第72話 準備に抜かりなしじゃ
「……一日じゃ」
わしの言葉が落ちた瞬間、集落の空気が変わった。
ざわめきが走り、次の瞬間にはエルフたちが一斉に動き出す。
武器庫へ走る者。
結界の柱を確認する者。
子どもや老人を安全な場所へ誘導する者。
森の静けさとは裏腹に、集落は戦の前の緊張に包まれていった。
「……始まるのか」
ドランが低く呟く。
「始まる、ではなく。来る、じゃな」
わしはそう返し、結界の中心へ向かった。
****
結界の柱は、森の魔力とエルフの術式が絡み合っておる。
だが、長い年月で弱った部分もある。
「ファルネス、ここが薄いの」
「やはりか……補強を急がせる」
ファルネスが指示を飛ばすと、若いエルフたちが駆け寄り、術式を重ねていく。
「わしに結界術を教えてくれたのはおぬじじゃろうに、手を抜いて負ったのか?」
「そんな訳ないだろう……
とは言い切れないな」
ファルネスは遠くを見る。
「ここ五十年くらいは平和だったのだがな……」
そうファルネスは誰に聞かせるでもない言葉を呟いた。
と同時に、補強をしていた一人の青年がこちらを見た。
背は高く、弓と短剣を携え、動きに無駄がない。
「長老様、こちらの補強は任せてください」
「うむ、頼んだぞ。……フレイン」
「はい!」
フレインと呼ばれたエルフの青年は短く礼をした。
素直で、芯の強い目をしておる。
(……こやつ、筋が良いの)
「ファルネス、今の青年は?」
「フレインという。
まぁ関係で言うとフィオの父親の父親ぐらいだな」
ふむ、とわしは顎をさする。
「つまり、フィオのおじいちゃんということじゃな。
ファルネス"おじいちゃん"」
「お前な、こんな時に……
いや、こんな時だからこそ、か」
ファルネスは無意識に張っておった肩の力を少し抜いた。
****
わしは肩にかけていた革鞄から一つの薬瓶を、取り出す。
魔力の流れを読み取り、地面に指で線を描き、そこに薬液を垂らした。
「ボニフさん、それ……?」
アリアが覗き込む。
「対策じゃよ。
魔物の誘導の流れを、少しだけ“ずらす”仕掛けじゃ」
作業をしながら、わしは返した。
「ずらす……?」
「うむ。全部は止められん。
じゃが、流れを乱せば“速度”は落ちる」
アリアは短剣を握りしめ、真剣な顔で頷いた。
彼女の支援魔法は小規模じゃが、戦場では十分役に立つ。
「私に手伝えることは……ありますか?」
いや……と言いかけ、わしはその後に続く言葉を飲み込んだ。
「おぬしの魔力は繊細じゃ。
この術式の“縁”をなぞるように魔力を流してみい」
「はい!」
アリアが両手をかざし、淡い光を流し込む。
術式が静かに脈動し始めた。
****
その時、背後から小さな足音がした。
「……アリア……」
振り返ると、フィオがアリアの服をぎゅっと掴んでいた。
目が揺れておる。
恐怖を隠せておらん。
「フィオ……大丈夫。大丈夫だから」
アリアはしゃがみ込み、フィオの頭を撫でた。
その手は震えていたが、声は優しかった。
「私が……守るから」
その言葉を口にした瞬間、アリアの表情が変わった。
迷いが消え、覚悟が宿る。
わしの後ろから先ほどの青年──フレインがその様子を見て、小さく息を呑んだ。
「……強い方だ」
「当たり前じゃ。わしの弟子じゃからな」
「弟子……だったんですか?」
「いや、なんとなく言っただけじゃ」
「えぇ……」
アリアが呆れた顔をしたが、どこか嬉しそうでもあった。
****
夕暮れが近づくにつれ、森は不気味なほど静かになった。
鳥の声も、風の音も、どこか遠い。
エルフたちは武器を手に、配置につく。
フレインは弓を構え、ドランは槍を肩に担ぎ、深く息を吐いた。
「……やるしかねぇな」
「うむ。おぬしの腕、期待しとるぞ」
「プレッシャーかけんなよ……」
アリアは短剣を腰に差し、支援魔法の詠唱を確認しながら結界の前に立った。
その目は揺れていない。
フィオは村の奥に避難させられ、アリアは最後に一度だけ振り返った。
その視線は、もう“守られる側”ではなくなっていた。
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ファルネスがわしの隣に立つ。
「……準備は整った」
「そうか」
「ボニファティウス。
お前の対策、どれほど持つ?」
「全部は止められん。
じゃが、最初の衝撃は和らぐじゃろう」
「それで十分だ」
ファルネスは静かに頷いた。
「……敵は本気で来る」
「うむ。
じゃからこそ、わしらも本気で迎えねばならん」
****
その時。
森の奥から、低い唸り声が響いた。
地面がわずかに震える。
風が逆流するように、冷たい気配が押し寄せてくる。
アリアが短剣を抜き、フレインを含むエルフ達が弓を構え、ドランが槍を強く握った。
エルフたちが一斉に息を呑む。
わしは空を見上げ、静かに呟いた。
「……来るぞ」
嵐の前の静けさは、もう終わりじゃ。
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