朧気な存在
「……すみません、ジンが失礼な口を……」
「いいのよ、気にしないで」
2人が出て行ったのを見届けた僕が改めて頭を下げると、本間先生は優しくそう笑ってくれる。……本当に申し訳ない。またああいうことがあっても困るし、敬語とか教えておいた方が良いかな……。
そんなことを考えつつ、僕は実幸さんのことを少しだけ見る。すると彼女はしっかり僕の視線を受け取り、スッと立ち上がった。
「この方は本間先生。言葉ちゃんが小学生の時、担任の先生だった人です」
「こんにちは、改めまして本間です」
「こんにちは、伊勢美灯子です。言葉とは……言葉は高校の先輩で、とてもお世話になっています」
「……明け星学園、の」
僕が自己紹介を終えると、本間さんがどこか気遣うような声でそう呟く。そうです、と僕は頷いた。……そりゃ、知らないわけがないか。
だけどそれについては触れず、実幸さんが元気よく手を叩くと、明るい声で告げた。
「今日は本間先生から小学生だった時の言葉ちゃんについて聞きたいな~って思ってまして! まあ次の授業までの間ですけど、良ければお願いしますっ」
「あら、そうなのね。……といっても、小波さんも小学生の時だった言葉ちゃんのことは知ってるんじゃ……?」
「私や夢だけの印象だと、少し偏るかな~って思いまして! それこそ私たちも小学生だったので、記憶があやふやなんですよ」
実幸さんの言い分に、本間先生は納得したらしい。そうねぇ、と呟くと、とりあえず先程から小脇に抱えていた大きな本を机の上に置いた。これは……卒業アルバムか。
本間先生はそれを開くと、ぱらぱらとページをめくっていく。そして目的のページを見つけたらしく、手を止めた。
「ほら、これが言葉ちゃん」
「あ……」
それは様々な写真が敷き詰められたページ。体育祭、校外学習、修学旅行、合唱祭……そういうイベントはもちろん、日常の風景と思しきものも。
本間先生が指を差したのは、その内の1枚。恐らく日常写真。……沢山の生徒がカメラ目線でピースをしている──その隙間で1人、本を読んでいる人物。ピントが合っていなくて、顔はよく分からない。
でも、分かる。これは言葉だ。
「言葉ちゃんが卒業アルバムに写っているのは……この1枚だけ」
「……えっ」
「……彼女が小学生の時に遭った出来事については、知っている? 二次被害、二次暴力を最小限に抑えるために、こうすることになったの。……何より彼女が、自身の姿を写真に収められることに、激しい抵抗を示して」
「……あ……」
本間先生の言うことで、合点がいく。思い至ってしまった。そうか、言葉ちゃんのあの件は、小学生の時に……。
僕の反応で、何があったのか知っていることを悟ったのだろう。彼女は静かに話し続けた。
「あの時、言葉ちゃんは知らない人に『そういう事件の被害者少女』という視線を向けられることが多かった。勝手に写真を撮る人もいてね。こういう言い方は良くないんだろうけれど……彼女は、人の目を引きやすい容姿でもあったから」
「……はい」
「だから彼女の個人写真は撮らなかったし、集合写真にも写らなかった。彼女が写り込んだ写真は、このピントが合っていないもの以外は全て破棄して……言葉ちゃんが所属していないような卒業アルバムが、出来てしまった」
「……」
「この写真だけが、唯一彼女がこの学校に確かにいたという証なの。本当は……ちゃんと写って、皆と一緒に思い出を残したかったでしょうに」
本間先生はそう言うと、愛おしそうにその写真を指先で撫でる。その様子から、当時先生がいかに尽力していたのかを伺うことが出来た。
「言葉ちゃんはとっても大人しくて、そして誰よりも優しい子だった。いつも自分の席で本を読んでいて、でも誰かが転んで泣いていたら、誰よりも早く駆け寄って絆創膏をあげるような子だった」
「……そうですね、そういう人です」
「ええ。……あまり目立たない子だったけれど、皆から好かれていたわ。あの件があった時も、皆心配していた」
「……はい」
「あの件は……彼女を大きく変えてしまった。学校に行けなくなってしまって、ようやく来れたと思っても、誰も近づけなくなってしまった。常に周囲の人を威嚇しているような雰囲気で……誰も近寄らなくなってしまった」
想像は出来る。もしまた、誰かに傷つけられてしまったら。そう思うと怖くて、親しい人すら遠ざけてしまったのだろう。正常な防衛反応だと思う。
「あの時、小波さんは学年が違っても、休み時間になれば必ず言葉ちゃんに会いに来てくれたわよね」
「そうですね! 私は言葉ちゃんのことが大大大好き〜♡ ですし……やっぱりちょっと心配だったので」
本間さんは実幸さんを一瞥する。すると実幸さんは意気揚々とそう答えた。僕が思わず春松くんを見ると、彼は肩をすくめて。
「俺が行くと変に刺激することになりそうだったから、実幸オンリー」
「……なるほど」
「俺がちゃんと顔を合わせられるようになったのは、言葉さんが中学に上がってからだよ」
「……良かった、春松くんとも顔を合わせられるようになっていたのね」
春松くんの言葉に、本間先生がホッとしたように息を吐く。最初は本当に、5秒だけとかでしたけどね、と春松くんは苦笑い交じりに返した。
「……あの、伊勢美さん……だったかしら」
「あ、は、はい。伊勢美です」
「伊勢美さん。……言葉ちゃんは……高校で、どんな感じだったのかしら」
問いかけられ、僕は実幸さんと春松くんの顔を見比べる。すると2人とも迷わず小さく頷いたので、僕は視線を前に戻すと口を開いた。
「言葉は……明け星学園で生徒会長を務めていて、すごく、沢山の生徒に慕われていました。勉強もスポーツもすごく得意で、文武両道って感じで、いつも色んな人から頼りにされていて」
「そうなのね、すごいわ」
「僕もいつも、沢山……助けられて」
それなのに僕は、彼女からの恩を仇で返してしまった。
「困っている人のことを、絶対に見逃さない人でした。いつもフルスロットで、なのに人に頼ることが、ちょっと苦手な人で」
僕はきっと頼られていたのに、その信頼を損なってしまった。
「今は……会う人は最小限に抑えて、ゆっくり休んでいます」
「そう……なのね。言葉ちゃんは、元気?」
「……ええ、元気ですよ」
本当は分からないけれど。今、彼女がどんな状態なのか、僕は分からない。
だけど言い切る。それが今、僕がすべき正しいことだと思うから。
すると本間先生はホッとしたように息を吐き、優しく微笑んだ。
「それなら良かったわ。……教えてくれて、ありがとう」
「いえ、こちらこそ……沢山教えてくださってありがとうございました」
僕もお礼を言って頭を下げると、本間先生は卒業アルバムを閉じて……僕に差し出してきた。
「良かったらこれ、持っていって」
「えっ、こ、これ、学校の備品とかなんじゃ……」
なんか表紙に学校の備品であることを証明するテープ貼ってあるし、と思いながら尋ねると、彼女は微笑みながら告げた。
「いいのよ、どうせ物置で埃を被っているだけなんだから。……本当は歴代の卒業アルバムは図書室に置いているんだけど、彼女が起こした……あの件を受けて、この年のアルバムはもう表には出さないっていう判断が出されたの。でもそうなったら彼女は本当に……存在が消されてしまう。かつてここにいたという過去が、なかったことになってしまう。貴方には、知っていてほしいの」
だからお願い、と言われる。その真剣な瞳を、僕は見つめ返して。
存在が消されてしまう、過去がなかったことになってしまう……か。
この人は本当に、言葉のことを大事にしてくれているんだな。
「……分かりました。大事にします」
僕は差し出されたそれを受け取ろうと、手を伸ばす。
──次の瞬間、外で轟音と悲鳴が響き渡った。




