第十一試合 4.卒業試験
格闘術を専門的に学んでない叶恵には知る由のない理論であったが、柔道というのは、力学の観点でいえば「対象に二箇所以上の力点を穿ち、それぞれに逆方向の力を加えることで回転させる」ことが肝要となる。
右組みでの内股で例えれば、袖をつかんでいる左手は下方向に引く力を加え、襟を捕まえた右手もそれを補助して、右脚は下半身を上方向へ跳ね上げる力を生み出し、これら三点のベクトルが相対者の体を縦に回すメカニズムになる……といった具合だ。
譲二は右脇腹と右上腕にもハンデを負っていて、右手で美紗を引き込んだり横に引っぱったりするのに必要な力を絞り出せない。
実質的に力のベクトルを左手と掛け足の二点でしか作れないということなのだが、柔道における格上に対し、この制限は致命である。
三点なら立体を形成でき、繰り出せる技の数が多岐に渡り、フェイントの効果も絶大となる。比して、二点では平面を脱することはできない。
二次元と三次元の間に横たわる河には深い隔たりがあるのだ。
事実、譲二は右方向へと倒す投げ技、もしくはそれに至る外掛けや内掛けを捨てていた。右側に引き落とす力が弱いために、技がかからないのだ。
左方向への投げにおいても、相手の体を右半身に乗せたり背負ったりしなければならない技においては、骨折箇所にかかる激痛に耐えての正確な実行が難しい。
ゆえに、勝ち星は一方的なものとなっていた。
しかし、五本目となる組手はそれまでと異なる展開を見せる。
前述したように、彼は右への投げを捨てていた。諦めたのではない、あえて捨てていたのだ。
何のために? 格上の敵手に、こっち側の掛けはないと思わせるために。
美紗の小外刈りをすかした譲二は一度、左側に引くフェイントを入れてからすばやく、逆に引っぱりながら右足での出足払いを仕掛けた。
「むっ!?」
ここぞとばかりに息を吹き返し、繰り出される搦め手に対手は驚き、反応が遅れる。尽きたと思っていた右落としが蘇る。
譲二はアバラ骨や右上腕骨がきしむ悲鳴を根性でねじ伏せて、この乾坤一擲に全てを懸けた。テクニック、スピードとタイミング、共に申し分のない出来だった。
けれど、二人の動きは止まっていた。起死回生の返しにさえ、後手となった美紗が踏み止まったのだ。
やはり、回転力だけが足りない。何度か見た光景の焼き直し。
「う……くっ……」
教官にこんな程度かとののしられながら、譲二は歯を食いしばって、顎を上げ、右手の力を振り絞ろうとする。
叶恵は、彼の肉体から力が、熱気が、決意が蒸発していくのが見えた気がした。右腕が震えている。
とうとう息を吐いて払い足を着地させてしまった譲二に、美紗がほんの一瞬、憐憫の表情を覗かせる。が、
「未熟者め。出直してこい」
と、逆に手首を引いて、背負い投げに移行する。
直後、叶恵は目を疑った。呼応して少年が息を吸い、腰を落としたのだ。あたかも、この流れを予測していたかのように。
そう、ここまでが布石。狩り場に誘導するための罠。真の狙いは。
背負い投げは初動のまま、まだ炸裂せず。体重の勝る譲二が耐えていた。
体勢の不利を察知した美紗は、背負いを解いて場から脱出しようと試みる。
だが、その前に、腹囲に両腕を回されてがっちりとホールドされていた。さっきまで手首をつかんでいた左腕も巻き込まれて拘束される。
デジャヴ。バックを取られた美紗の顔に、やられた、という表情がよぎる。
叶恵は思い出していた。これは、彼が初めて遭遇したチート兵に激闘の末、打ち勝ったときの――
「うおおおおお、お、お」
少年の咆哮と共に、教官の体が空高く抱え上げられる。バックドロップ。柔道でいう真捨身技、裏投げ。
先の攻防は最初から、これに至るまでの組み立てだったのだ! 裏投げなら己の体を落とせば諸共投げられるため、引く力はそこまで必要ない。
でも、下はアスファルト。打ちつけられたら両者共ただでは済まない。後頭部だったら最悪の可能性もある。
裏投げはほぼ決まり。もう彼の勝ちだ。止めなければ! そう思い、叶恵が動き出そうとしたとき。
「来るなァ!」
この試合は外部不可侵の勝負だという美紗の怒声が轟いた。
叶恵は彼女の覚悟に、一瞬だけ足を縫い止められる。しかし、すぐに軍医の責務が理性を呼び覚ます。
「松浦くん!」
聞こえているのかいないのか、バックドロップの体勢は続けられ、二人の体は地面に打ち下ろされようとしていた。
叶恵はぎゅっと目を瞑った。響いてくるであろう不快な衝撃音に身をすくませる準備をする。
しかし、聞こえてきた衝突音は予想とは異なっていた。少なくとも、硬い地面に打ちつけられたものではない。
おそるおそる瞼を開くと。
両者とも、校舎の外壁から斜めに垂れ下げられているグリーンカーテン用ネットと花壇の上に倒れていた。
二人の重みで、枯れている朝顔のつるの残ったネットが大きくたわんでいる。
叶恵はまさか、と思った。あらかじめグリーンカーテンの場所と方向を確認していたというのか。負傷と、好機をこぼさないために投げの加減ができないのを考慮して。
しかも、いつの間にか彼は裏投げから、相手の体を横向きにして両肩でかつぐ形に変えていた。プロレスで俗に言う〈バックフリップ〉だ。
美紗の後頭部は譲二の担いだ左腕によって守られている。本来ならば強打してしまう背面も、ネットのおかげでダメージゼロだ。
(……なんて子なの)
彼がとった一連の行動を美紗も悟っていた。ずり落ちないよう網目に手足を掛けつつ、完敗の顔で呆然と眺める。
そして、バックフリップの名残で彼女のお腹に頭を乗せたまま荒い息をついている教え子に、「……一本取られたよ。おまえの勝ちだ」と呟いた。
「はぁっ……はぁっ……森、本……先生……」
「なぁに?」
「先生との試合は……また今度でいいですか……。もう、アバラも……体力も……限界です……」
……まったくこの子は、と。込み上げてきそうになるのをこらえながら、叶恵は答える。
「……はぁ、しょうがないわねぇ。いいわ、今日は勘弁してあげる。ただし、忘れちゃいやよ」
「ありがとう……ございます」
「……卒業おめでとう」
叶恵は振り向く。日は完全に顔を出していた。眩しかったが、不思議と手などで遮る気は起きなかった。
ふと思い出す。あのグリーンカーテンは、積木若菜がここは殺風景だから朝顔でも植えましょうよと言ってきて、それで吊るしてみたものなのだ。
もしかして、若菜は彼が裏投げを敢行するこの未来まで予見していたのだろうか。
そんな経緯を知る由もない譲二は、そのネットをハンモック代わりにして目を閉じ、呼吸を整えていた。




