やつかみをいなし、力のベクトルを別方向へと受け流す技術に長けているのが合気道だ。パーリング系の上位スキルであり、ブロッキングやカットなどの防御面を作るタイプのガードスキルとは一線を画している。
攻撃手段も掌底やひねりの形での関節技、そこから展開される投げの技が多く、他の格闘技に比して手や足を痛めてしまうことは少ない。
状況が移り変わりやすい戦場において、戦闘が連続的、断続的に発生してしまっても拳を怪我することなく対応できるというのは十分なアドバンテージだった。
「まあ、おまえのこの戦争との距離の取り方についてとやかく口を出す気はないさ」
と、ともすれば軽薄ともとれる笑みを顔に貼り付けていた曜一郎だが、そこで真面目な表情を見せる。
「……だがな。周りともっと上手くやれ」
目線を下に落としたまま、譲二は「……はい」と返す。これが年の功というやつなのか、不思議と腹に落ちる感覚。
「態度に出している内はまだガキだぞ」
先日の隊長に続いて、先輩曹長にも同じようなことを言われてしまった。そんなにわかりやすく表れているのだろうか、と譲二は考える。
すぐに、もしかしてと気づき、
「師匠。瀬々隊長が何か言ってきたんですか」
「ん? まあ、そんなところだ。大したことは言われてないぞ。指導してやってくれないか、とだけ」
やはり、と譲二は口の中で舌打ちし、「すみません」と謝る。まるで担任の先生が部活の顧問に言付けるかのようだ。
「気にしなくていい。彼女にとってはこれも仕事の内なんだろう」
「あれは潔癖症の類ですよ。……失礼しました」
譲二の失言に、曜一郎の目元や口角がからかうようなものになる。
「それだよ。反りが合わないにせよ、上司を悪く言うのはやめておけ。格闘技の界隈や軍社会で、上への反感が露呈すると面倒だぞ」
しかし、出てきたのは正論そのもので、譲二は「わかっていますよ……」と言う他なかった。事実、落ち度があるのは自分自身の方なのだから。
「確かにあの女は堅物かもしれないが、若いのによくやってる方だ。サポートしてやれ。おまえ自身のためにもな」
「了解しました」と譲二は敬礼する。
「うむ。……明日は本当に気をつけて行けよ」
また頭を撫でられそうな気配を感じて、譲二はよけた。曜一郎の手が虚空をつかむ。「おっ?」
「いい加減そういうのやめてくださいよ」
「ははは……。生意気言うようになったなぁ……」




