野巫の祭 64
野巫の祭 64
交番から部屋まではすぐだ。
国際通りは夜の浅草の中心とも言えるから人通りも多く賑やかだが、一本入ってしまうと人通りは少なく、いや、皆んな店の中に収まっているのか。
さっきの八幡様のある通りを越して部屋に戻る。
しかし、何で今日に限ってあの前を通ろうとしたのかな。
普段は近寄らないようにしていたのだが。
ふぅ〜
一つ大きく深呼吸をする。
すっかり夜の空気に変わっていた。
マンションの入口で、また周りを確認して中へ入る。
エレベーターの扉が開くときも少し緊張した。
部屋の前でズボンの左前のポケットから鍵を出す。
「んっ⋯」
そういえば、さっきは右前のポケットに入っていたんだったな。
誰かが、救急隊員が入れてくれたのだろうか。
とりあえず鍵が無くなっていなくてよかった。
鍵を開けて中へ入るが、エアコンがつけっぱなしだったので冷んやりした空気が迎えた。
「ただいま⋯」
また返事がないのに言う。
部屋は冷えていて快適だが、今夜はこのまま一人でいたくない気分だ。
倒れたとは思えないほど体の調子は良くなっているし。
飲みに行くか⋯
そうなると、地面に倒れたままのシャツではなぁ。
一応、上だけは着替えていくとしよう。
シャツと肌着を着替えて、買ってきた品物を冷蔵庫にしまい、財布の中身を確認して玄関で靴を履く。
「ちょっとだけだよ。行ってくる。」
中に向かって声をかけて、また部屋を出た。
鍵を閉めて左前のポケットに入れる。
この動作を間違えることはない。
何で右前のポケットに入っていたのか。
腑に落ちないが、とりあえずは今夜のお店をどこにするか考えよう。
エレベーターで一階に降りて、また周りを確認するが、人気はない。
でも街中へ行くのも気がすすまないので、静かになっている合羽橋道具街の先に行くとしよう。
とは言っても目的のお店はすぐそこなのだ。
道具街を左に曲がり浅草通りに出て、交番の前で上野方面へ。
右側に親子でやっている居酒屋がある。
今夜はここにしよう。
引戸を開けて中に入ると、すでに会社帰りの人でいっぱいになっていた。
「一人だけど、いい?」
「はい。どうぞ〜」
カウンターの一番端に席が空いていた。
おしぼりと箸が出てきて、さっきまでのことで脂汗をかいていた顔をまず拭いた。
「お飲み物はどうされますか」
おしぼりで顔を拭きながら
「あぁ、ビール。生をください。」
「はぁ〜い。」
ビールはすぐに出てきたが、一瞬飲むのをためらった。
さっき倒れたのに大丈夫だろうか。
まぁ今更なのだが一応心配なので少しずつ飲むことにしよう。
軽く一口飲んだ後に
「すみません、ねぎま2本とレバーを2本。どちらもタレで。」
「はぁ〜い。」
突出しの枝豆を口に入れながらテレビから流れるニュースの音を聞いていた。
今夜も東日本大震災の話題だ。
このところ被害の大きさから避難先での生活の問題が多くなってきたな。
巨大地震と、それによって沿岸地域を襲った大津波。
直接被害に遭われた地域の方々の惨状は計り知れないことだろう。
それはもちろんだが、日本中が被害に遭ったかのような世の中の激変があった。
自然災害に対する恐怖は人の心に大きく残った。
また、福島第一原発の事故によって文明社会の脆弱さを社会全体に叩きつけられもした。
電気の無い生活が、これほど困難なのかと思い知らされもした。
物資が無い。
ガソリンが無い。
電気が止まる。
これだけで今までの日常は簡単に非日常になった。
都心部は輪番停電は無かったが、それでも信じられないほど静かになっていたものだ。
今こうして灯りの下で冷えたビールを飲む。
ということも去年の夏は「普通」ではなくなっていたな。
毎日気にしていたのは実のところ被害にあった現地のことではなく、電力消費量の予想だった。
被害地域のことを考える余裕が目の前の明かりが消えることで失われていたのかもしれないな。
他人を思いやる。
それがどれほど大切でも、心底打ちのめされた社会では流されていったように感じる。
そういう自分も、故郷であろう浪江町のことに想いを馳せたのは今になってからだからな。
そんなことを考えながら焼鳥を食べつつ2杯目のビールを頼み、避難所の情報を伝えるテレビの音を聞いていた。




