表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/8

3.ホウセンカ(開かれる心)

 久しぶりに見た悪夢のせいであまり寝付けなかった。背中は寝汗でじんわり濡れていて気持ちが悪い。しばらく思い出していなかったせいで、不意にこの夢を見ると心が痛む。もう終わったことだ、いつまで立ち止まってるつもり?あの時の事はもう忘れてしまえばいい。

 そうやって何度自分に言い聞かせても体は正直で、自分の気持ちとは正反対に涙が流れてしまう。  

 寝ている彼女に気付かれないように私はなんとか涙を止めようとした。

 けれど少し遅かった。

「真奈、大丈夫?」

いつの間にか起きていた彼女に気付かれ、私はそっと頭を撫でられた。


「あぁ、すみません・・・」

咄嗟に彼女から距離を取り、急いで涙を拭う。

 すると、「なんで泣いてたの?」と心配そうな顔をしながら私に聞いた。

 でも、答えなかった。


 彼女に言ったところで私の頬を伝う涙が止まるわけでもない、過去が消えるわけでもない。ましてや、他人に慰めてもらおうなどおこがましい。

 私は「なんでもないです。目にゴミが入ってそれで涙が出ただけです」と誤魔化し洗面所へ逃げた。

 蛇口を勢いよく捻り水で顔を洗う。冬の冷たい水を無理やり顔に当て綺麗に涙を流し、赤くなった目元を冷やした。

 寝汗で濡れたTシャツも洗濯機の中へ放り込み新しいものに着替え、再びリビングへ戻った。

 戻ると未だに心配の表情を浮かべる彼女の姿があった。

「真奈、平気?」

 

「何がですか?」


「さっき泣いてたじゃん」

  

「気のせいじゃないですか?吉野さんの見間違いですって」

なんとか誤魔化すがそれでも彼女の表情は変わらなかったので、無理やり別の話題を彼女に振った。


「それより朝ごはん食べませんか?まだ外は暗いけど、ちょっと早めの朝ごはんってことで」

言いながら私は振り返り、朝ごはんになりそうなものを求め、冷蔵庫をおもむろに開けた。


 中には卵とハムがあったので、それをトーストに乗せて焼いた。パンの相方と言えばコーヒー。彼女にも勧めたがコーヒーは苦くて飲めないらしい。ジュースはないので、お茶で我慢してもらうことにした。

 焼けたトーストをテーブルに並べ椅子に腰かけ食べ始めた。

「うーん美味しい。この組み合わせ最高ー、吉野さんも冷めないうちに早く食べて」

一秒でも早く心配する彼女の表情を変えたかった。でなければ、いつまでたっても頭の中で反芻してしまい、ふとした瞬間にまた涙が流れそうだったから。


 トーストをひと口かじった彼女に「どうです?」と急き立てるように感想を求めた。美味しいと答える彼女に「これ、私のお母さんがよく作ってくれたんですよ。昔からこの味が好きで・・・」と途切れないように会話を繋げた。

 けれど、私の空元気は彼女には通用しなかった。


「真奈、本当にここにいちゃだめなの?」

優しさと思いやりが声色に交じる。【私に伝えなきゃいけないこと】のために、ここに居たいと言った彼女だが、今はそれだけが理由で言っているのではないと私はすぐに理解した。

 私の涙を見てしまったから離れるに離れられないのだろうか。そんな彼女の優しさを私なんかのために使って欲しくはなく、申し訳ない気持ちで胸のあたりが苦しくなる。

 どれだけ彼女が私に歩み寄ってきたとしてもそれに答えることは出来ない。

「吉野さんがここにいていいとはやっぱり言えません。ほんとにごめんなさい」

頭を下げながら私は彼女の思いを踏みにじった。


「そっか、ダメか・・・」

俯きながら小さなつぶやきのような声で言った。


 少しの間、トーストをかじる音だけが部屋に響くほど、静寂な空気が流れていた。

 かじるたびに彼女の顔を伺ってしまいそうになる。それをしないように私はトーストにしつこく視線を落とした。

 十分程経ち、二人とも食べ終えると「よしっ!」といって彼女が立ち上がった。勢いよく立ち上がる彼女に何事かと思い、はっとする。


「そろそろ帰るよ!」

その言葉に安堵する自分と彼女が【私に言わなきゃいけないこと】を知れずに終わるもどかしさが心の中で混ざり合った。


 昨日洗濯しておいた服に袖を通し彼女は着替える。

 たった一日だが彼女と過した時間は決して悪いものではなかった。

 これぐらいの関係値で終わるのが一番いい。一線を越えてしまうともう戻れなくなる。

 着替え終わった彼女がとぼとぼと玄関へ向かう。彼女と過ごした時間はほんのごく僅かだったが、久しぶりに人と食べた夕食も朝食も美味しかった。

 だから感謝はしておこうと思った。

「ありがとうございました。久々に人と食べるご飯は美味しかったです」


「私も真奈と食べるご飯は美味しかったよ」  

にこやかに笑う彼女があ、と続けて口を開いた。


「お願いがあるんだけど」


「まだここに居たいって言うお願いは聞けな・・・」と最後まで言う前に彼女は私の言葉を遮った。


「そうじゃなくて、家の途中まで送ってよ。友達なんだし」

言いながら扉の向こうを指さす彼女。


 私の事を友達だという彼女に胸の奥がちくりと痛んだ。私は彼女の事を友達だと思うことは出来ない。

 それは決して彼女に問題があるからというわけではない。全部わたしのわがまま。

 最後までそのわがままを通すなら、幾分かは彼女の言うことも聞こう、そう思った。

「分かりました。途中までなら」

私の答えを聞くと顔をくしゃっとさせながら「ありがと!」と一言答えた。


 外へ出るとようやく太陽が顔を少し見せ始め、朝霧が徐々に姿を消し始める。冬の寒さに耐えながらゆっくりと前を歩く彼女についていく。右に曲がったりさらに左へ曲がったり、何も言わずにただ道を歩いていく。


 けれど、どれだけ進んでも町の景色は私がいつも帰宅するときに見ている景色ばかり。「もしかして意外と私と家、近いのかな」そんな思いを馳せていると急に立ち止まる彼女。何事かと思い、「どうしたんですか?」と尋ねた。


 すると「私の家着いたよ」と左方向を指さす。途中までのつもりが結局彼女の家まで連れてこられたのか。そう思いながら彼女の指さす方を見た。


 そこに立っている建物を見たとき私は、もの言いたげな目を彼女に送った。彼女が着いたと言い張るその建物は今さっき後にした、私の家だった。歩いていても景色がいつもと変わらなかったのはそういうことだったのか。

「もしかして、また私の事からかってます?」


「ははっ、からかってないよ!ただ、ちょっと元気づけようと思って」

お腹に手を当てて笑う彼女。彼女と友達になれない原因は全て私にあると思っていたがそんなこともない気がした。


「全然元気にならなかったんですけど。むしろ余計、吉野さんのせいで気分が下がりました」

笑顔でこちらを見つめる彼女から私は目を逸らした。


「ごめんってー。そんなに怒らないでよー」

 

「怒ってはないです」


「ほんとにー?ほんとに怒ってない?」と指で私の肩を揺らしながら言う。

彼女は本当に私を怒らせたいのかと、一瞬頭によぎったがどちらかというと呆れる気持ちの方が大きかった。

 

「いい散歩になったでしょ」

こんな寒い朝に散歩はしたくなかった。


「私はもう帰るんで、吉野さんも風邪ひかないうちに帰ってくださいね」

これ以上、外にいると凍え死にそうだ。


「分かった。じゃあ、また今度ね!」

また今度。友達が友達に言うセリフ。この別れを期に彼女とはもう会わない方がお互いの為にいい。その言葉に私は返事をしなかった。

 手を振る彼女に会釈だけしておいた。彼女の姿が見えなくなったあと視線を落とし安堵のため息がこぼれた。


 部屋に戻り、私は昨日買った本を読むことにした。一ページずつめくるたびに紙と紙が擦れる音が部屋に流れる。彼女がいたらこんなに静かに本を読むことは出来なかった。いたらきっと「何読んでるの?」「おもしろい?」と水を差してくるに違いない。

 もう家に着いたのかな。家族と喧嘩したって彼女は言ってたけど仲直り出来たのかな、とふと思う。外は寒いし、風邪引かなければいいけど。


 あれ・・・

 さっきから私はなぜ彼女の事ばかり頭に浮かんでしまうのだろう。

 本を読んでいるはずなのにフィクションの世界に落ちることが出来ない。

 それどころか内容すら頭に入って来ない。

 本の内容が入ってこないのに読んだところで、それはただ閲覧しているに過ぎない。

 普段と違う自分が嫌で私は逃げるようにベッドへ潜り込んだ。一度寝てリセットしよう。目を閉じて私は眠りについた。


 目が覚めたのは夕方の五時だった。一度も目が覚めることなくこの時間まで眠ってしまっていた。彼女と過ごす非日常と今朝見た夢のせいで、きっと体が疲れていたのだろう。


「こんな時間に起きたら夜寝れないじゃん」と一人でつぶやいた。

次の日は朝からバイトがあるため早めに眠りにつきたかったがこんな時間に起きてしまうとそうもいかない。深いため息をつきながら重い瞼を持ち上げ冷蔵庫から水をコップに入れ喉を潤した。


 すると「ピンポンっ」とインターホンが鳴る音が聞こえた。寝起きの声で「はいー」と返事を返すも外の環境音に負けたのかリビングからでは、私の声は届かなかった。

 しかたなく、玄関まで足を運びもう一度「はい」と伝える。


 すると「宅急便です。お荷物のお届けに参りました」と玄関越しに聞こえてきた。そういえば一週間程前に最近出版された人気作家の小説をネットで買ったのを思い出した。あまりの人気に本屋はどこも売り切れ状態になっていて、やっとの思いでネットで買うことが出来たのだ。それをうっかり忘れていた。

 私は早くその本と対面したかったので、心躍る思いで玄関の扉を開けた。

 開けてしまった・・・

 宅急便?

 どこが・・・もっとよく声を聞けば気づけたのかもしれない。扉の前に立っていたのは家に帰ったはずの彼女だった。


「宅急便です」

完全にふざけているので私は知らない人のふりをした。


「あ、多分部屋間違ってると思いますよ」

 

「いえ、ここであってますよ」

おどけた口調で彼女が言うと、少しの間、沈黙が流れた。そして私はそのままそっとドアを閉めようとした。


「ちょい、ちょい、ちょい、ちょい何で閉めるのよ!」

ドアを掴んで閉まらないように必死になる彼女と、彼女と関わりたくない一心で扉を閉める私の、不毛な戦いが始まった。


「いや、なんで・・・また来たんですか!」

 

「もう来ない・・・なんて・・・言ってないじゃん!」

ドアの隙間に足を入れてなんとか閉まらないようにする彼女。怪我をされたら困るので力を入れるに入れられない。


「私はあなたともう関わりたくないんです!」


「友達にそんなこと言わないでよ!」


「警察、呼びますよ?」

そう言うと彼女はあえて、近所に聞こえるように「うわー誰か助けて!襲われる!」と大きな声を放った。


「ちょっと、うるさいって!」

助けて欲しいのは私の方なのに、よくもまぁ自分が被害者みたいな顔でいられるな。何度も大きな声で叫ぶのでこれ以上は近所迷惑になるし、本当に警察が訪ねてくるかもしれない。出来ればもう関わりたくはなかったが背に腹は代えられない。私は仕方なく彼女を部屋の中へ入れた。


 本当に何をしに戻ってきたのか。ひょっとして帰るときに何か忘れ物でもしたのか。それなら納得はするけど。いや、出会った時彼女は荷物など何も持っていなかった。じゃあなんで戻ってきた、と頭の中が疑問符が溢れる。わざわざ戻ってきた彼女に聞くのが一番早いと思い私は口を開いた。

「で、なんで帰ってきたんです?何か忘れ物でもしたんですか?」 


「ううん。私、手ぶらだったから何にも忘れるものなんてないよ」

悠然と答える彼女に尚更、疑問符が止まらない。


「じゃあ、なんでまた来たんですか?」


「だってここに居ちゃいけないって言われただけで会いに来ちゃダメって言われてないよ」

うっと言葉に詰まる。確かに彼女の言う通りだ。


 彼女には最初からはっきり言うべきだった。


「じゃあ、もう会いに来ないでください」


「えー友達にそんなこと言うのひどーい。ってかそれもう友達って呼べないじゃん!」

 

「私は友達を作りたくないんです」

 

「でも昨日は友達になってくれたじゃん」

それは建前上の話で・・・


「あれは吉野さんが私にどうしても言わなきゃいけないことがあるっていうから気になっただけで・・・」


「じゃあ、私の事ほんとは友達だと思ってなかったってこと?」

 

「思って・・・いませんでした。ほんとにごめんなさい・・・」

 私は彼女を騙していたことの後ろめたさで胸が張り裂けそうだった。何も言わない彼女。私はまた彼女を傷つけた。

 けれど彼女はそんな私に「じゃあ、今から友達になろう!」と傷つくどころか晴れやかな様子で答えた。

「今から友達になれば、真奈に会いに来てもいいよね」


「いやだから私は友達を必要としてないんですって」

つい口調が荒くなる。


「真奈が友達を頑なに必要としない理由って学生の時に何かあったからでしょ」

悠揚たる態度で答える彼女に驚きが隠せなかった。


「なんで知ってるんですか」


「知ってるというか、だいたい想像ついただけ。友達を作りたくないって、きっと昔に友達と何かあったからでしょ。朝泣いてた理由も、多分それが原因だよね」


「吉野さんには関係ないこ・・・」

 

「関係あるよ」

私の言葉を最後まで聞かずに彼女は遮った。


「真奈が横で泣いてたら私も悲しい。ほっとけなくなる。だから、真奈が私の前で泣いた時点で関係ないなんて思えない」

詳しい理由も知らないくせになんで私が泣いてるだけで、あなたまで悲しくなるの?ほっとけないって言うけど昨日初めて会って、たった一日過ごしただけじゃん。

 私はあなたの前で泣きたくて泣いたわけじゃない。それを勘違いして自分の前で泣いたと思ったの?手を差し伸べて欲しいから泣いたと思ったの?そんなことを思って、関係があるだなんて言うのであればそれは偽善だ。

 私は友達を作らないことで今を生きれているの。


「とにかく、もう私とは関わらないでください。それに私はずっと一人でいいんで」  


「一人でいるのは寂しいって」

言いながら彼女は、私の手を優しく包み込んだ。ただ、私はその優しさを受け入れることは出来なかった。優しく包み込む手を振り払い、感情の波に流されるまま私は彼女に憤りをぶつけた。


「裏切られたことないからそんなこと言えるんだよ!馬鹿にしないで!」

やり場のない怒りを彼女へ向けてしまう。彼女にぶつけるなんて絶対に間違ってる。間違っていると分かっていても自分で自分を抑えきれなかった。

 

「・・・」

私の抑えられない感情に俯く彼女。あぁ、やってしまった。最低だ。


「ごめんなさい・・・吉野さんに当たっても仕方ないのに」

彼女の顔を見れない。


「友達に裏切られたの?」

彼女がそっと口を開く。


「信じてたのに・・・ずっと一緒だった友達に私は裏切られた。何があっても味方でいるって言ってたのに・・・」

やるせない気持ちでぐっと唇を噛みしめる。思い出すだけで胸が苦しい。まるで昨日の出来事かのように、鮮明で鮮やかに記憶が頭の中を駆け巡る。

 さやかにした「これからも私とは一緒に居れない?」という最後の質問。帰ってきた答えはごめんだった。そんな風に答えるなら最初から、ずっと味方でいるなんて無責任に言わないで欲しかった。


「信じたからじゃないよ。真奈が傷ついたのは期待したからだよ」

 

「なにが・・・」

俯いていた彼女がもう一度私の手を取り、そっと握りしめながら私を見つめて話し始めた。

「人を信じることと期待することは似てるけど全然違う。信じるっていうのは相手がどんな存在だったとしてもそれを受け入れる勇気を持つことだけど、期待は自分の思い描いてる理想じゃなかった時、裏切りという刃が自分に降りかかってくるの。そして傷つくのは自分。人に期待するのは傷ついてもいいという覚悟が出来た時だけ」


「そんな覚悟する前に、誰だって気づかず友達に期待してしまう時はあるでしょ」

 

「確かにね。でも、友達ってたいそれた風に言ってるけど、実際は他人の延長線上でしかないよ。他人に過度な期待するのは無意識に自分を傷つけるよ」

 

「そんなこと言われても、期待してしまった結果はもう変わらない」

今さら何を思ってもさやかとの間に出来てしまった亀裂は、誰にも治すことなんて出来ない。


「真奈の言う通り、過去はもう変えられない。でも、これから先の未来はいくらでも変えていけるでしょ?私たちは今を生きてる。生きてさえいれば未来は変えられる。だから、これからは期待じゃなくて信じてみてよ。私が真奈の友達だってことも」

私の手を包み込む彼女の手から、優しさと温もりが伝わってくる。この温もりを受け入れるのが怖い。

 けれど、彼女が言ったように期待するのではなく信じてみたら・・・

 そうすれば傷つくこともないのかな・・・


 私は彼女の手をかすかに握り返し、中学生の時に何があったのかを話した。さやかの恋人から受けた仕打ちや周りの子達から浴びせられた数々の罵詈雑言。そして、一番の友達に裏切られたことも。

 話していくうちに体全身に寒気と恐怖が広がっていくのを感じる。自分の体が鉛みたいに重い。

 けれど、彼女から伝わる優しげな温もりで私の体に広がった寒気と恐怖をゆっくりと溶かしていき心も体も軽くなる。いつの間にか私の頬には涙が流れていた。

 

 話終える頃にはもうすっかり夜が来ていた。

 ベランダから何本か枝分かれした月明りに照らされながら、私は彼女に抱きしめられていた。

 そして、一度止まった涙も頬をつたうようにまた流れだす。それに気づいた彼女が体をそっと離し、人差し指の甲で私の涙を丁寧に拭った。

 励まそうとしてくれたのだろう。「今から散歩でもしない?夜の散歩って静かで気持ちが晴れるんだよ」と私を誘った。

「そんな気分じゃ・・・」


「そんな気分だからこそだよ」と私の手を取り早々と玄関へ連れられる。

 靴に履き変え、彼女に言われるまま外へ出た。


 手を引かれながら夜の冷たい風が私の頬を撫ていく。前の私ならきっとこの手も振りほどいていただろう。

 でも今は、そんな気にはならなかった。

 彼女に連れられるまま数分ほど走った。どこまで行くのか分からない。彼女の走るスピードは意外と速く、体力がない私はすぐにばててしまった。

「ちょっと待って、もう限界」

 はぁ、はぁと息が上がるたびに目の前の景色が白く染まる。

  

「ははっ!結構走ったね、どう?気持ちいいでしょ」

疲れた様子が一切見えない。私と違って彼女は体力があるのだろう。

 息を切らしながら「気持ちいいというか、久しぶりにこんなに全力で走った」と膝に手を突き言った。


「どうしようもなく心が落ち込んだときとかは、こうやって走るんだ。それで自分の好きな場所に行く!そしてここは、私がこの町で一番好きな場所」

言いながら彼女は周りを指さした。周りを見渡すがここには、枯れ葉が落ちきった街路樹の寂しい姿しか目に入らなかった。


「この木々の何が好きなの?」

木は一つだけではなく何本も連なるように等間隔に生えていた。木の枝がむき出しになった姿を好きという彼女の感覚は分からない。


「この木々はね全部、桜の街路樹なんだ」

 

「これ全部桜が咲くんですか?」


「そうだよ、真奈の家から近いのに知らなかったの?」

目には入っていたけれど、桜なんて春になればどこにでも咲いているし、花に関心がなかった私は、道に桜が咲いていてもありふれた景色の一つでしかないと思っていた。

 だから彼女に言われるまでここが桜の名所だなんて知る由もなかった。


「この桜の木々が満開になったらすごいんだよ!もう目の前が淡い桃色で埋め尽くされるの」

言いながら彼女は木に手を当てて思いにふける。


 そしてふと、顔を上げると何かを見つけたのか「真奈、ちょっとこっち来て」と手のひらを下に向けぱたぱたと動かした。

 近づくと彼女は上を向きながら木の枝を指さした。最初は何に指をさしているのか分からなかったが、目を凝らしてよく見てみると、枝に小さな蕾がついていることに気がついた。


「あれって桜の蕾なんですか?」


「うん、可愛いでしょ!」

桜の花自体はよく見るのだけれど、蕾をここまでじっくり見たのは初めてだ。


「これはまだ蕾から開花してるところかな」


「開花?」と首をかしげながら彼女に問いかけた。


「そう、開花。桜って花が咲く段階でそれぞれ呼ばれ方があるの。最初に蕾の横から花が顔を出す段階を開花って呼ぶの。ほらよく見て、ほんの少しだけど花が見えるでしょ」

言われるまま彼女の指の先を見ると、確かにほんの少しだけ蕾を支えるように小さな桜の花びらが見えた。

 そして、三分咲き、五分咲きと咲いた後にようやく満開になるんだと愉しそうに話す彼女。

 

「そうだ!満開になったら一緒に見に行こうよ」


「私と来ても愉しくないよ・・・」


「もうー、すぐに自分を卑下しないの。私は真奈と見に来たいの。他の誰でもなく、真奈がいいの」

毅然と答える彼女の意見にそれ以上何も言えなかった。


 それからも、彼女が持つ桜の知識を聞きながら私達は歩き出した。桜は日本の国花なのだが、実際に日本生まれの原種は十種類程度で、世界にはその十倍以上の種類の桜があるらしい。

 と胸を高鳴らせながら話す彼女に私もいつしか夢中になっていた。

 彼女の花に関する話は聞いていて飽きない。それどころか興味が湧いてくる。特に花が持つ花言葉にはとても惹かれる。

 大輪のひまわりには「情熱」や「前向きな気持ち」といったポジティブな花言葉の裏に「偽りの富」というネガティブな意味も存在するらしい。ひまわりの見た目からして、いつ見ても晴れやかで明るい印象を常に感じるのだけれど、その裏には不安や何かが欠けた思いを抱えているという人の心の内面が映し出されている花なのかもしれない。

 彼女からこれを聞いた時、ほんの少しだけ、ひまわりに彼女の面影が重なった。

 普段はにこやかに振る舞うのに、時折見せる憂いのある表情。やっぱり【私に言わなきゃいけないこと】が彼女にその表情をさせるのか。言いたい事って何なのだろうか・・・


 そんなことを考えていると私の家の前に戻ってきた。街路樹へ向かった時は全力で走っていたので遠くに感じたが帰りはゆっくり帰路についたため、家から街路樹まではそこまで遠くないことを知った。

 家の前に着いたがどうしていいか分からなかった。これからの彼女との関係をどうすればいいのか。過去を話したときに感じた彼女の温もり、それをこれからも本当に受け入れていいのか。それを考えると、やっぱり少し怖かった。

 私に背を向けていた彼女がくるりと回り振り返る。


「よし、じゃあ私はそろそろお暇しますかね!」

私の顔を見ながら微笑む彼女。その笑顔に私は惹かれ始めていた。


 もう一度くるりと回り彼女が再び歩き出す。「待って・・・」と言おうとしたが喉に声がつまり、うまく言葉が出せない。

 仕方なく、私は咄嗟に彼女の服の袖を掴んだ。

 後ろから急に掴んだせいで「うぉ」と驚く彼女。少しの間沈黙が訪れるが、まだ声が出ない。胸の内に思っていることをまだ言えない。


「どうしたの」と柔らかな声で話しかけられる。

息を大きく吸い込み固く閉ざした扉を開けるようにゆっくり、ただゆっくりと私は口を開いた。

「家出して・・・行くとこが・・・ないなら」

鼓動が早くなり、自分の心臓が自分のじゃないみたいだ。人は何か一歩踏み出す時、怖くてどうしようもなく逃げ出したくなる。

 でも逃げたところで結局何も変わらない。そう自分に何度も言い聞かせ、私は彼女がくれたきっかけに応えようと思った。


「私のとこにいてもいいよ・・・」

違う。こんな言い方じゃだめだ。私はもう一歩だけ必死に踏み出した。


「じゃなくて。私のとこにいてくれないかな?もちろん吉野さんが嫌じゃなければだけど。家に帰りたくなったらすぐに帰ってもいいから」

言うと彼女は私に向かって少しづつ近づいてくる。目の前まで来たとき何かされるのかと思い、私は視界をぐっと閉じた。


 次の瞬間、彼女は私をそっと抱きしめた。


「ありがと。そう言ってくれて私は嬉しい」

彼女の柔らかくて雪のように解けてしまいそうな頬と、艶のある髪が私の頬に当たる。そして、彼女から伝わる体温が優しくて心地いい。私も流れるように彼女を抱きしめた。

 その夜、月明りに照らされながらアスファルトの上にホウセンカの花が咲いた。主に夏に花を咲かせる花で冬に咲くことはまずない。

 けれど、季節外れのように確かに咲いた。

 赤くて花びらの一枚一枚が、まるで鳥が羽ばたいているかのように見える花。

 ホウセンカの花言葉は【開かれる心】

  


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ