第九試合 1.廊下
校舎の二階、教室や視聴覚室が並ぶ廊下。松浦譲二は、開けた窓の下枠に両腕を乗せ、背中を丸めてグラウンドをぼんやり眺めていた。
今は昼休みの時間だ。譲二はなんとなく食欲がなくて幸進達と一緒には食堂へ行かずに、ここで時間を潰している。
土に細かい砂が混ざった灰褐色の地面を見せているグラウンドには、足跡がいくつか残っていた。
今日の午前の実技では柔術の組手が行われたものの、座学の方はやはり自習となった。先に行った大輝を早く追いかけたいのに、教官不在の続く現状がもどかしく、譲二は焦る一方だった。
健吾まで出立間近という噂も耳に入っている。はやる気持ちだけが空回りするような感じがしていた。
「譲二」
後ろから声がかかる。耳慣れた呼び方だったので、ぼうっとしていてもすぐに誰かわかった。
「理央か」
譲二は振り向かずに返事をした。今は、首を回すのも億劫だった。理央なら許してくれるだろう。
気にせずいつもみたいにしゃべり始めてくれるだろうと思っていたのだが、予想外に、彼女は後の言葉を継がない。背中をじっと見つめられているような感覚があった。
微妙な間が空く。
訝しみながらも、譲二はグラウンドから視線を動かさなかった。薄情かと思ったが、まだ他人に振り分けられるほどの余裕がない。
それに、少し考えれば、彼女が何を言いたがっているのか譲二にはわかるような気がした。だから、あまり聞きたくなかった。
「……大輝、行っちゃったんだね」
意を決したように、片桐理央が口を開く。やっぱりそれか、と心の中で嘆息しつつ。
「ああ」
譲二はできるだけ感情を込めずに相づちを打った。上手くいった自信はない。
また間。ややあって、
「別れにつきものの壮行試合、やってあげた? ほら、送る側の譲二達が一人ずつ、大輝と一ラウンド戦うやつ」
理央が無理したふうに茶化してくる。おまえな、こんなときにまでと譲二は呆れるが、黙っておいた。
「一番手が宮前でしょ。で、いいところまでいくんだけど惜しくも負けるのよね。次は東条で、一戦交えたばかりの大輝を追い詰めるんだけど、時間切れで引き分けて。んで、満を持して幼馴染兼親友の譲二が『よくやった、あとは任せろ』と、三番手としてリングに上がるんだけど、期待に反してカウンターKOをくらうんだわ。情けないの」
幼馴染兼親友という補正が微塵もなかった。がっくりとうなだれそうになるのを我慢する。
「最後は四連戦でもう限界な上、沖山くん相手には本気を出せない大輝がついに倒されて、四対一なのに勝利なしを阻止するわけよ。そして、『がんばれよ!』『俺達も後から行くからな!』『またね!』と発破をかける宮前と東条と沖山くん、『サンキュ。先に行ってるぜ』と清々しい顔で手を上げて去っていく大輝。……っていう具合かな」
俺はリング外でのびたままってか、と譲二はその絵面を想像する。
理央の冗談はともかくとして、大輝が不在のF班は現在、どうにか形だけを保っているという有り様だ。もし健吾や敦が残っていたとしても、おそらく同じようになっていったのではないかとさえ思う。
生真面目な一面のある東条幸進、楽観主義でムードメーカーの宮前健吾、繊細で引っ込み思案なところのある沖山敦……。個性がバラバラな面々がこれまで息を合わせられていたのは、潤滑油役となっていた大輝の存在によるところが大きい。
幸進と健吾は頭に血が上りやすい。譲二もどちらかというとそうだ。そんなときには大輝が、良い感じの空気とタイミングで適度に落ち着かせてくれたものだ。
更に、幸進がいるため直接的に助ける機会は少なかったが、大輝は敦のことも常に気遣っていた。まさに譲二達の長兄役だったわけだ。
「って聞いてる?」
理央が窓側まで来て、壁に尻をくっつけさせながらもたれた。襟にかかった髪の毛が日光を受けて少し栗色に輝く。
「聞いてるさ。壮行試合のくだりはおもしろかったよ」
やっとまともな反応を返したからか、理央は胸を撫で下ろしたようだった。話を続けてくる。
「あたしのところはまだ全員いるけど……、何人かいなくなった班が増えてきてるみたい。そういえばあの子見かけなくなった、って気づくんだ」
譲二もそうだった。あいつ近頃は見ないなあと思って同班のやつに聞くと、「詳しくは知らないんだけど」や「あまり教えてくれなかったけど」などと前置きして、訓練修了と編入が決まったっぽいと答えてくる。
「最近、教官や基地の人達とかさ、あたしらが通ると会話を止めて口をつぐんでしまうんだよね。前はそういうのなかったのに。何か、カンジ悪いの」
「……わかるよ」
思い当たることはあった。事務官や軍属の栄養管理士までもが以前よりもよそよそしいのだ。私語における管制が敷かれているのかもしれない。
まあ、合衆国言語や外国語で会話をされたら、その場に居合わせたとしても譲二には正しく聞きとれる自信などないのだが。
「ねえ、譲二。あたし、心配してるのよ」
……俺を? と譲二は少しびっくりするが、行ってしまった大輝のことか、とすぐに察した。主語をきちんと付けてほしかった。
「あいつなら大丈夫だよ、きっと。そのためにここで訓練してきたわけだしさ」
しかし、理央は「え?」と目を瞬かせた。次いで、「……あ、あー」と得心したような返事をしてくる。
「……ごめん。あたしが心配してたのは、自分自身」
理央は恥じ入るように、わずかに目線を下げる。でも、その発声ははっきりしていて、譲二は彼女の美徳の一つを再認識させられた気がしていた。
「訓練兵ってそういうものだから、入隊を決めたときから戦地に送られる覚悟はしているんだけど。していたつもりなんだけど……」
声音が段々と震えてきているのがわかった。譲二は両腕に埋めていた顔を上げて、視線を滑らせる。
「満足に準備期間が用意されず、プロモーターや審判団も信用できない中、戦わされるっていうのは、さすがにちょっと、怖いよ……」
「……理央……」
理央の顔は血の気が引いていて、唇も紫色になっていた。いつもの溌剌さからは想像できない姿だった。
「譲二はさ、平気なの? 闘争心や愛国心の方が勝っているの?」
すがるように尋ねてくる理央に、譲二は窓サッシから片手を離して半身になった。しかし、自信がなく、視線は窓の外へと戻る。
相変わらず青、しかしどこか閉塞を感じさせる不快な色の空だった。
「……俺も、高尚なものは持ち合わせちゃいないさ。というか、俺は本当にガキだ」
理央の「えっ……」という意表を突かれたような反応。当然だ、と譲二は思った。
大輝がいなくなって、気づかされてしまった。この胸の内にある使命感は紛い物なんだって。そう、自分は国や軍のためではなく――
「孤児院に配布されてきた募兵のビラを見て、特殊格闘兵ってかっこいいかもと思ったんだ。そして、一緒に見ていた大輝がどうしてか突然、入隊すると言い出してさ。置いていかれるような気がして、自分も志願したんだ。子供みたいな理由だろ?」
あのときの、大輝の覚悟と諦観が入り混じった眼差しを思い出し、譲二は未だに不思議に思う。彼はなぜ、この道を選んだのか。
「だから、俺は今も、同じようにあいつを追いかけているだけなんだよ」
大義よりも友情を取ろうとする己の薄っぺらさに、譲二は自嘲してしまう。
「すまないな。参考にならなくて」
「ううん」
理央は壁によりかかるのをやめ、正面を向いて立っていた。わずかに顔色が戻っている。
「とても参考になった。立派な志や忠誠心とかより、あたしもそっちの方が好きだな」
だって兵士や格闘家に一番大切なものはやっぱり守りたい人がいるっていう気持ちだし、と彼女は続ける。
「でも、そっかあ。いいね。親友とかそういうの憧れる」
「理央だっているだろ」
積木若菜。いつも理央と行動を共にしてて、隣や半歩後ろで微笑んでいる彼女の姿を譲二は思い浮かべる。
首から十字架のペンダントをかけていて、食前に簡単な祈りを捧げているところを見たことがあり、信仰深くどこか透明感のある女子だ。
(……そういえば模擬戦後の医務室で変なことを言われたんだっけか)
「若菜のこと? うーん、親友とはちょっと違うかなあ……」
「そうなのか? よくわからないな」
譲二は首をひねった。理央が腰に手を当ててはぁ、と溜め息をつく。
「女の友情には多少の打算がつきものなのよ」
そんなことないんじゃないのか、と譲二は返す。ちょっと芝居がかった語尾から察するに少し自分に酔ってるなこいつ、と勘ぐりつつ。
「食堂や移動教室のとき、実技訓練でペアを組むときに相手がいると惨めな思いをしなくて済むでしょ。けれどリングスの女子は人数が少ないし、しかも午前は班毎にばらけたりするから、グループを作りにくいの。その中で、若菜とは午後の個別クラスも寮の部屋も一緒だったから」
あたしたちの関係は契約の一形態なのよ、と言う理央。それは穿ちすぎのような気もしたのだが、譲二は口にはしなかった。
「でも、もし戦場で魔改造兵と闘わなければいけないときが来ても、それで何かがあったとしても、誰も気に留めてくれる人がいないのはイヤだなと思ってさ……」
積木は親友というには微妙なのかもしれないけど悲しむと思うぞ、と考える。それに、両親だって。
「親友じゃなくてもいいんだけど、リングに上がる勇気をもらえる何かが欲しいんだ」
事あるごとに男同士の友情をからかってきたのは、彼女なりの、羨望の裏返し。友の絆はときとして敗北の恐怖に打ち勝つ勇気になりうる。
まだ恐れの残る面差しで気丈に笑んでみせる彼女に、囗が勝手に動いてしまう。
「俺はおまえのことが好きだよ」
理央は変な構えで「うぇっ!?」と驚き、顔を紅潮させていく。それを見て、譲二も急に気恥ずかしくなってしまう。
「え? 譲二って、あたしのことがす、好きだったの……?」
「い、いや違う。友達的な意味でだな」
「ええー、この流れで否定すんのかよ……。ヘタレ」
凍てつくようなジト目で見てくる理央。大輝が好きだという設定はどこへいったのか。
「と、とにかく。だから、俺はおまえが戦場で倒れたら悲しい」
「むー……。いつだったか前に、ムエタイの実技訓練であたしの胸に触ったでしょ」
「なっ……あ、あれは」
首相撲の練習をしていたときに肘が当たってしまっただけで、不可抗力の類だ。通常ならよほど体重が近いのでなければ男女で組み手をすることはほとんどないのだが、あのときは互いに相方が不在で、他に余っている人もいなかったためやむをえず理央と組んだのを覚えている。
譲二はあのときの感触を不鮮明ながらも回想し、つい目線を少し下げたくなる誘惑に襲われるが、思いとどまった。というか何でその話を今、持ち出すのか。
「って、思い出さなくていいから! そ、その責任を取ってよ」
過失の行為と合わさってその要求も相手に得しかない気がするのだが、どういうことなのだろう。これが女心は難しいっていうやつか……。
けれども、後ろに回した手や腕をもじもじさせている理央に、譲二は不覚にも可愛いと思ってしまう。それをごまかすべく「わ、わかった」と返して、空咳をした。
「戦争が終わって生きて帰ってこれたら、つ、つきあおう」
「……それ、負けフラグだかんね」
格闘技界隈でも有名とされているフラグ立て。上り調子の選手が「俺、この試合に勝ったら海外挑戦するんだ」的なことをしゃべると、決まって敗退してしまうというあれだ(ちなみに、「トーナメントに優勝したらプロポーズする」というのは意外と成功例が多い)。
今しているこのやりとりも同じような形になる。譲二は焦った。
「あっ、俺やべえ」
「あーあ、知らないよ。はい、死んだ。あんた死んだね。バーカ。バカバカバーカ」
バカバカ言いすぎじゃないのかと怒ろうとしたら、理央は泣き笑いのような表情で目尻に涙を浮かべていた。濡れた睫毛が陽光にきらめいていて、譲二はドキッとさせられる。
「ったく、やっぱりあんたとはないわー。……でも、ありがとね……亅
……恋愛フラグの方は立ってなかったようだ。敗死ルートは回避されたらしいが、譲二は複雑な気分になった。




