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第五試合 1.寮の屋上

 寮の屋上、市原大輝いちはらだいきは鉄柵に片肘をついて、フェンス越しに、夜の羽稲島はねしまを見下ろしていた。


 山腹は黒く塗り潰されていて、隊舎や研究所の窓から漏れる明かりは届かず、かろうじて稜線が判別できる位だ。


 藍色の闇は、それよりも濃い色をたたえた海原へ溶けていっている。夜空には星がまたたいていて、ある種の静謐せいひつさを感じさせる光景だった。


 研究棟の冷え冷えとした窓明かりを眺めながら、大輝は意識のおりをすくい上げようとしていた。


 特殊格闘兵科、予防接種、食事に付いているサプリメントの錠剤、慢性的な不調、研究施設、長時間の検査、教官や事務官と軍医の態度、敦の両親への手紙……。


 大輝はうなじの辺りに悪寒が上ってくるのを感じていた。得体の知れない何かが自分を迎えに来ようとしている気配がある。少年時代に別れを告げなければならないときが迫ってきているという予感がしていた。


 限られた時間の中でやるべきことを考えなければいけない。……のだが、大輝はどうもさっきから思考がまとまらなかった。


 背後で蝶番ちょうつがいのぎしつく音がして、大輝の足元に蛍光灯の青白い光が伸びてくる。


「お、いたんだ」


 大輝は振り向こうとしたが、その前に声で宮前健吾みやまえけんごだとわかった。


 意外な来遊者だった。用があるわけではなく大方、涼みに来ただけなのだろうと考える。残暑の季節に差しかかろうとしていたが、熱帯夜は続いていた。


「夜の時間になってもまだ暑いのな~。飲む?」


 隣に来た健吾が水の入ったペットボトルを差し出してくる。この寮にミネラルウォーターなんて気の利いたものは置かれてないので、中身は水道水だろう。


「いや、別に喉は渇いてない。気持ちだけもらっておくよ」


「そうか」と健吾は鉄柵にもたれて、ペットボトルの飲み口に口をつけた。飲み干しそうな勢いで水かさが減っていく。


 大輝は視線を夜の海に戻す。柵の手すりに両肘をかけた。


「なー、大輝は月も星もない真っ暗な夜でも、水平線がくっきり見えるのか?」


「……ああ」


「へえ、視力メッチャいいんだな~」


 そう感心し、健吾は飲みかけのペットボトルを地面に置いた。それから、鉄柵に足をかけて、フェンスにつかまりながら柵の上に立った。


「危ないぞ」


「大丈夫、大丈夫」


 健吾はフェンスの網目に顔を近づけて、目を細めていた。


 大輝は健吾の目線を追って、日中よりも境目が曖昧あいまいになっている水平線を一望する。墨汁のような海のふちに、闇夜のとばりが下りていた。


「うーん、やっぱ星の光があればなんとか判別できるくらいだなー」


 大輝は考えた。確かに、以前から視力には自信があった。だが、ここまで良くなってきたのは最近のことのような気がする。


 あの日の保健室での森本叶恵(かなえ)先生との対話を思い出す。


 ちょっと野暮やぼったい感じのミディアムヘアと、人を食ったような垂れ目。彼女は気になることを言っていた。


『本当に? 何かない? 思い出してみて』


 そう念を押されるからには、何かあるはずだということなのか。


 あのときの厚ぼったい唇にわずかに浮かんでいたのは、それと意識しなければわからないほどの酷薄さだった。


 彼女だけでなく、他の大人も信用できない、と大輝は思った。ここは、どこかおかしい。


「どうしたんだよ、大輝。浮かない面してるぜ」


 と健吾が尋ねてきた。大輝はその屈託なさそうな顔を見上げる。


 快活でノリが良く、ちょっと軟派なお調子者。それが周囲の、健吾に対する人物評だろう。


 だが、大輝は知っていた。健吾が何かを内に秘めていることを。時折、切羽せっぱ詰まったような、焦燥に駆られているような表情をすることを。


 譲二や幸進はまったく気づいていない。大輝も、感づきはしたもののあえて触れていない。


 自分達は多かれ少なかれ、戦禍で傷を負っている。誰しもが、大小あれど他者不可侵の秘密を持っている。仲間だからってその部分までも分かち合おうとするのは違うというものだ、というのが大輝のスタンスだった。


「検査ってさー、やっぱ大変?」


「まあな」


「ははっ、大輝でも苦手なものってあるんだなー」


「それだけじゃないさ。ここんところのリングスはどこか変だ。ざわついているというか……。上手く説明できないけど、島そのものが悪意を持って、俺達に襲いかかろうとあぎとを開けているような感覚がある」


 健吾は柵の上でしゃがみ込みながら、黙って聞いていた。茶々を入れてくる気配はない。


「何かさ……俺達はとてつもなく大きな渦のようなものに巻き込まれて、呑み込まれようとしているんじゃないか、って気がしてな」


「……ふ~ん」


 大輝は意外に思った。根っこは単純な健吾のこと、「考えすぎだって。試合が近い選手みたいにナーバスになっているだけだって」などと一笑に付すのではないかと予想していたから。普段の気性に似合わず、彼の反応はやや神妙なものだった。


 健吾も最近の空気に何か感じるところがあったのだろうか。


「でもよ、やるしかねーもんな」


 健吾は大輝の隣に跳び降りる。両腕を広げ、足を揃えて着地を決めた。


「ほら、幸進も言ってたじゃねーか。俺らは格闘兵だって。俺ら特殊格闘兵の任務は魔改造兵を殺すことなんだ。それ以外の、余計なことを考えてもしょうがねーって。たぶんさ、俺らのような一兵士にどうにかできる問題でもなさそうだしな」


 それよりも、と健吾は再び漆黒の海を向いて言う。その方角には日鶴ひづるの本土があるはずだった。


「みんなで誓い合っただろ。絶対に一人前の格闘兵になって俺達の国を護ろうってな」


「……そうだな」


 大輝は星空を見上げた。前髪が夜風で揺れる。


 健吾の言うとおりだった。大輝は腹を決める。行く手にどんなじゃが待っていたとしても、それが己の償いなのだろう。


(あるいは、許されざる罪を抱えたまま結末への階段を転げ落ちろということなのかもしれないな……)


 夜の空に星座が瞬いていた。十字形のはくちょう座などと共に一等星がいくつか一際輝いている。直角が日鶴本土を向いているようにも見える夏の大三角だった。

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