貴方があの日あの場所で確かに息をしていたこと
※性被害描写があります。ご注意ください。
実幸さんに先導され、入ったのは路地裏だった。大きな建物と建物の間にある本当に細い道で、光なんてほとんど入らなかった。足元を何かが触れた、と思ったら小さな鳴き声。恐らくネズミだろう。もろに絡まれたのか、後ろから「んっひゃぁっ!?」という千馬さんの悲鳴が響き渡っていた。
なんだか上手く息が出来ない、雰囲気の悪い道だな。と思う。心臓が勝手に嫌な鳴り方をしていて、それが酷く気持ち悪い。
そんな永遠にも思える道──恐らく3分も歩いていない──を超えた先、少し開けた場所に出た。
といっても、だからといってこの気分の悪さが解消されるわけではなく、やはり暗くて籠った空気が蔓延っている。正直、あまり長居はしたくない。
ただ──思う。恐らく実幸さんが言う「気分が悪くなる」とは、今感じているこれのことではない。
「さ、着きましたね」
「……実幸さん、ここは──」
「言葉ちゃんが、性被害に遭った場所です」
あっさりと告げられたその言葉に、僕は思わず身動きを止めた。心臓も止まっていたかもしれない。
だけどそんな僕に構わず、実幸さんは続けた。
「雨が降る日のことでした。学校から帰っていた彼女はとある男に道が分からないから案内してくれと言われました。困った様子の男を言葉ちゃんは不憫に思い、男を案内しようとしましたが……この先を言うのは野暮ですからやめておきましょう。その後彼女は隙を見て異能力を使い、この場から逃げ出しました」
この場、から。
想像してしまう。数年前、彼女が誰かにどんなことをされたのか。どんな表情でここにいたのか。どんな気持ちでここから逃げ出したのか。そのために、どれほどの力を振り絞ったのか。
言葉が泣く声が、頭の中に響き渡る。ずっと彼女に纏わり付く、忌々しい記憶を想像する。それが影を落とし、彼女から笑顔を奪う。
ネットの掲示板に、彼女の過去のことを好き勝手書かれているのを見たことがある。あの時も、手が震えるほどの怒りを覚えた。今も──数年前この場所で彼女が、誰にも助けを求めることも出来ず、ただ一方的に傷つけられていた。そう考えると……頭が沸騰しそうだ。この怒りを、誰にぶつけるべきか分からない。僕は言葉を傷つけたその相手を知らない。
「言葉ちゃんは未だにこの場所、ひいては周辺に近づこうとしません。最寄り駅の名前を聞くだけで駄目なので、この周辺に通じている電車もバスも利用できません。言葉ちゃんを傷つけた男たちは……少し話を聞かれて、それだけだったみたいですね」
「ッ、なんで」
「異能力を使ったから」
僕が疑問を口にすると、春松くんが冷静に口を挟んだ。僕がそちらを見ると、春松くんは悲しげな瞳で続ける。
「……最悪だが、この世界で異能力者であるということは、そういうことなんだ」
「……言葉が悪い、ってことですか」
「悪いとまでは行かないが、相殺された感じだな」
僕は拳を握りしめる。そんな、彼女がどんな思いで異能力を使ったと……。
「そういうわけで、言葉ちゃんは二次被害を防ぐため一時的に違う場所に移動しました。……引っ越すまでは、経済的にも厳しかったみたいです。遠い地で気持ちを落ち着かせ、やがて戻ってきました」
「……」
「ここら辺のことは、言葉ちゃんママから聞いた通りです。周囲の人と協力しながら、何より彼女自身が強くあろうと努力して、あの状況まで持っていきました。……本当にすごかったですよ、あの時の言葉ちゃん。……人間をやめようとしているみたいでした」
実幸さんが遠い目をしながらそんな感想を告げる。あの実幸さんがそう言うのだ。本当にすごかったのだろう。
「だから、本当に良かったと思ってるんです。人は独りで生きることは出来ない。なのに彼女は人間をやめるような勢いで孤独であろうとした。……そんな言葉ちゃんを人間にしてくれたのは、灯子ちゃん。貴方でしたから」
「……そんな大それたことしましたかね、僕」
「人間というのは、作用し作用され、そうやって繋がっていくものなんですよ。──人はそれを〝縁〟と呼びます。星と星を指で繋ぎ星座を作るように、私たちは手を取って生きていくものなんです」
そう言うと実幸さんは優しく微笑み、右手の人差し指をくるんと回す。
僕との縁が、彼女を人間に戻した……それが良いことだったのか悪いことだったのか、僕には分からない。実幸さんに感謝されているということは、まあ良いことなんだろうけど……。
でも……人が1人では生きていけないという意見には賛同する。僕も、一度知った温もりはもう手放すことが出来ないと……そう思った。ののかや言葉に、そう教えてもらったから。
言葉に貰った温もりを少しでも返せているのなら……それはやはり、良いことなのかもしれない。
「でも──その繋がりを、切ろうとする者もいます」
「……」
「繋がったものが広がり、思わぬところに思わぬ形で繋がってしまうこともあります。その時貴方は繋がりを切ることを選ばないといけないこともあるかもしれません。語り継がれなかった神話が消えるように」
「……えっと……?」
「この世は悪意で溢れています。息をするには苦しくて、まるで夜の海に潜っているようで、光なんて見えない。そんな世界です」
実幸さんは僕を見つめる。どこまでも真っ直ぐな瞳で。
「その時貴方が何を選ぶのか──私は見させてもらいます」
「……」
僕は、黙って頷く。
相変わらず、実幸さんはたまによく分からないことを言う。僕にその意味は正確に分からない。……でも、何が来ようと僕は逃げない。それだけは確かだから。
その答えを聞き、実幸さんは満面の笑みを浮かべた。どうやらお気に召したらしい。
「……実幸さん、僕は今日1日、なんか全然言葉のことを探した感じがしないんですけど」
「はい」
「貴方は……僕に、言葉のことを理解してもらおうとしている。その認識で合っていますか?」
実幸さんの家でも、春松くんの家でも、言葉の家でも、この場所でも、話題の中心はいつでも言葉のことだった。
僕が出会う前の言葉。僕が知らない言葉。全てが新しく、正直ピンと来ないものばかりだ。
それでも──彼女はこの世界で、僕が出会う前から、確かに息をしていた。
「本当は、暴露するみたいでちょっと嫌なんですけどね」
「……自覚はあったんですか」
「はい、大切な昔馴染みですから……罪悪感はありますけど、でも、時間が無いので」
時間が、ない?
「貴方は、知らないといけない」
実幸さんが凛々しくそう告げる。どこからか、鐘の音が聴こえた気がした。




