第九話 息って、空気って、こんなに清々しいものなのか
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仕事の日には決して履くことのないスニーカーを履いていると、いつものようにスーパーに買い出しにでもいくのかという気分になるが、今日は違うぞと苦笑混じりで胸中、自分にツッコミを入れた。
以前は買い出し以外で普段着を着ない毎日で、それ以外の目的でカジュアルな服を着て、歩きやすい靴を履く事が新鮮だった為、デート(仮)の実感が湧かないのだろう。
俺にとっての“いつも”とは⋯まず、堅苦しいスーツを着て、そして新品の時と比べ、割と直ぐに柔らかくなって履きやすくなった革靴を履いてフラフラと会社に向かうことだった。
ネクタイをどれだけ緩めても、シャツの首元のボタンを外しても変わらない息苦しさを俺に与える、“仕事着”。
カッチリとした作りのスーツや革靴により、表面上や形だけではなく、気持ちも仕事モードになり、頭が冴えて、心身がピシッとした気分になる。
それはまだ若い頃、仕事に邁進するには便利だった。しかし、いつの間にからかそれはまったくの別物になっていた。
若い頃と同様に、今でもそれらは“仕事モード”にしてくれる。しかし、それと同時に俺の息を詰まらせた。自身の体に沿ってカッチリと全身を包むそれらは、まるで⋯鉄の鎖のように全身に絡みつき、圧力をかけて首を絞め、肺を締め付けた。
スニーカーよりも硬い革靴は文字通り、足枷そのもののようだった。履いた瞬間、会社という地獄に行かなければならないと己に実感させ、心と足取りを重くした。
堅苦しいそれらは正に鋼鉄の硬い檻。
恐ろしい地獄から逃げられない用にするためのものだった。
そして、普段着はただただ、買い出しに行く時だけ⋯義務のために着るだけのものだった。
当然、息苦しさから助けてくれはしなかった。
⋯それが、今日だけはどうだろうか?
全てが、軽い。心身が軽くて、呼吸も軽やかだ。
苦しくない。むしろ、息がいつもよりずっと、とても楽だ。
(⋯俺が今知ったことを、同じように辛い思いをしている人に知ってほしい)
それは、実体験と精神科の医師から聞いた話を総合することにより知ったことだ。
身体が鉛のように重いのはストレスのせいで、足先を向けているその行き先に向かうことを脳が自分を守るために拒絶しているから…要は自己防衛本能が働いているからだとか。
気持ちが暗くなると、鬱になると、無意識に呼吸が浅くなって息苦しくなるため、ネクタイを緩めたりシャツの首元のボタンを外しても変わらず、楽にはなれないが、少しでも心に余裕ができたときには、思い切り、ゆっくりと深呼吸をしてみると少し息が楽になったり、呼吸が浅かったことに気がつけるだとか。(※鼻から吸って口で吐くとより良い。また、吸う速度よりもゆっくりと遅く息を吐くと、なお良い。)
ほかにも、色々。
自分は大して辛くもなく、ただ甘えているだけだと真面目さが自らの首を絞めた。実際に上司や家族、知人にそのようなことを言われたこともあった。『大した成果も出さず、努力もしていないクセに疲れただと?笑わせるな』『仕事が辛い?⋯自分を甘やかしているだけじゃないのか?仕事なんて皆、そのくらい大変なのが普通なんだよ』『はぁ?お前より辛い奴なんて世界中、たくさんいるわ!ってか、俺だって毎日残業しているし、お前と違って朝も夜も満員電車で五駅も揺られてるし〜』『お前ってストレス無さそうだよな。幸せそうで羨ましいわ』
何も知らない人に、簡単にそんなことを言われた。
辛いと言うと甘えだと言われるから、無理をして気丈に振舞うと幸せそうだと言われた。そう見えるように振舞ったのは、実際にそう見られたかったからでも、見たままを極端に表現した言葉を言われたかったからでも、内に隠した辛さを否定されたかったからでもない。
ただ、それが人として正しいと思ってそう振舞っただけで、表面上“普通にしっかりしている人”として見られたかっただけだ。
俺の辛さを何も知らない、実際に俺の日々を全部、見てもいない他人に『幸せそう』だとか極端なことを言われたくなんかなかった。
辛さから目を逸らし、自分は辛くないと思うようにしたほうが楽なら、それでも良いのかもしれない。無責任かもしれないが、俺には解らない感覚だから、それについては何とも言えない。その辺の感覚やらは、人それぞれだしな。
ただ俺は、自分の辛さを否定すること自体が辛かった。自分を無理矢理奮い立たせ、強がるのが疲れた。そのため、辛さを辛さとして受け入れ、胃液を吐きながらでも一生懸命その辛さを少しずつ解消し、明るい未来を手にするのを目標にして前を向くほうが、自分の人生を取り戻せた気がするし、心が楽になった。
理想を言えば、自己管理を完璧にこなし、自分の機嫌を自分で取られたら、人として素晴らしかったのかもしれないが⋯あいにく、俺はそこまで優秀ではない。
六葉さんが俺の手を優しく引いて、支えてくれたからここまで楽になれた。ブラック企業というそもそもの原因が変わったわけではないため、根本的な解決にはなっていないかもしれないし、まだ完全に心の傷が癒えたわけではない。
それでも、支え合える相手がいるのは、こんなにも心が癒されるのだと、俺は知った。
「⋯全部、六葉さんのお陰だ」
自然と、感涙のせいで掠れた小さな声が口から漏れ出た。
「?すみません、何か仰られましたか?」
狭い玄関で靴を履き終え、ドアを開けようとしていた六葉さんが俺の方を振り向いた。
「いや、なんでもないよ。行こう」
「はい!」
彼女の明るい笑顔に俺も自然と笑い返し、俺はスニーカーを履き終えて立ち上がった。
以前は、仕事に行くにしても買い物に出掛けるにしても、靴を履く時に足元を見て、そのまま俯いて歩き出していたが______。
六葉さんの顔を見て話すためか、それとも心が軽くなったからか⋯今の俺は自然と顔を上げ、前を向いていた。




