水の音・18
連休の最終日とあって、居酒屋はあまり混んではいなかった。小さな個室に通された俺たちはそれぞれに好きな酒を注文して、再会に、と乾杯の音頭を取った隼人のグラスに自分のグラスをあわせた。
「兄貴が、年明けたら時間出来るから会おうって言ってたぞ。二人によろしくって」
「まじ? じゃあ新年会やろうかな」
「淳すごいよねえ。やっぱりお医者さんになるんだねえ」
ヒロはそう言ってワインの入ったグラスを傾けた。憧れるような目を中空に漂わせ頬杖をつき、ほう、と息を吐く。
確かに兄貴はすごい。なにがすごいって、親にいちども医者になれと言われなくてもその道を選んで、着実にその将来を掴むために努力出来るところが、だ。
俺は逆に、あれこれと口を出され世話を焼かれながらも勝手なことをしている。こんな歳になっても相変わらずハリウッドだ何だと夢を語る俺に、両親もたいがい呆れているはずだ。
「うちの親の病院って専門が脳外科だからさ。やっぱそっち目指してるんだとよ。まだまだ人間の脳には不思議が詰まってる、とか何とか」
「脳、ねえ。まあ不思議っちゃあ不思議だけど、難しいことはわかんねえなあ」
「僕まえから疑問だったんだけどさ、ものを考えるのは頭なのに、胸なんか苦しくなっちゃうのは何でなんだろうね」
その言葉に、隼人は一瞬ヒロの目を見る。ヒロは不思議そうに首を傾げて、どうしたの、と笑った。隼人は首を横に振って、ビールの入ったグラスを傾けた。
ヒロの言いたいことはわかる。勉強なんかしていて痛くなるのは頭なのに、恋愛のことなんかになると胸が痛くなったり苦しくなったりする。これは果たして、どういう事なのか。
「まあその辺りも兄貴がいつか解説してくれんじゃね? 今ならたぶんこう言うよ。『ヒロくん、それは俺にもわからないよ。いつか教えてあげられるといいんだけど』」
「智也そっくりー! 顔も声も言い方もそのまんまだー!」
手を叩いて喜ぶヒロに気を良くした俺は、その後も何度か兄貴のものまねをやった。三度ほど繰り返したところで飽きられてしまったのか、ヒロは苦笑いを浮かべて曖昧に頷くだけになってしまった。あんまりしつこいと嫌がられるらしい。その様子を見ていた隼人は眉を下げて笑い、ビールおかわり頼んでて、とヒロに告げて腰を浮かせた。
「ちょっとトイレ。智也、俺のぶん食うなよ」
「なんでヒロには言わねえんだよ!」
「ヒロはいいの! お前はだめ!」
しっ、しっ、と手をひらひらとさせながら席を立った隼人の後ろ姿を睨んで、座卓の向こうに座るヒロに視線を戻す。ヒロはにこにこと笑いながら、隼人に手を振った。
「ヒロ、ワイン好きなの」
「うん。隼人がね、誕生日に僕の生まれ年のワイン買ってきてくれて。そのとき初めてお酒飲んだんだけど、おいしいなあって」
「あいつほんっとヒロばっかりだな。呆れるわ」
自分の誕生日は忘れるくせに、大切な人の誕生日には生まれ年のワインを用意するという周到さ。もう、わけがわからない。
ヒロは俺の言葉に楽しそうに笑って、座卓に備え付けの呼び出しボタンを押した。俺になにか注文するかと尋ねるヒロにおかわりを頼んで、グラスの底に張り付くようにして残っていたビールを飲み干した。
「なあ、聞いていい?」
「なに?」
「……さっき言ってた、友達の母親のこと。元気だったけど、の続きが気になって」
ヒロはちらりと隼人の出て行った方を見てから、戸惑ったように俺を見上げる。言いたくないのか。
「あ、違う。気になるけど、言いたくなかったら別にいいよ」
「言いたくないんじゃないよ。ただ、隼人が黙ってたから。しんみりしちゃうしね」
「しんみりしちゃう話なのか」
「たぶん」
ヒロはそう言って、箸の先で煮物をつつくようにして摘んだ。
「……わかんなかったんだよ、隼人のこと。それだけじゃなくて友達のこともね。アルツハイマーっていうんだっけ、どんどんいろんな事忘れちゃうんだって。もともと大きな病気でもう長くないらしいんだけど。単調な入院生活がいけなかったのかなって友達は言ってた」
「アルツハイマー……。よく、聞くな」
「うん。よく聞くよね。それもすごく落ち込んでたんだけど、なんか自分たちに重ねちゃったみたいで」
それはやっかいだと思った。あの、何も考えていないような顔をしてめちゃくちゃ悩み倒す隼人のことだ。今頭の中でぐるんぐるんいろんな不安が渦巻いているに違いない。
黙り込んだ俺の気持ちが伝わったのか、ヒロは苦笑いを浮かべて、ね、と呟いた。
「若年性のアルツハイマーっていうのもあるって聞くし、不安になったんじゃないかな。もちろん僕だって不安だけど、死んじゃうよりはいいんじゃないかなって思うんだ」
「ええ……、そりゃ考え方だろうけど、俺はぜんぶ忘れちゃうくらいなら死んだって同じだと思うなあ。だって、ゼロになるわけだろ? 今まで生きてたこととか、関わった人とか。それって生まれ変わるのとどう違うんだよ」
「本人にとっては……やっぱり辛いだろうから、そうなのかもしれないけど。周りの人にとってはね。生きてくれてるだけでいいって、僕は思う」
ヒロなら。ヒロならもし隼人がすべてを忘れてしまっても、大丈夫だと心底思えるのかもしれない。それでも幸せなんだと笑って、日々首を傾げる隼人に大切なことをまた、いちから教えてやることが出来るのかもしれない。
「生きてるだけで、ねえ」
その時店員が注文を取りに来て、ヒロはワインとビール、それから隼人が好きだというつまみをひとつ注文した。
隼人が席に戻って、妙にしんみりしてしまった空気を抱えた俺たちを不思議そうな目で見ていた。
「智也はカメラマンになるんだと思ってたけど、映画監督目指すの?」
「え? ああ、あー、監督っつーか、映画作り。まあ、先は長いけどいつかやれたらいいなって思ってるよ。特撮とかやってみたいんだ」
突然話が変わって驚いた。切り替えの早さは天性のものなんだろうけど、俺は時々それについていけない。さっきまで伏し目がちにしていた顔を上げて、きらきらした目を俺に向けている。
「特撮ってあれか。ゴジラとか」
「古っ。まあいいや、そういう感じ。あと戦隊ものとかね、俺すげえ好きなんだ」
「なんか智也らしいねえ」
ゴジラなんて古いものを持ちだした隼人に苦笑いして、店員の持ってきた酒を受け取って回した。つまみの皿を受け取った隼人はヒロに目配せして、へらっ、と笑った。本当はこいつは何も考えていないんじゃないのか。
「ヒロはカメラマン志望? なに撮ってんの?」
「僕、報道志望。そううまい具合にはいかないと思うけど、いつかはね」
「報道? ヒロが? パパラッチやんの?」
一瞬で乏しい知識をかき集めたけれど、俺が知っているのはそのくらいの事だった。
ヒロは楽しそうに笑って、パパラッチじゃなくてね、と隼人の顔を見上げた。隼人はヒロを穏やかな目で見下ろし、頷く。二人の間に流れる空気はいつもこんなふうに、柔らかい。
「カンボジアとかアフリカとかの写真を専門にしてる人がいてね。その人が在籍してる報道機関に、アシスタントとして来てみないかって。卒業したら新聞社に就職して、勉強してから行こうと思ってるんだ」
大学に入った頃に初めて足を運んだ個展で、その人の作品に衝撃を受けたらしい。気になったら動かずにはいられないヒロはすぐにそのカメラマンに連絡を取った。ヒロの作品に目を通したその人は少し考えて、卒業したら自分の所に来てみないかと誘ってくれたのだと言う。
海外の報道なんて、テロや戦争ばかりを思い浮かべる。危ないんじゃないのかと尋ねる俺に、そういう場所には行かないよ、と笑ってみせた。
「じゃあお前ら、また離れんの? せっかく一緒に暮らし始めたのに」
十年越しの想いを実らせ、七年ぶりに再会を果たした二人だ。どうして今更そんな、わざわざ離れてしまうような事を。
俺の疑問に、隼人は不敵な笑みを浮かべて鼻息を吹きかける。何だそのドヤ顏は。そんな距離なんてもう自分たちの前では意味がないとでも言いたいのか。
「俺も行くんだよ。作詞作曲なんてどこだって出来る。それに俺は、死ぬ時は畳の上でって決めてんだ。ちゃんと戻って来るさ」
「またそんな事言って。別に危ないとこに行くわけじゃないんだから、そんなの今関係ないだろ」
唇を尖らせながら諭すヒロに、隼人は苦笑いを浮かべてみせる。死ぬなら畳の上で、なんて。危険を承知で行くんだと言っているようなものだ。
眉間に皺を寄せた俺を、ヒロが戸惑ったように見上げた。余計な心配をしてしまったのが伝わったのか、小さな声で、大丈夫だよ、と呟いた。
「まあ、でもまだ先の話だよ。それまでだって何がどうなるかわかんないし、新聞社で大活躍して引く手数多になって、それどころじゃなくなるかも!」
「なに言ってんのお前」
呆れたように抑揚のない声でそう言って見下ろした隼人に、ヒロは子どもみたいに口を横に広げ、いひひ、と笑ってみせた。
「まあ、危険なとこ行かないんだったら心配しねえけど、危ない事するなよ」
「わかってるよ。それに、そんな長い間って訳じゃないし。二年とか、三年とか。そしたら帰ってまた普通に仕事するんだ」
二年か三年。それが長いのか短いのか、俺にはよくわからなかった。ただ、その間二人に会う事が出来ないんだと思うと少し、寂しかった。そんなこと絶対言ってやらないけど。
隼人は、ヒロについて行くんだと言った。こいつは本当に昔からなにひとつ変わっていない。躊躇いもせず、息をするようにヒロのためだけに生きている。
ヒロがいなきゃこいつの人生は一体どうなっていたんだろうと思う。きっと幸せな家庭を築いて、今頃子どもの一人や二人くらいいたのかもしれない。
「お前、ばかだろ」
「よく言われる」
「よく言われてるね。慣れた?」
「慣れた」
思い切り呆れたのが伝わるように言ったのに、ちっともダメージを食らっていない様子の隼人にまた呆れる。そんな隼人に慣れた様子のヒロにも、更に呆れる。
「……もう、お前らさあ」
「ん?」
「智也、お酒進んでないよ。飲まないの?」
「……なあ、なんで今日海に行ったの。あんな寒いのに」
あれこれ言っても仕方がないと諦めて、話題を変えた。これ以上この話をしていても、何だか腹が立って仕方がないだけだ。俺がなにを言ってもこいつらは考えを改める事はないんだろう。暖簾に腕押し、糠に釘、だ。
「ああ、水の音を聴きに行ったんだよ」
「水の音?」
さらりと答えた隼人に聞き返したら、ヒロが小さく頷いて口を開いた。
「中学生のときの友達がね、結婚したんだ。それで、お腹の中に赤ちゃんが居るって聞いた話からはじまって」
静かに話を始めたヒロの隣で、こんどは隼人が頷いた。片手で頬杖をついて、やわらかな目でヒロを見つめる。
「赤ちゃんってお腹の中にいるとき、ずっと水の音を聴いてるんだって誰かが言ってたのを思い出して。おなかの外から聴こえてくる音なんかは波の音で、耳のすぐそばでは水の中の音なんだって。ほら、プールなんかで水に潜ったら空気が上がる時音がするでしょ」
想像して何だか息苦しくなってきた。思わず喉のあたりを抑えたら、ヒロは何だか楽しそうに笑った。
「僕も隼人も、智也だってお腹の中にいるときその音を聴いたんだろうって。だから、行こうかって話になったんだよ。ごめんね、強引に連れてっちゃって」
「……強引も強引。死ぬかと思ったぞ」
ぶるっ、と肩を震わせたら、隼人が俺を見上げた。「情けねえな」そう呟いて、苦笑いを浮かべる。
プールに潜って、水の中から空を見上げたことがある。
ゆらゆらと揺れる水面に太陽の光が反射してきらきらと光った。
うすいブルーの世界で、吐き出した息がまるくなって、まるで天国へ向かう大切な誰かの魂のようにゆらゆらと水面に向かい、弾ける。はじめからそこに何もなかったように静まる水の中、妙に寂しい気持ちになったのを覚えている。
こぽこぽと耳元で音がして、まるで世界にたった独りになってしまったように感じた。だけどどこか懐かしさを覚えたのは、きっとそういう事なのかもしれない。
「お腹の中、ね。そっか、みんな同じ音聴いてたのか」
「いや、ほんとのところはわかんないよ。だけどそう聞いたから。水の音を聴くとリラックスするって言うだろ。あれってそういう根拠があるのかもしれないなあって思ってさ」
「アルファー波が出るとか言う、あれだよ」
隼人が口を挟むと途端に信憑性がなくなるのはどうしてだろう。眉間に皺を寄せてちらりと顔を見たら、不思議そうに首を傾げられてしまった。
「ふうん。で、聴いてみてどうだったんだよ。水の音」
「うん、よくわかんなかった。けど波の音は好きだよ」
「何だそれ。寒がり損じゃねえか」
正直なヒロの感想に呆れた顔を作ってみせたけれど、そんな疑問を抱いてわざわざ冬の海に行こうと思い立つ二人が、何だか羨ましく思えた。
きっとこの二人はこれからもずっと、こうして生きていくんだろう。
晴れた日には空を見上げ流れる雲を見送り、雨の日には雨音に耳をすませる。懐かしさを感じたくて水に潜り、お互いの手を取り合って笑うんだろう。
「ヒロ、ここついてる」
「え、どこ」
「ん」
「ちょ! 何やってんだ!」
ぼんやりと二人の行く末に思いを馳せていた俺の目に信じられないものがうつった。思わず大きな声が出る。
なにかのタレがついてしまっていたヒロの口の端を、隼人が躊躇いもせずに舐めた。いくらなんでも、俺の前で。俺の目の前で。
「ああごめん。つい癖で」
「もう、ばかじゃないの隼人。人前でそういう事するなって言ったろ」
「なんか目眩してきた。きついわ……」
くらくらと視界が揺れたのは酒のせいじゃない。額に手をあてて俯く俺を、ヒロは本気で心配している。隼人は大きな声で笑い、そろそろ行くか、とヒロに手を伸ばした。
駅前の小さな商店街は既にシャッターを下ろしてしまっている。つめたい北風に、置いてけぼりにされたようなのぼりがはためき、その存在を主張するように風の音を立てる。
駅のロータリーにいくらでもタクシーは停まっていたけれど、少し歩こうと提案したヒロに賛同して、目に入ったコンビニで買った缶コーヒーを片手に静まり返った町を歩いた。
「さーみぃな。うお、星めっちゃ出てる」
「ほんとだ。きれいな月だねえ」
そう言って俺と同じように空を見上げたヒロに、月が綺麗ですね、と隼人に告げたという話を思い出した。
「お前、月が綺麗ですねって隼人に言ったんだって?」
「えっ。ちょっと、なんでそんなこと知ってんの?」
ヒロは口元を歪めて俺を見上げ、少し後ろを歩く隼人を振り返り、また俺の顔を見た。俺に知られていたのが恥ずかしかったのか、微かに顔が赤くなっている。
「……でもあれって、智也が隼人に教えたんでしょ?」
「兄貴が言ってたの思い出してな。別に深い意味があって教えた訳じゃねぇけど、まあ、教えてて良かったって訳だ」
意味が通じなかったらそれはそれでまた策を練ったんだろうけど。
「なに話してんのー。俺も混ぜて」
「なっ、何でもない! 隼人はあっち行ってて!」
「は!? なにそれ寂しいだろ! ぐあっ!」
隼人は駄々をこねる子供みたいにヒロに纏わりついて肘鉄を食らっている。痛そうな声を上げたけど、スルーされていた。
「あ、ねえ智也。お願いがあるんだけど」
「あん? なに、言ってみな」
ヒロは斜め下から俺を見上げ、躊躇いがちに口をひらく。
「送ってくれた写真、前に持ってた携帯にも入れてたんだけどさ」
「うん。なに、もっかい送ろうか?」
「さっき言ったのも送ってほしいんだけど、もういっこ、結構昔のなんだけどいいかな」
昔の。
俺とヒロの時間の感覚には何となく、ズレがある。ヒロが「ずいぶん前」なんて言って話し出した内容が、つい三ヶ月前の事だったり。
それは、隼人を想い待っていたあの時間がヒロにとって永遠にも思えたということなんだろうか。
「今日行った海で智也が撮ってくれたやつ。僕が長野に行ってすぐ送ってくれたでしょ」
「あー、えーと、うん。隼人が間抜けな顔してるやつな」
「てめ、間抜けって言うな!」
ばかと言っても怒らなかったくせに間抜けで怒るのか。隼人は俺の肩を掴んで、凄んでみせる。そんなことしたって恐くない。ふん、と鼻息であしらったら、ものすごく嫌な顔をされてしまった。
「僕、ずっとあの写真が入ってた携帯お守りにしてたんだけど、どこかで落としちゃって。探しても、どうしても見つからなくてね。せめてあの写真だけでも手元にあったらなあ、って」
「あのさあ、そういうことメールとか電話でもいいから早く言えよ。別に俺めちゃくちゃ忙しくしてる訳じゃねえし、そんくらいパパッと出来るからさ」
眉間に皺を寄せてそう言ってみせたら、ヒロは苦笑いを浮かべて頷いた。変に遠慮されてしまうと、何だか寂しい。俺たちがここで一緒に過ごしたのはたったの二年と少しだったのかもしれないけれど、俺なりにヒロと真っ直ぐに向き合ったつもりだった。
長野に何度も足を運んだのも、その距離がひらいてしまうのが怖かったからだ。ずっと繋がっていたいと思ったんだ。ヒロと、隼人に。
「僕、智也の写真すごく好きだよ。なんかあったかくて、安心する。愛情をたくさん貰って育ったんだなあって。智也の優しさっていうか、そういうのが滲み出てるよね」
「……え、何だそれ、なに、いきなり俺持ち上げられてる。ちょ、隼人! 助けて、照れる!」
「はあ? 素直に喜べよ。ばかじゃねえのお前」
後ろを歩いていた隼人にしがみ付いたら、妙に呆れた声でそんな事を言われた。ヒロは楽しそうに笑っている。
勘弁してほしい。俺は褒められ慣れていないんだ。体中が痒くなった気がして、コートの上から背中をボリボリと掻いた。
「智也が色んな写真送ってくれなかったら、写真勉強しようって思わなかったし。だから、ありがとうね」
俺はずっと、誰かにこんなふうに言われたかったのか。妙に嬉しくて、にやにやしてしまう。
「顔面崩壊。ヒロお前たいがいにしとけ。溶けるぞ、こいつ」
「じゃあもうちょっと褒めようかな。面白そうだから」
「マジ無理、勘弁して」
駅前通りを抜けて、アーケードに入る。シャッターを下ろした小さな楽器屋の前で、隼人とヒロは顔を見合わせ笑い合った。
俺の知らない、なにか小さな想い出がふたりの中にあるんだろう。
「虹が見たいね」
「うん。虹、見たいな」
二人が呟く。そうして、振り返って笑う。
「思い出ってのはなあ、かたちに残せるもんだけじゃねえだろ。何となくぼやーっと心の奥に残ってて、それで充分だってのも、ある」
「ぼやっと……。お前、もうちょっとなんか言い方なかったのかよ」
「あー、じゃあ、微かに? 霧みたいに? 雲か?」
アーケードの中に、大きな椰子の木をベンチをぐるりと囲んだだけの休憩場がある。そこに三人並んで座り、すっかり冷えてしまった缶コーヒーを開けた。
隼人は顎に手をあてて、考えを巡らせるように眉を顰め視線を上げる。ヒロはそんな隼人を見上げくすくすと笑って隼人の肩に寄りかかり、目を閉じた。
「霧やら雲って、消えちゃうだろ」
「ばーか。完全に消える訳じゃねえよ。ちがう形でまた思い出すんだよ」
「ふん、まあでも、思い出せなくなる時もあるんだろうな」
言ってから、しまったと思った。そうだ、隼人は友達の母親のことで不安になっていたんだった。これでまた悩み始めたらやっかいだ。めんどくさい。
「……聞いたの、ヒロに」
「あー……まあ。少しな。少しだぞ」
隼人が話したくなさそうにしていたのを知っていてヒロから聞き出したから、気まずい。ヒロをちらりと見たら、既に静かな寝息をたてていた。こんなに寒いのに、信じられない。
隼人はヒロの手に握られていた缶コーヒーをそっと外し、ヒロの体を支えながらベンチの脇に置いた。こと、と乾いた音が人気のないアーケードに響く。
「思い出せなくなった記憶って、どこ行くんだろうな」
隼人は顔を上げながらそう言って、長く白い息を吐いた。ふわふわと漂う間もなく、それは闇に消えていく。そんなふうに、忽然と跡形もなく消えてしまうんだろうか。今こんなふうにしている瞬間のことも、あの時に感じた痛みも、暖かさも。
「わかんねえけど……」
じり、と靴の底で砂が音をたてる。
「そんなのいくら考えたってわかんねえけど、俺がしっかり覚えててやるよ。お前たちのこと」
そう言って見上げたら、隼人は真っ直ぐな目を俺に向けて曖昧に笑う。
「お前らがお互いのことわかんなくなったって、俺が覚えててやる。そんでまた俺が教えてやるよ。お前らみたいなばかが居た事なんか、どうやったって忘れらんねえからな」
「ばかって言うな」
「言われ慣れたんじゃなかったのかよ」
「なんか今腹が立った」
「何だよそれ」
腹が立った、と言いながら隼人は嬉しそうに笑った。何だかつられて緩んでしまった頬を隠さずに手を差し出したら、隼人はその手を取って強く握った。
二人が海外へ旅立ったのは、それから四年後の事だった。
無事立派なカメラマンになったヒロは隼人とともに空港に現れ、集まったたくさんの友人たちや両親に見送られ、日本を後にした。
海の近くに小さなアパートを借りたという二人は、たくさんの写真と手紙を送ってくれた。
毎日波の音を聴いて眠るのがとても幸せです、と書かれた手紙には、小さな貝殻の写真が添えてあった。いつかヒロに、大事にしてね、と手渡された桜貝をその上にそっと乗せる。あの日聴いた波の音が、耳元に蘇った気がした。
二人は今、あの音を聴いているんだろうか。
手紙には、ふたりが海辺で並んで笑っている写真も入っていた。すこし陽に焼けたヒロが幸せそうに笑い、隼人と手を繋いでいる。そのうしろに広がる海は、どこまでも青かった。
紙とペンを取り出して、二人に返事を書いた。俺は元気だから早く帰って来い。やっぱり少しだけ、寂しい。
ポストに投函して、高い空を見上げる。飛行機雲が、はるか向こうの空まで続いているのが見えた。
こんどは寒くない季節に海に行こう。そう続けた文面に、隼人はまた苦笑いを浮かべるんだろう。二人で肩を寄せあい手紙を覗き込む姿が簡単に想像できて、頬が緩む。
いつかまたあの海に、水の音を聴きに行こう。
いつか来るその時に、この写真と同じように二人の手が繋がれていますようにと、長い長い飛行機雲に願いをかけた。
『水の音』完結です。
春に書き始めてはや八ヶ月。季節は春から冬に変わりました。
長かった……。
活動報告のほうにも書きましたが、この『水の音』は以前にとあるサイトで掲載していたことがあるものに枝葉をつけ根を伸ばし、もさもさと生い茂らせたものです。
元々はもっとあっさりした作りになっておりました。流れはだいたい一緒ですが、キャラに厚みを持たせ、ストーリーに色々と理由付けをした感じです。
さて『水の音』如何でしたでしょうか。
私なりに試行錯誤をかさね、私なりに一生懸命書き上げました。いつか読み返したときにきっと色んな粗が見えるんだろうし、稚拙だなあとため息を吐くこともあるだろうけど、それでも私にとっては、大事な作品になりました。
完結、と銘打ったとき、物語というのは独り歩きを始めます。これから隼人は、ヒロは、智也や淳はどこへ行くんでしょうか。
誰かの心の隅にそっと居座り、どこかで微かにでも思い出してもらえると、そこでまた息を吹き返し動き始めます。
だから彼らは私の中ではずっと物語を紡ぎ続けています。
拙い作品で、誤字脱字や文法的な間違いや矛盾も山ほどあったかと思います。時々読み返しては修正をしております。
その際にはなるべく、これまで続けて読んで下さっている方に失礼のないように物語の本筋には影響がないように気をつけております。
矛盾ができてしまっている箇所についてはその限りではありません……そこはお許し下さい。
もし誤字脱字等目に余る箇所が見つかりましたら、ご面倒でなければいつでもお知らせください。活動報告でも感想でも、メッセージでも。
あまり厳しいご意見は凹んでしまいますが、耐え忍ぶ覚悟は僅かながら用意しております。どうか奇譚のないご意見、ご感想をいただけたらと思います。
凹んだあと、ひっそりと傷を癒しながら勉強して、また復活します。きっと。
次回作はまだ構想が固まってはおりませんが、じっくりと世界をつくってからまたこちらで書かせて頂きたいと思っております。
その際は、是非ポチっと、ポチポチっと、読んで頂ければ有難いです。
長くなってしまいましたが、長いあいだ読んで下さった皆様、応援して下さった方々、励ましの言葉を下さった心優しい皆様に、感謝。
ほんとうにありがとうございました。
いつかまた、お会いしましょう。
さくら。
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水の音番外編「いっしょに帰ろう」
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水の音番外編2「君とクリスマス。」と「ツキノアカリ」
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