第十一試合 3.ツヨコワ女王
と、叶恵は風を感じた。パサッという音も耳に届いてくる。
首を動かすと、美紗が脱いだ上着を放り投げていた。
「松浦ァ! これから、おまえだけの修了試験を行う! 担当教官の私と軍隊式柔道対決だ!」
叶恵は唖然としてしまった。おまえは何を言っているんだ。
「一度でも私を投げたら、ここの新兵訓練を卒業したものとみなしてやる。かかってこい!」
Tシャツ姿で猛り構える美紗。叶恵は額に手をやって。
「あのねぇ……今の彼が乗ってくれるわけないでしょ。ほら見なさい、松浦くんも呆れて……。えっ?」
意外にも、涙の跡を残す訓練兵の口角がゆっくりと上がっていた。挑戦的な雰囲気が纏われる。
「……ヘッ、俺はウィルスが完全に無くなったから落第なんでしょ。卒業の資格ないっすよ」
「私は、指導している生徒の中から落伍者は絶対に出さないと決めている。責任を持って、一人前の格闘兵にしてやるとも」
「ちょ……ちょちょ。置いていかないで。シリアスではあるんだけど、そういう流れでしたっけ?」
「森本。というわけで私の領分だ。女は引っ込んで、観客席で悲鳴や黄色い声でも上げてろ」
「や……やだ。私だけ仲間外れにしないでよ……。って、こらぁ! あんたも女でしょが!」
つっこみながら叶恵はあっ、と気づく。こいつらは根っからの格闘家で、細かいことはいいんだよ的な性質を標準装備しているんだってことに。口よりも肉体で語るタイプの人間なのだ。
つまり、この空間では、一般人の感覚の方がマイノリティなのだ。叶恵はそう理解してしまう。
「行くぞっ!」
美紗が駆け、譲二も応じるが、いともたやすく襟口をつかまれて顔が苦痛に歪む。
そこで叶恵は思い出した。確か、彼は再びアバラ骨を折っていて……
「待った! 松浦くんはケガを――」
「だりゃああぁぁぁ!」
美紗の暴風に巻き込まれた譲二は、彼女の右脚と共に体を跳ね上げられる。見事な内股が炸裂していた。
かろうじて受け身はとったようだが、アスファルトの地面に背中を叩きつけられ、おそらく息ができなくなっているに違いない。
「私の一本だな。さあ、立て!」
「だから、待ちなさいってば! 松浦くんは、昨日の負傷で本来ならば安静にしているべき容体なのよ。そんな彼を加減なしでぶん投げて……。既に折れている骨を衝撃が走る激痛に戦意は霧散し、起き上がれない。続行は不可能よ」
叶恵は間に割って入る。美紗は聞いているのかいないのか、叶恵の背後に伏している担当訓練兵をずっと見下ろしている。
「……それは、先人達や数多の臨床例による医学的見解だな? 一般論と言い換えてもいい」
どういう意味だ、と叶恵は訝る。言っていることはわかるしそのとおりなんだけど、今ここでそう返してきた意図が呑み込めない。
「見ていろ、人間の可能性を」
歯を剥いて笑みを浮かべ、美紗は顎で指し示す。まさかと思い、叶恵が振り返ったそこでは……
横になっているものと思われていた譲二が、ゆっくりと体を起こしていた。更には、手と肘をついて、立て膝の姿勢をとろうとする。そんなはずは。
「精神力は肉体の限界を凌駕するものだ」
突き上げてくる痛みに耐えている表情。それでも、ぎらついた双眸が叶恵を捉える(え、私?)。舐めないでくれ、という反逆の意思が灯っていた。
「これが指導者の喜びだよな」
「はっ?」
「あいつの闘志を燃え上がらせたのは、先ほどのおまえの言葉だ。あいつはな、反骨心が最大の取り柄なんだよ。無理だ、できるわけがない、この程度かと言ってやると、決まって倍の気力でそれに反発してくる」
叶恵はもう一度、彼の方を見る。自分の「もう立ち上がれない」という言葉こそが彼を立ち上がらせた? 何抜かしてんだこんなの屁でもないぞ、と力を与えた?
「おまえには無理だとかできっこないと言うコーチやトレーナーはな、往々にして、それを覆してみせろと自分が一番願っているものだ。さっきのはその類だろう?」
「わ、私は――」
「来るぞ、どけ!」
叶恵は美紗に真横に突き飛ばされながらも、見た。先ほどまで自分が立っていたところを獣のようなひとかたまりの風が吹いていくのを。
近代柔道のルールでは反則技の一つに指定されている諸手刈りを敢行せんとしていた譲二だった。
彼は間に立っていた叶恵をブラインドに、もしくは敵手にとっての障害物に、あるいは手を封じさせる荷物に仕立て上げようとしていた。
なんという勝利への希求。自身は始める前から手負いで、対手は実力上位だからと、どんな手を使ってでも。
いいや、そうじゃない。彼は先ほど、己はこれから常勝の道を行く、と宣言した。例え人外の敵が立ちはだかろうとも蹴散らす、と。
ゆえに、ただの人間で、しかも女性である元担当教官に後れをとるわけにはいかないのだ。ここでつまずくようでは、話にならない。
魔改造兵を倒すことはできないし、親友を救うことなど夢のまた夢だ。彼はそれを十二分に理解している。
尻もちをついた叶恵は、臀部を打ったのと少し擦りむいた手の痛みに顔をしかめるも、それは一瞬だけのことで、攻防から目を離すまいと顔を上げる。
さすがというべきか、美紗は足をつかまれながらも、上半身をねじって背中から倒れるのを防いでいた。
片手をついてすぐさま足を引き抜き、側面に回り込んで寝技に移行しようとする。スタンドに戻るのが遅れた譲二は亀の姿勢になった。
「言っただろう、これは近接格闘術としての柔道だと!」
鬼教官は手をガードの間に滑り込ませ、脇腹に拳をねじり入れる。骨折箇所への容赦ない攻めに譲二は悲鳴を上げる。
ちょっと、本当に卒業させる気あるの!? と叶恵は心配になった。引退試合の対戦相手だって少しは空気を読むものだ。
攻撃から逃れようとした譲二を送り襟絞めに捕らえた美紗だが、「みぎゃっ!」という変な声を発していた。
譲二が彼女の腿に肘を落としたのだ。その隙に脱出され、仕切り直しとなる。
「でぃやあ!」
今度は再び美紗が仕掛ける。袖つかみ、というか上腕に掌底。ふくらはぎに突っかけるなんて生易しいものではないヒールキック。
「私が憎いだろう、殺す気でかかってこい!」
足を刈られるのを嫌がり、主導権を引き戻そうと譲二も手を伸ばす。袖口をつかまれている腕は肘を内に回し入れて、相手の手首をねじる要領で封殺していた。
組み合えば、性差による体格と筋力で譲二の方がやや有利となる。美紗も女性にしては長身の部類に入るのだが、さすがに少しばかり見上げる格好になっていた。
だが、譲二の移動しようとしていた足は機先を制されてすぐに踏み潰されていた。軍靴を履いているためダメージはそれほどなかったが、踏まれているために足捌きがままならない。
重心も悪くなっているのを狙われ、美紗に引き込みや小内刈りなどで上下前後に揺さぶられて、更には崩しや出足払いで左右にも振り回される。
何度か投げられそうになりながらも、訓練兵はまるでそれが命綱だとばかりに服をつかんでいた手を決して離さなかった。ゆえに、女教官の襟部分の布地は伸び、裂け、襟口が段々と広がっていく。
そうして、やっとのことで五分五分の取っ組み合いに戻った譲二が目にしたのは、Tシャツの破れ目に覗くグレーのスポーツブラジャーと、ささやかな谷間とふくらみ。
「あっ……」
「む? ふええっ!?」
これまでほとんど意識してこなかったであろう担当教官の異性部分が露わになり、おそらく聞いたことのないうわずった声とも合わさってか、健全な男子訓練生は「す、すいません」とつかみ手を解除してしまう。
修行いや女性経験が足りない。その間隙を逃す現役兵ではなかった。
「き、貴様ァ~~。手加減をしてこの私に敵うとでも思っているのか!」
赤面して明らかに強がっているふうの女教官は、スポブラと上乳をがっつり見られてしまう対面を避けるかのように半回転し、払い腰で転ばす。
動揺していたのもあって、譲二はまたもや無防備に地へ叩きつけられた。ラッキースケベの王道的かつ現実的な末路の一つといえよう。
「たわけが、私を女などと思うな!」
襟口の切れ端を結びながら叱咤する美紗。
少年の方も闘志は未だ衰えず。立ち上がり、三本目が始められる。痛みは……反骨精神と脳内麻薬で忘れることができているようだ。
叶恵は二人の組手を眺めて、ふいに納得した。ああ、そうか……と。
これが彼らの会話なのだ。口での対話の領域は既に過ぎていて、あるのはただ体と体のぶつかり合い。
それこそが裸の思いを掛け値なく伝える唯一の手段。疑念や上っ面は、汗と共に洗い流されていって……。
(私も……大輝くんとそんなふうに体を重ねていれば。……ううん、今からでも遅くない)
ここにあの子はもういないけれども。あの子が誇っていた無二の友が残っているじゃないか。
自分も、彼らに負けじと勇気を、情熱を燃え上がらせよう。
「松浦くん。そこの男女との試合が終わったら、次は私とよ」
大外刈りを決められて三連続で地を舐めることになった譲二に、叶恵はそう声をかける。
「何を言っている!? 素人は引っ込んでろ!」
よっぽど予想だにしなかったのか、美紗が驚きの声を上げた。失礼な、と思う。
「そりゃあ、私は医者ですから、格闘技の素養はからっきしだけど。軍人の端くれなんだから、基礎体力を維持する運動ぐらいはしているわよ。それに……」
彼と目が合った叶恵は、できるだけ意識的に、にやりと口の端をつり上げる。彼らの世界の中で、自分達は紛うことなく悪役。ならばそれを全うしよう。
「子供達をあんなにしておいて、自分だけ安全圏にってわけにはいかないものねぇ。受けて立つわよ」
「おまえ……」
「……っ」
譲二はわずかに戸惑い、だけどよろよろと立ち上がって、柔道勝負に没入していく。
しかし、昨日からずっと休息なし、都合四本目の組手によるスタミナ切れで無酸素運動がままならず、収縮と膨張を繰り返す肺の圧迫が骨折箇所に与える鈍痛はさしものの彼から毒のように体力を奪っていく。もはや足運びが精彩を欠いていた。
美紗のかち上げに苦悶の表情を浮かべ、未だに勝利への手立てが見つからないことの無念に顔を歪ませる。
さっき大見得を切ってみせたのにもかかわらず、自分はこんなところでもう誓いを違えてしまうというのか、というように。
「こらぁ! しっかりしな!」
叶恵は思わず檄を飛ばしていた。ああもう、キャラじゃないってのにと恥ずかしくなってしまう。
「あんた男だろ!? だったら私達をボコボコにして友達の仇を討ちなさいよ!」
叶恵は胸の中で願う。お願い、もう一度だけ闘志を。
(あなたは私達の……ううん。私達だけじゃなく、大輝くんや沖山くん達の希望なんだから……)
「君は大輝くんの盾だったんでしょ? でも、その役割を果たせなかった。なら次はどうするの? 決まってる、剣を抜くんでしょ! 抜きなさい!」
光を見せてほしい。希望の、日の出の光を。
「うう」
譲二は取っ組み合ったまま、顔を伏せて涙の雫を落とす。




