第七話 覚悟のイマジネーション
担当割が終わると、早くも今日の活動は終わることになった。ただ、中堂凛以外の三人は経った時間以上に疲れている様子だ。
「田中、お前は同好会の申請を忘れるな」
「はい……」
「何、返事も出来ないの?」
「はいー!」
「田中くん、手間取らせちゃってごめんね。よろしくお願いします」
聡平は両手を合わせながら、申し訳無さそうに、はにかむ。その様子を見て田中はこくりこくりと何度も頷いた。この男も相当な人たらしである。
「じゃあ、帰りますー。お疲れっした……」
「あ、茸木くん! お疲れさまー」
「ちょっと、置いてかないでよー」
ぬるりと帰る茸木の後を田中は急いで追う。なんとなく、残った二人と一緒になりたくない気持ちが彼にはあったのだろう。良くも悪くも場を仕切っていたのが凛と聡平で、巻き込まれた側なのが茸木と田中だということがはっきりとしたので、彼が自分と同じ立場の茸木について行きたくなるのは必然だろう。
「聡平、鍵」
「う、うん」
凜は開けっ放しの扉を指差す。聡平は一瞬返事が遅れたが、すぐに立ち上がると扉を閉めにいき、しっかりと施錠する。そして、凜が座る教卓の前まで向かい、近くの席に座る。凜は教卓から飛び降り、彼の机の上に座る。聡平の眼には凛の横顔と彼の小さな体が映し出される。
「ボクのこと嫌いになったか?」
凛は決して聡平と目を合わせなかった。明らかに彼へ向けられた言葉であるが、それは独り言のように吐き出された。どこか湿度を多分に含んでいて、投げやりにも思える声だった。
「え?……」
しゅんとした様子で先輩は自身の印象についてを問いかけてくる。その姿はさっきよりも若干小さく見える。いや、別にさっきも大きかったわけじゃないけど。
「何とも思わ……ないのは嘘だけど、俺は別に口や態度が悪かったとしても、凛くんのことを嫌いになったりはしないかな。まぁびっくりはしたけど」
「そうか。聡平が嫌じゃないなら良かった」
先輩は良かったとかいうのに浮かない顔をして項垂れている。俺はその表情を何故か見過ごすことが出来なかった。この人は初めからずっと突然なのだ。だったら堂々と俺のことを最後まで振り回し続けて欲しい。何か先輩の気を引く言葉を……。
「Con brio」
凛は聡平の言葉にハッとしたように顔を上げた。聡平は自分の前で、指揮者みたいに手をふよふよとさせた後、握り込む。自分に言い聞かせたのか、凛に言い聞かせたのか。本人にすら、きっと定かではない。凛はすぐに聡平の気持ちと言いたいことを理解して、口を開く。
「Gaudioso」
凛は胸に手を置くと、聡平の方へ微笑みながら首を傾げる。机に腰を掛け、足をプラプラとさせている。席に座る聡平のことを覗き込むように、顔だけを横に向ける体勢。窓から差し込む光は彼の存在を暖かく強調するようで。
先輩と目が合う。向けられた優しい眼差し。そこにはちゃんと俺が知っている先輩もいた。だけど、そんなことがどうでもよくなるぐらいに、眩しい姿だった。
「こんなのボクじゃなきゃ伝わらないだろ」
「いいんですよ、伝わったんだから」
そして、二人はクスクスと小さく笑い声を上げる。次第にそれは大きな笑いに変わる。他の誰に伝わるかは分からないやり取り。お互いがカッコつけで、ひねくれ者だということが分かるだけ。明確な量や大きさを提示しない、受け取る側の裁量と解釈のフィルターを通すような、曖昧な表現だからこそ伝えられることもある。
「凜くん、一つだけ。俺はその時に、凛くんが見せてくれた顔の凛くんと、ただひたむきに向き合うだけなんで。もう嫌いになったかなんて聞かないでください」
これは俺が曖昧なものじゃなくて、確かにはっきりと先輩に伝えたいこと。自分が見たもの、感じたことだけを信じたい。これだけは譲れない俺の自我だ。
「ああ、約束する」
先輩はそう言うと、グイっと俺の方へ足と体を投げ出して体勢を変える。上半身はさらに俺の方へ傾ける。急に距離を詰められた驚きや戸惑いよりも先に、目の前で端正なおかっぱ頭が揺れる。
「な、なんですか、急に」
俺の問いかけに対して、先輩は今から悪戯でもするかのような怪しげな笑みを浮かべる。そして、自分の喉に両手で触れる。
「約束しろ。ボクの歌のために最善を尽くすと」
「……そんなの改めて、言われなくても──」
「尽くすの? 尽くさないの?」
さらに凛の顔が聡平に近づく。その瞬間、机が自身の一端に集中してかけられた重みに対して、ガタンと悲鳴を上げながら倒れた。上に座っていた凛も一緒に投げ出される形で姿勢を崩す。
──わっ……!
聡平は椅子からすぐに立ち上がり、凛の腕を掴むと、彼の体を自分の方へと引き寄せる。だが、彼の想像よりもはるかに軽い凛の体重が影響し、勢いを纏いながら彼の大きな体に、すっぽりと小柄な体は吸い込まれる。
──ドタン!
机は大きな音を響かせて、綺麗に横転した。
ワッと咄嗟に俺から離れる先輩。下を向いて顔を隠している。腕と胸に残るのは、確かな先輩の重みと感触。耳に残るのは、机と床がぶつかる硬い音と先輩の小さな声。頭を巡るのは、そんなバラバラな情報と安堵感。これ以前にどんな話をしていたかも、もう分からなくなった。ただ一つ分かるのは、なんとなく、このまま顔を隠す先輩を見ていたくなかったことだ。
「怪我ないですか。俺、コンポーザーなので、ボーカルの体調を管理するのも仕事なんです。顔上げてくださいよ」
先輩はゆっくりと顔を上げた。すぐに顔を横へそらす。
「じゃあさっさと確認しろよ。──Abbandone」
凛は少し上を向いて、聡平に首をしっかりと見せる。聡平はそんな彼に近づくと、シャツの襟に手を掛けて整える。
「何してんだよ」
彼は襟に伸びる手を払い除けようとする。
「Adagio agiato」
聡平の言葉にピタリと凛の動きは止まる。聡平はそれを確認すると、今度は彼のネクタイに手を掛けて、きっちりと結ぶ。
「はい、終わりましたよ。なんかネクタイ外されたのモヤッとしたんで。喉の調子なんて外側から分かるわけないじゃないですか」
聡平はにこりと笑う。
「……さっきはありがと。あと、これも」
凛は特に反論するわけでもなく、彼と目を合わせながら、結びを軽く握り込んだ。
「いえいえ、口悪いのもガラ悪いのも凛くんの勝手ですが、怪我をされるのだけは困ります。俺の唯一のボーカルなんですから」
凛は大きな目をさらに大きくする。そして、小さく鼻を鳴らす。
「……うるせぇな。いいから黙って作曲AIになれよ」
「えー、それ多分悪口なんですよね? 段々と分かってきましたよ、凛くんの言いたいこと」
「勝手にしろ。それと、もう今日は帰れ。教室はボクが片しておくから」
凛は聡平の「手伝うよ」という言葉を跳ね除けて、一人教室に残った。
「|Semplice Con Affetto」
彼は誰にも届かない、自分だけの心のイメージを口にした。




