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「ピーっ!遅いよっ。僕のミネラルウォータ!!」
智の声でハッと現実に戻る。
私は目の前に立つ、ゆいちゃんにぺこりと頭を下げて中に入った。
そう、扉を開けてくれたのはゆいちゃんだった。
心臓が早鐘を打ち、ドクドクと頭の中で響き渡っている。
ゆっくりと中に入れば、幾人もの人たちが控室に集まり、メイクを始めていた。
深呼吸を一度してから、手近なテーブルにペットボトルを置こうすると手が震えている事が分かった。
向こうは私が分からないんだからと思いはしても、直ぐに名前でバレるだろう。
兎に角、落ち着いてと言い聞かせる。
「おい、どうした?」
拓海が隣に立って、ペットボトルを半分引き受けてくれる。
「……………あっ。あぁ、なんでもありません。すいません」
気を取り直して、私は皆に蓋を開けてから飲み物を配る。
「拓海さんには、これを。申し訳ありませんが、いつものはなかったので」
拓海は眉を顰めて私を見るけれど、私はそれどころじゃなかった。
一刻も早くここから出たかった。
どうせ、顔を合わせるのは今日だけだ。
これからは、どこかで会うこともない。
今日を乗り切れば大丈夫な筈。
震える手を握り締めて、私は慌てて控室を出た。
そのまま、階段に行って座り込む。
びっくりした。
本当にびっくりした。
この間は冬馬で、今度はゆいちゃん?
【だって、欲しかったんだもん】
頭の中で甦る声を振り払おうと頭を振った。
ゆいちゃんは、七年たっても綺麗だった。
もう三十半ばのはずなのに、二十代にしか見えなくて、前よりもずっと垢抜けている。
でも、百合の花のようなイメージはそのままで、あぁ、綺麗だなと思ってしまった。
膝を抱えて、溜息をついた。
どうしよう、いや、どうしようもないのか。
関りあわなかったら、それでいいんだから。
ゆいちゃんが拓海に目をつけるとか、そういう事がない限り大丈夫な筈。
なぜ私はここまで動揺しているんだろうか。
自問自答しても、答えはわかりきっている。
私は今でも、ゆいちゃんに勝てるとは思わない。
ゆいちゃんは私よりも綺麗で大人で男人を魅了する力を持っている。
冬馬がゆいちゃんを選んだ事がトラウマになっている自覚もある。
とどのつまり、私は成長していないのか。
もう一度大きく溜息をついて顔を覆った。
それでも、今は仕事中なんだから頭を切り替えなきゃ。
挙動不審は十八番だっていっても限度があるし、さっきは拓海も怪訝な顔をして私を見ていた。
今日は記念すべき『S』の初仕事なんだから私が変な態度をとって皆の足を引っ張ってはいけない。
よし、気合を入れて、ゆいちゃんのことは棚に上げよう。
そう思って、拳を握り締めたとき、突然頭の上に手が置かれ、私は顔を上げた。
「どうした?あの人知り合いか?お前顔が真っ青だぞ」
心配そうに拓海が私を覗き込んでいた。
「……………拓海」
思わず拓海の服をつかんだ。
心配をして追いかけて来てくれた事が嬉しかったし、ちょっと今弱って心細かったから。
「桃?」
そのまま私の頭を撫でてくれる。少しの間目を閉じてそれを堪能してしまう。頭を撫でられるの好きなんだ。安心するというか、大きな手が好きだった。するりと拓海の手が私の耳を撫でた。
「っん」
「本当にお前耳が弱いよな」
甘さを含んだ声が、至近距離で聞こえる。驚き、目を開けると拓海が身を屈めて私にキスをするところだった。
「ん………んっ」
何度か角度を変えて、私の唇を包み込むようなキスをする。
こんな、誰が通るか分からない場所で見つかったどうするつもりなんだと思いながらも身を任せてしまう。直ぐに拓海はキスを止めて私を見つめた。
「こんなトコで誰かに見られたらどうするのよ」
「桃が悪い。俺の前でそんな可愛い顔をしたら食べたくなるだろ?」
可愛いっって、またそんなさらっと。
「お前悩むとロクな事考えないんだから、止めとけよ」
そう言って軽くキスをすると艶やかに笑った。
「ま、初仕事前のお守りってことで、ご馳走さま」
私はこの時、拓海の優しさが嬉しくて周りに気を配っていなかった。
だから気づかなかったんだ。
まさか、見られていたなんて思いもしなかった。
後から考えれば、多分これが始まりだったのに。
先に拓海が控室に戻り、私はまゆちゃんの控室に行くことにした。
先ほど買った、ペットボトルを持ってノックしてから扉を開ける。
控室のソファに仲良くまゆちゃんと冬馬パパが座っていた。
「あら、桃ちゃん。『S』は放っておいていいの?あの子達桃ちゃんが居ないと不安なんじゃないの?」
おもわぬ台詞に笑ってしまう。
「そんな訳ないじゃん。私、ただのパシリだから。」
他に人はいないみたいだから、くだけた口調で言うと冬馬パパも笑った。
「それは、過少評価しすぎだよ。拓海の彼女なんだろ。あいつら、五人でいると結構な頻度で桃ちゃんの話をしているんだ。かなり頼りにされてるよ。昔から桃ちゃんは面倒見がいいからね」
「あっありがとうございます」
途端に冬馬パパの眉が吊り上った。
あれ?私、失礼な事言った?
「まゆり、なんで桃ちゃんは急に俺にだけ距離を置くんだ?冬馬とまゆりには前と変わらずだよね?」
憧れの寅之助さんに前と同じっっ!!無理だから!タメ口あり得ないから!!
「桃ちゃんは夏樹さんが藤堂 寅之助って気付いていなかったのよ。ファンなんだって」
「まゆちゃんっ!!言わないでよ。恥かしいから」
冬馬パパは目を丸くして私を見て次にお腹を抱えて笑い出した。
「ひょっとして、そっくりさんだとでも思ってた?まゆりがアイドルだったって言ってもピンと来てなかったみたいだもんな」
今回、世間様のまゆちゃんに対する認識はしっかりと分かったよ?
CMにでるってだけでこんなに話題になるんだもん。どれだけ有名なのかは嫌でも分かる。
そして、そんな凄い人に拓海達は認めてもらえたんだ。
「あの、私が言うのもなんだけど、この度は本当にありがとうございました。まさか、『S』がメジャーデビューさせてもらえるなんて、夢みたいです」
ペコリと頭を下げると、冬馬パパは笑いを収めて立ち上がると頭を下げている私の頭を上げさせた。
「俺が彼等を気に入っていたんだよ。桃ちゃんが関わっていなくたって彼等をデビューさせたかった。これからだな。売れる為に出来ることは精一杯させてもらうよ」
そう言って、何故か私は寅之助さんに抱きしめられた。
ほんのりと海の匂いが鼻をくすぐる。
「えっっ、あっあのっ!!!」
縋るようにまゆちゃんをみると、ニコニコと私達を見ているだけだ。助けてよぅ。
「しかし、残念だ。本当に残念だ。桃ちゃんはうちの愚息の嫁になってもらってお義父さんって呼んで欲しかったのにっ!!」
まゆちゃんの言っていた事本当だったんだ。てか、憧れの藤堂さんの娘って考えただけで倒れそう。しかもこの状況!!楽しむべきか、慌てるべきか!!
「全く冬馬は間が抜けているからな。少し桃ちゃんみたいにしっかりしたお嬢さんに見ていてもらわないと安心できないんだよ」
なんか冬馬酷い事いわてる?
あれ?気のせい?
「いや、あの、離してくださいよぉ」
冬馬の家は皆スキンシップが、激しくてついていけない。心臓がバクバクいってるし。
丁度その時、誰かが控室をノックする音が聞こえた。
私は慌てて藤堂さんを押しのけようとしているのに、まゆちゃんはどうぞと返事をしてしまった。
こんなんとこ、誰かに見られたくないからっ!!
「失礼しますって、てんめぇなにしてんだよっ!!」
いいのか悪いのか入ってきたのは拓海だった。
乱暴にドアを閉めるとどかどかと音を立てて入ってくる。私の腰をつかんで引き離した。
「てめぇら親子は桃にちょっかい出しすぎなんだよ。いい加減にしろっ、これは俺のだ!」
「あーぁ、牙剥いちゃって。可愛いねぇ。別にハグくらいいいでしょう。小さい男は嫌われちゃうよ?」
飄々として冬馬パパは大きく息を吐いた。
「うるせぇ!!社長だからってこれは駄目だからな。ほら、桃行くぞ、智がお前が居ないって大騒ぎしてるんだよ」
なんで智が。
「そうそう、拓海も桃ちゃんが居ないと落ち着かないんだよねぇ」
「うるせぇって言ってんだろ。エロ親父っ!!いいかっ桃に触るなよ。わかったな」
拓海と冬馬パパはすっかり仲良しなのか。こんなに子供っぽい拓海は貴重だよ。
「なんだよぉ、拓海達の初仕事は随分と心細い想いをするだろうからって無理言って、桃ちゃんを担当にして貰ったんだぞ。感謝してもらいたいね」
胸をはって上から目線の冬馬パパは全く俳優の藤堂 寅之助には見えない。
私がそっくりさんだと思ったのはこの性格もあると思う。
「はいはい、感謝感謝。これでいいだろ」
冬馬パパの顔も見ずに拓海は私を部屋の外へと連れ出した。
「ったく、あの家どうなってんだ」
「んー。昔からあんな感じだったよ。あんまり意味はないから気にしないで。スキンシップが好きな家なんだよ」
私がそう言うと、拓海は私の頬を引っ張る。
「スキンシップが好きだからってあんな風に抱きつかれたり、手ぇ握られたり、あげくの果てにキスまでされたらたまんねぇんだよ」
「拓海、ここ廊下。誰に聞かれるか分からないんだからそういう話はもっと小さな声で」
拓海は不機嫌そうに口をつぐむけれど私の手は放さずに控室の方向に歩き出した。
いやぁ、出来れば控室には行きたくないんだけどなぁ。
ゆいちゃんと顔を合わせたくないもの。
隣を歩く拓海の顔をちらりと見上げた。
ないとは思うけれど、一応言っておきたい事があるんだ。
「なに?」
私の様子で察してくれて、拓海が促してくれる。正直言いづらい事だから、そうやって言ってくれた事が嬉しかった。
「あのさ、あのメイクの娘達と浮気しないでね?私、今度ばかりは本当に許せないと思うから」
ゆいちゃんがいるから。ゆいちゃんが本気になったら私は自信がないんだ。
あれから毎日きちんと家に帰ってきてくれるし、車で会社に送ってくれている。浮気をしている様子はなかった。飽きっぽい拓海にしては驚きの持続力で私は少し安心していたんだけど。それでも、拓海に言っておきたかった。
今、胸の中は黒い渦が渦巻いている。
不安に押しつぶされそうだった。
ぎゅっと、手を握る力が強くなる。
「あんまり心配しすぎると、禿げるぞ」
「それは拓海でしょ。生え際ヤバイんだから、オールバックに気をつけてね」
「悪いね若くて。そんな心配欠片もいらないから。俺の心配より自分のお肌の曲がり角気にしろよ」
軽口をたたきながら、やっと肩の力が抜け楽になった気がした。
控室の扉を開けると、更に人が増えていてまるで戦場のように慌しく人が右往左往していた。
「ピー遅いっ!!どこいってたんだよっ!肩もんでっ!!」
あれ、本当に人がいるのに智が機嫌悪いや。私は直ぐに、智の後ろに立ち、肩もみを始める。
拓海もゆいちゃんに手を引かれ、メイクをする椅子に座らされていた。そうだよね、私を呼びにくる時間も惜しいはずなのに。
メイクをされながら、智がイライラしているのは分かる。
多分、緊張しているんだ。
皆を一人ひとりを見てみると、総司も、牧も緊張で顔が強張っている。
しれっとしてるのは、拓海とまこさんの二人だった。
まぁ、ねぇ、あの二人はある意味見栄っ張りだから。緊張してても人前じゃ出さないよね。
拓海なんかキスしてくるし、本当にいつも通りのふり上手いから。
「ピー、顔が赤い。変な想像しないでくれる」
「別にしてませんよ。智さんこそ、大好きな猫さんはどこに置いて来たんですか?」
兎に角人が多いので気をつけて敬語で話すけれど、本当は気楽に声をかけて励ましてあげたかった。
智は口を尖らせて、メイクさんに窘められた。アイラインで黒く縁取られて、ピンクのアイシャドウをのせらていく智はいつもの顔とは全然違う。神秘的で、どこか儚い印象を受けた。
確かに、この『S』顔だけはいいんだよね。みんな。性格やら、頭やら痛い人が多いけど。
「今、すっごく失礼な事考えてるね。頼むから僕を一緒にしないでよ。悪いけど、智の後僕の肩も揉んでよ」
右となりの牧が声をかけてきた。
「いいですよ。少し待っててくださいね」
「ピー、俺も」
左隣の総司までそんな事を言うから可笑しくなってしまった。笑いを堪えて、三人分の手や肩を邪魔にならないように揉むと皆のメイクが終わって、後は衣装を着るだけになっていた。
ちらりと拓海を見ると、案の定ゆいちゃんと楽しそうに話をしている。
これだけいい男が揃っているんだから、拓海に目をつけなくたっていいじゃないか。
この中じゃ、拓海が一番顔良いけどさ。
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