第十試合 1.事件
それは何でもない普通の日だった。
強いていえば、きれぎれの雲が空にひしめいていて、晴れてくるのか曇りのままなのかはっきりしない天気だったぐらいだ。
衝撃や陥穽というのはこんな日にこそやってくるなんてどうやったらわかるというのだろう? 予知能力者でない限り誰に防げるというのか。
この日に起きたことは、松浦譲二に取り返しのつかない、一生忘れられない大きな傷を遺した。
変だと譲二が気づいたのは、午後最終の座学を履修すべく教室の移動で中庭を歩いている途中だった。
校舎を遠巻きにして眺めるように人だかりが数組できていた。尉官や下士官らが両腕を広げてそれらを押し戻している。
士官の面々には例外なく緊張が走っていて、訓練兵の表情にも不安や怯えが浮かんでいた。何かがあったことは明白だった。
譲二は人だかりの脇へと逸れて、校舎を見上げる。通用口からは訓練兵数人が逃げるように出てきて、教官の誘導に従いながらしゃがみ走りで建物から離れていた。
事務官までもが、トランシーバーを耳に、ただならぬ面持ちで走っていったりしている。
吉出秀人中尉が熊のような迫力で、「建物には近づくんじゃない。離れるんだ!」と遮ってくるので、譲二は数歩後ろに下がらざるをえなかった。
そのときだった。空気に亀裂が入ったらこんな音がするんじゃないか、という乾いた音が聞こえた気がした。
それは空耳ではなかった。教官らも振り返り、建物の近くにいた下士官はとっさに身を低くしている。
「危険だ! もっと下がれ!」
教官や士官らの指示はもうほとんど怒鳴り声だった。
譲二は少し離れたところで呆然と眺めている顔見知りの同期生に尋ねる。「おい、何が起きたっていうんだ?」
「えっ? さ、さぁ……」
しかし、譲二と同様に居合わせただけのようで、状況を把握しているわけではなく、聞いてもらちが明かなかった。
今度は校舎から避難してきた一人を捕まえる。
「よ、よくわからないけど、二階にいたら突然、一階で銃を撃つ音が聞こえたんだ。避難するように言われて階段を降りたら、廊下に二、三人倒れていたのが見えた」
銃。にわかには信じがたい話だった。
クラスや学校がテロリストに占拠されたらなどと中二病的なことを考えるやつはいても、それが現実になるなんて誰も本気では思っていない。例え、ここが普通の高校や大学などではなく、新兵訓練のための施設だとしても。
「誰が倒れていたんだ? 撃った奴の姿は見たのか?」
「とにかく外に逃げなきゃって必死だったからわかんないよ。犯人も逆方向へ行ったみたいで、鉢合わせはしなかった」
“犯人”という表現に、譲二は肌が粟立つのを感じた。
そうだ。銃を乱射した奴は、得体の知れないロボットやモンスターの類ではなくて、譲二達と同じれっきとした人間なのだ。
そして、そいつは内部の者の可能性が高い。
なぜなら、この羽稲島は、本土以外に近接する陸地のない絶海の孤島だ。
外周は崖で切り立てられていて岸がほとんどないため、輸送機やヘリコプターによる空からの着陸以外には、警備や管制がなされている港に艦艇をつけるしかない。よって、外部から無許可での侵入は不可能ということになる。
この間の外国人兵みたいに外部の者が一時的に滞在していくといったイレギュラーはあるものの、基本的に、島にはリングス基地の関係者しかいない。なんということだ。
譲二は再び校舎の方を見やりながら、足下がぐらつくような感覚に襲われていた。これは現実なのか。今、己が立っているこの世界は本物なのだろうか。
そういえば理央や幸進は大丈夫だろうか、と譲二は思い至る。少し歩きながら周囲に視線を巡らせるが見当たらず、焦燥が募ってしまう。
代わりに、ダリア・ヘンダーソン中尉を見かける。譲二にとっては食堂での乱闘事件以来だ。
建物からさほど離れてないアスファルト上に停められた軍用ジープの陰で、事務官の絹内蘭子や年配の研究員と何やらずっと確認をしている。普段は動じることのない顔を歪めていて、その様からは事態の深刻さが伝わってきた。
また遠くで空気が割れるような音を聞きながら、譲二は言いようのない重苦しさが胸の中を浸食していくのを感じていた。
世界が頭上に落ちてきて圧し潰されるようだった。




