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第十八話 一難去っていないのにまた一難かよ

無断転載・複製・商業利用禁止。

本作品の著作権は作者個人のものとする。

本作品はフィクションであり、実在の人物・団体・事件とは関係御座いません。

※本話には暴力的な表現や流血描写が含まれます。苦手な方は閲覧をご遠慮ください。

パワハラ上司がもうとっくに見慣れた鬼の形相を俺に向ける。

「お前はよぉ、本っ当に仕事ができねぇなあ!この件は変更になったって一昨日、伝えただろうが!無能め!」

(伝えられてねぇよ!)

とは言い返せないが、事実、伝えられていないから理不尽だ。

「すみません、今後は気をつけます」

頭を下げるが、それでも頭上で威圧的な説教は続く。

以前ならば、どれだけ理不尽でも真面目に説教を聞いて、無能な自分が悪い、できない自分がおかしいのだと己を責めた。そして、どんどん自己嫌悪の泥沼に嵌り、さらにそのうえから不要なほどの責任感や罪悪感、辛さが積み重なり、抜け出せなくなっていった。心が、沈んでいっていた。

けれど、今は違う。

理不尽で不愉快だと思うのは変わらないが、今はもう、自分さえもが自身を理不尽に責めたりはしない。パワハラ上司なんかに流されて、視界を狭めなどしない。

六葉さんが生活を支え、心を癒してくれたお陰で俺は救われ、変われた。

(俺は自分ができる精一杯の仕事をした)

『ほど良く力を抜いて、八割くらいの力で仕事をしろ』、と仕事を押し付けてくる同僚や、嫌味ったらしいマウントを取っては見下してくる友人から言われたこおがある。

その言葉は正しいのかもしれないし、できることなら俺自身、そうしたい。当然、全力を出し続けると疲れすぎてしまうからだ。仕事は、短距離走ではあるまいし。

しかし、ブラック企業において、それは叶わない。

それでも自分なりに頑張っている。

そして、そんななか初めて仕事をしていて良かったと思えることがあった。

引越しを決意したのだ。

そのための貯金は、仕事を真面目にしていたお陰で充分だ。

あっという間に楽しい時間は過ぎて、気がつけば六葉さんと同居生活を始めてから半年が経とうとしていた。

正直、もっと早く六葉さんとはお別れになってしまうと思っていた。

最近は、家賃や光熱費、食費等はほぼ折半で、六葉さんは相変わらずバイトを続けており、その収入を前述した部分に自主的に捧げてくれるのだ。断っても『自分の分は自分で払わないと!』と生真面目な返答。

バイトを掛け持ちしているのか、最近は特に忙しそうにしている。

そもそも一人暮らしの狭い家の家賃を二人で折半するのもどうかと思うと伝えたが、払わないと六葉さんの気が済まないらしい。

と、いうわけで引越しをしようと思う。今の1Kの狭いアパートの一室はそもそも二人暮しには向いていない。むしろ、約半年間、そのまま住んでいたのが不自然だったのだ。

いつ六葉さんが家を出て行くかはわからないが、彼女がいなくなるのを前提に、一人暮らしでも二人暮しでも、どちらでも問題の無い家に引っ越そうと思っている。アパートかマンションで、間取りは1LDKが有力候補だ。

肝心の家探しはまだ始めていないが、近々、六葉さんと相談して決めたいと思っている。

一人暮らしを始めてから初の引越しは、俺にとっては大きな決断だった。

充分な資金や六葉さんのお陰でできた精神的な余裕のお陰で前向きにその決断ができたのだ。

ブラック企業での辛さが無くなった訳でわけではなくとも、以前よりは圧倒的に晴れやかな気分だ。

そんな順調にも思える中、ただ一つの問題⋯いや、疑問がある。

俺にとっては嬉しいことだが、六葉さんが、家を出て行くという話を全くしないことだ。

今は生活費等を半分払っているとはいえ、だからと言って黙って住み続けようと考えるのは、六葉さんの性格上、図々しく申し訳ないことだと判断するはずなので、ありえない。

(なら、どうして何も言わないんだろう。人間社会を知れたら出て行くという話だったよな?)

彼女は適応力が高く、物覚えも早い。どこからどう見ても、とっくに人間社会には慣れている。

思いがけず半年間という長い時間を共に過ごせて、俺にとってはラッキーだった。精々が長くてもその半分程度の時間だと思っていたのだ。

(嬉しいし⋯まぁ、大した疑問じゃないよな。そのうち聞けばいいんだし)

そうして、今までは真面目に聞いていたパワハラ上司の説教を、人生で初めて右から左へと聞き流すのだった。


退勤後、いつも通り電車に乗って自宅の最寄り駅で降りた後、駅からすぐ近くの普段は行かない横道に入った。その一角に丁度、新しくオープンしたケーキ屋があると、帰宅中の電車内にてスマホで見たからだ。

そこでケーキを買うと、良い考えが浮かんだ。

(この時間までまだお店が開いていて良かった。帰ったら六葉さんと一緒に食べながら引越しについて話してみよう)

六葉さんは甘い物が好きだから喜ぶだろうと思うと、彼女が喜ぶ顔を見るのが楽しみでニヤけそうになる。

平静を装って退店し、早く家に帰ろうと、横道を出ていつもの帰路に着こうと歩き出した。

横道を出ようとした瞬間、逆に横道に入って来た数人の若い男性グループのうちの一人の肩に、自分の肩がぶつかった。

反射的に避けたつもりだったが、避けきれなかったようだ。

「あー痛ってぇ!テメェ何、肩ぶつけてきてんだよ!?」

「えっ、あ⋯すみません」

ケーキ屋以外の周囲の店はほとんど閉店しており、街灯などの灯りも少ない路地。

暗くて最初はよく解らなかったが、よくよく見ればタトゥーを全身に入れたゴツい男性達だった。

しかも、酒の匂いを強く放っていた。

(やばっ⋯いつもの道なら人通りもあるし、早く逃げよう!)

見るからに危なげな連中から逃げようとすると、先ほど、声を荒らげた男に肩を掴まれた。

(力、強っ!)

俺が動きを止めた隙に他の男達が俺を取り囲んだ。壁と体格の良い男共に囲まれてしまっては、もう逃げ場は無い。

「逃げようとしてんじゃねぇよオッサン!!」

「あの、本当にすみませんでした⋯」

「すみませんじゃなくてよぉ、もっとちゃんとした誠意を見せろよぉ!」

「そ、それってつまり⋯」

「バーカ!慰謝料に決まってんだろーが!慰謝料五百万だよ!早く寄越せよ!」

「五百万ってwふっかけすぎだろ」

「オッサン可哀想〜!てかヒョロくて弱そうwしかも貧乏クセェけど、金そんなに持ってんのかよ?」

大きい声、粗野な口調、威圧的な態度。

パワハラ上司の説教を思い出す⋯が、それよりもさらに恐ろしい。

(この時代にまだこんなのがいるのかよ!?どうすれば⋯声をあげれば誰か警察を呼んでくれるよな!?)

バクバクと嫌な鼓動を煩く耳に響かせる心臓。

情けなくも微かに震える足。

「鞄に入ってんだろ?オラッ!」

男が無理矢理、俺の鞄を奪おうとして、つい反射的に鞄を抱き締め、ケーキの箱の持ち手もギュッと握った。

(あっ、マズい)

直感したが、意味はなかった。

「⋯テメェ、何、抵抗してんだよ!」

男が一際大きく声を荒らげ、拳を振りかぶる。直後、左頬に強い痛みを感じ、視界が揺れ、足がよろけた。

「ギャハハハハッ!やばっ!弱すぎ!」

「抵抗したお前が悪いんだぞ〜」

「冴えないオッサンでストレス発散するかぁ」

「さっさと渡せば良かったのに、バカだなぁ!」

そこからは地獄だった。

四人人がかりで殴られ、蹴られ、倒れ込んでも全身を痛ぶられた。

痛い、痛い、痛い。

全身が痛い。泣きたい。情けなくて悔しい。恐怖のせいか、はたまた痛みのせいか、身体は動かない。

できることは、頭を両手で守るだけ。

(鞄なんて渡せば良かった。現金もそこそこ財布に入っていたけど、キャッシュレスの時代だし。俺の治療費、いくらになるだろう。流石に、死んだりなんかしないよな?クラクラしてきたし、ニュースで酔っ払いに暴行されて⋯みたいなの見たことあるけど⋯)

嫌な考えに、ゾッと血の気が引いた。

もし、俺が()()()()

いや、もし俺が死んでも⋯六葉さんは⋯。

「ぐああぁっ!?」

「な、何だこれ!?」

「落ち着け!よ、酔っているからだろ!」

「クソッ!痛えなぁ!離せよ!?」

視界が霞んで何も見えないうえ、体中がズキズキと痛むのは変わらないが、振られ続けた暴力が止まったのは確かだった。

騒がしかった暴漢達の声もいつの間にか止まり、静かになった。

痛みで意識が遠くなっていく。

「⋯?」

何が起こったのか解らない。

暴漢達の様子がおかしかったが、誰かが連絡して、警察が駆け付けてくれたのだろうか⋯?

意識を手放す直前、ボヤけた視界の中に赤い光が二つ見えたのと同時に、知っている声が聞こえた気がした。

「______どうして、もっと早く教えて下さらなかったのですか」

それは六葉さんの声に似ていたが、優しい六葉さんが出すとは到底思えないような、冷たい声だった。


目が覚めた。

「痛っ⋯」

見覚えの無い白い天井を見て、ここは病院だと察した。

「雄二さんっ!」

ベッド横の椅子に座っていたらしい六葉さんが、立ち上がって身を乗り出した。

俺を心配して泣いたのだろう。目が充血しているし、瞼が腫れていた。

「六葉さん⋯俺、どうなったんだっけ」

「胸騒ぎがして…駅にお迎えに行く途中で倒れている雄二さんを、私が発見して救急車を呼んだんです」

「そうだったのか⋯ありがとう」

六葉さんの目に涙が溜まった。

「お礼なんてっ⋯いいんですよ」

六葉さんの涙を見ると、色々な感情が少しずつ込み上げてきたが、押さえ込んだ。

「あっ⋯ケーキ⋯六葉さんと一緒に食べようと思ったんだけどな」

「っ⋯ケーキは、箱ごと潰されていて⋯また今度、一緒に買いに行きましょう。他のお店でも良いですし、良ければ作りましょうか?」

「手作りのケーキか、凄いな⋯」

必死に涙を堪えているが、今にも泣きだしそうな六葉さん。

そんな六葉さんを安心させたくても、笑うことも明るい声を出すこともできない俺。

口角が上手く動かない。喉が閊える。胸が、苦しい。

「⋯?ここ、普通の四人部屋だよね?割と静かだね」

「あっ⋯今は問診中?とかで、誰もいないみたいです」

「そっか⋯あっ、会社に連絡しないと!」

「あっ、勝手ながら私がご連絡しておきました。途中で電話を替わってお医者様も上司さんとお話されて、当分の間、お休みするのを認めていただけました」

「あ⋯ありがとう。⋯ハハッ、怪我よりも入院費が痛いなぁ⋯なんて______」

俺の言葉の途中で、六葉さんの目から、ボロボロと大粒の涙が零れ落ちた。

「六葉さん⋯?」

「無理に笑わないでください⋯入院費なんて、私が払いますよ」

「え?いや、それはいいよ」

「いいえ!こんな酷い目に遭ってさらに入院費を払うなんて、雄二さんが気の毒すぎます!雄二さんがそんな辛いの、私が嫌ですっ⋯」

そう言った後、六葉さんは嗚咽を漏らして俯いた。

「六葉さん、俺は大丈夫だから⋯」

(俺だって六葉さんに悲しんでほしくないよ)

六葉さんを落ち着かせようと焦って言った言葉は、自らの心を締め付けた。

大丈夫なんて言葉は、まったくの嘘だからだ。

「雄二さん⋯」

六葉さんが、涙を拭って顔を上げた。

泣き腫らした顔で、笑った。

「辛いことは辛いと言っていいんです。言いたくないなら言わなくていいですし、もし吐き出して少しでも楽になれるなら、吐き出してください。ここには今、私と貴方の二人だけなのですから。私が、聞きますから」

あぁ、六葉さんは俺にとって特別な人だ。

君になら、何でも言える。

君だけは、俺を受け止めてくれると信じているから。

「っ⋯昨日、六葉さんのお陰でさ、上司に理不尽に怒鳴られても、昔より平気だったんだよ。暗い気持ちにならなかった」

押さえ込んでいた感情が、涙が、溢れ出す。

「折角⋯最近、幸せだったんだ。最高に良い気分でケーキを買ってさ、それで⋯酔っ払いの暴漢どもに絡まれてさ。今時こんなのあるのかよ、みたいな古い絡み方されてさ、飲み会で酔っ払った上司を超える奴、初めてだよ」

嗚咽が混じり、途切れ途切れで喋る。

喉が引きつって辛くて、それでも言葉は心から溢れ出す。

「痛くてさ、もう、大袈裟だけど死ぬんじゃないかとか思ってさ、もう気分最悪だった⋯気分最高から最悪まで落とされて、本当にムカつく」

汚い言葉でも、嗚咽混じりの聞き取りにくい言葉でも、六葉さんは俺と同様に大粒の涙を流しながら、偶に「はい」と相槌を打ちながら静かに聞いてくれる。

「ケーキ、食べながらさ、六葉さんと引越しの話をするのが楽しみだったんだよ!それを、それをっ⋯アイツらのせいで、台無しだ⋯」

怒りと悲しみで表情と喉が引き攣り、それが六葉さんに見えないように俯いた。

掛け布団の上に、大量の大粒の涙が零れ落ちて、直ぐにその辺りがビシャビシャになった。

「引越し⋯ですか?⋯あっ、いえ、お話するのは今でなくても大丈夫です」

「大丈夫、今、話させて」

六葉さんは自分の鞄からポケットティッシュを取り出して、俺に一枚、差し出してくれた。

それを受け取って鼻をかみ、呼吸を落ち着かせた。

「⋯今の家は狭いから、引っ越そうと思ったんだ。家賃は発案者の俺が出すし、もし六葉さんがどうしても出したいなら三分の一だけ払ってもらおうかとか、色々考えていたんだけど⋯ごめん、俺から話すって言ったのに、頭が回らなくて⋯」

「ゆっくりで大丈夫ですよ。今、一気にお話しなくても大丈夫ですから」

「うん⋯具体的な話は家でゆっくりしたいな。引っ越したら置き場所に困って買えなかったアウトドアグッズを買って、六葉さんの好きなピクニックに行きたい。俺も楽しいし⋯」

暗く落ち込んでいた気分が、六葉さんとの思い出を思い出すと、和らいできた。

「お引越し、賛成です。今のお家は、確かに二人では不便かもしれませんから」

六葉さんはニコリ、と少し力無く、けれど、嬉しそうに笑った。

「今言うべきか迷いましたが、私もお伝えしたいことがあるんです。⋯後にしたほうがいいですか?」

ドクン、と心臓が鳴った。

(もしかして、出て行く話?でも、引越しは賛成って⋯)

「⋯どうしたの?」

「実は⋯私、正社員になれました!」

「⋯」

⋯正社員?

「⋯えっ!?正社員??」

「在宅クリエイターとしてとある企業さんで雇っていただけたんです!仕事量はほとんど今まで通りで、家事などをするのに支障はありません。面接は緊張しましたが、雄二さんをお手本に頑張ってみました!」

「俺、面接の見本になるところなんてあったかな⋯いや、そんなことより就職おめでとう」

「ありがとうございます!これで、以前よりももっと雄二さんの負担を減らせます!」

「六葉さんはもう少し自分のためにお金を使ってもいいんだよ?」

「これが私のしたいことなんです」

無邪気な笑顔を見せられると、何も言えなくなる。

「そっか⋯あっ、だから最近、いつもより忙しそうだったんだ」

「はい。面接の準備とかで⋯」

おそらく、この半年間で単発バイトで経験を積み、同時進行で勉強もしていたのだろう。

(にしても、葉女の六葉さんが就職かぁ、凄いな⋯。戸籍とか色々どうなるんだろう⋯まぁそれは後でいいや)

「雄二さん、少しだけ手を握ってもいいですか?」

(えっ!?手を!?急に!?)

「う、うん」

「ありがとうございます」

六葉さんが、俺のだらんと布団の上に投げ出されていた右手を両手で優しく包み込んだ。

「二人でお引越しして、今まで以上に楽しいことをしたり、ゆっくり休んで癒されたりして、気分を新たに、幸せに過ごしましょう!」

相変わらず彼女は初心で、自分から手を握ったのに照れて頬を紅く染め、柔らかく笑った。

二人きりの病室で、そんな君にもう一度、また無謀な恋をした気分だった。

(惚れ直したというか、なんと言うか⋯とにかく、その笑顔と言葉は反則だよ)

気がつけば、どんなどん底からでも俺を引き上げてくれる。

泥沼だろうが崖下だろうが、どこにいても君が救ってくれる。

(嗚呼⋯眩しいな)

無意識に、俺に笑顔を取り戻させてくれている。

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