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夢の後に  作者: 中島 遼
40/61

接触1

「この間は済まなかったな」

「え?」

 乗り込んだエレベーターの中で話しかけてきた篠田に、村山はわざと意味がわからないという顔をした。

「お母さんの交通事故、君がその場にいたことを俺は知らなかった」

 微かに眉をひそめた彼に篠田は首を横に振った。

「本当だ。君の様子がおかしくなったから、後で親父に確認したんだ。そしたらそう言っていた」

「篠田先生、あの……」

「いつから?」

 黙った彼に、篠田は再度問うた。

「子供の頃から……って詩織は言ってたけど、本当に?」

 そんなことすら考えないよう逃げていたことに、村山はようやく気づく。

「別に妙な心配から確認をしている訳じゃない、俺に手伝えることがあるなら力になりたいと言ってるだけだ」

 何か言わなければと思うが、言葉が浮かんでこない。

「過呼吸も自分で持ち直したようだし、君の自制心の強さはわかっている」

 目を見開いた彼に、篠田は軽く頷く。

「兄貴も中学時代に部活の先輩が怖くてよく過呼吸になった。死ぬほど走らされて一人でも遅れたら何度もやり直して、最後には集団で元凶の一年を囲むんだ」

 篠田は溜息をついた。

「それで過呼吸。だが、当時の中坊なんて過呼吸の奴みたら逆に殴るんだよ、精神がたるんでるからって。だからこないだの君みたく、必死でこらえてさ……家に帰ってもそれを思い出すだけでまた息ができなくなって……」

 村山が見つめると、彼は微かに笑う。

「もちろん、君の経験が兄貴なんかの数倍辛いものだってことはわかってる。だが……」

 仕方なく村山は口を開いた。

「ありがとうございます。でも大したことはありません。……確かに、その話題を避けようとする傾向は小さい頃からありましたが、その程度です」

「フラッシュバックなどは?」

 一瞬、あの女の死体が頭を過ぎりそうになり、村山は慌てて篠田の白衣の襟をじっと見つめた。

「……いえ」

「ああいうものは、ストレスなどが引き金になって重くなることもあるというから、君の身の回りで嫌な事があったりしたら何でも相談してくれ」

 村山はようやく微笑んだ。

「ありがとうございます」

 一緒にエレベーターを降りてから、反対側に去っていく篠田を目で見送り、村山は一つ息をついた。

 何とかしなければならないことは自分でもわかっている。

 そして、そのためにはある種の覚悟が必要だということも……

「!」

 ふと顔を上げると、廊下の向こうにこちらを見つめる目があった。

(何でこんなところにいるんだ?)

 同じ場所で働いているにもかかわらず、滅多に会うこともない父。

 思わず後ろを見せて逃げようかと思ったが、彼は強いてそのまま前に足を踏み出した。

(……逃げる必要はない)

 悪いことをしているわけではないのだ。

 胸を張って堂々としていればそれで……

「……なるほどな」

 その距離が一メートル程度に縮まった時、相手が口を開いた。

 ぞっとするほど憎悪に満ちた声に、村山は戦慄する。

「最近やけに増長していると思ったら、篠田の二番目を味方につけたか」

 驚いて目を見開くと、修造はその太い眉を寄せた。

「調子に乗るなよ」

 言い返そうにも、頭には何も言葉が浮かばない。

 そのまま父の足音が後ろに去っていくのを耳で捉え、それが聞こえなくなってようやく彼は緊張を解いた。

(……何故)

 自分が問うた質問の意味さえ不明で、村山はわずかに笑う。

(……俺に覚悟なんてできるんだろうか)

 何とかしなければと言いながら、このまま結局根無し草のように己を流れのままに漂わせ、自分自身で決断することも何かを選ぶこともなく、ただ腐って消えていくのを待ち続けることしかできないのではないか……

「こらっ!」

 怒声にどきりとして後ろを見ると、不機嫌そうな明石がポケットに手を突っ込んで立っていた。

「廊下の真ん中に突っ立ってられると邪魔だ。もう少し端の方で謙虚にたたずめ」

「す、済みません」

 慌てて横に避けてじっと立っているとさらに睨まれ、そして顎で動くように指示されたので、仕方なく明石の横に並んで歩き出す。

「……お前、先週の月曜日、医長の手術に立ち会ったな?」

 本来その日の助手は明石のはずだったが、彼が他の緊急手術にかかっていたので佐々木が繰り上がり、村山が代わりに第二助手に入っていた。

「はい」

「縫合不全だ。様子を見てもう一回開けて、ドレナージと再閉鎖をした方がいい」

 やはり……と村山は思ったが、気になることを先に確認する。

「先生が検査なさったんですか?」

「ああ」

「それはまずいんじゃ……」

「医長が二日も留守なんだ。仕方なかろう」

 明石はあっさりと言ったが、恐らく医長は一生根に持つだろうと思う。

 自分のミスを棚に上げて、余計なことをしたとか言いかねない。

「お前、縫合不全の理由はわかるか?」

「患者さんに微妙に糖尿の気があったからです」

 ガンを飛ばされて彼は身体をすくませた。

「そ、それ以外の理由としては、その、第二結紮時の処理に多少の問題が……」

「どんな?」

 他にも色々問題のある手術だったが、とりあえず無難なことを言っておく。

「例えば、片手法だったんで糸にテンションがかかりすぎかなとか、そこでその結び方はちょっと、とか……」

 途端に明石は不機嫌になり、やたら細かい質問をしてきた。

 しかし、それがことごとく村山がその日ドキドキした内容に合致していることに驚く。

「お前、そんだけわかってて何故その時点で指摘しない?」

 困った顔をした村山の足を明石は蹴った。

「お前は自分と患者のどっちが大事だ?」

「済みませんっ」

 明石は横目で村山をねめつける。

「いいか、この問題の解決法は、俺たちで医長を指導し彼の手技のレベルを上げるように練習させるか、あるいは他の人間がやるか二つに一つだ」

 思わず村山は怯えた。

「今回の患者さんは先に申し上げましたが糖尿ですから縫合不全リスクは高く、誰がやってもそれが起こる可能性は一緒です」

「俺だってカルテぐらい見ている。微妙に糖尿の気、ぐらいだろうが」

「それでも縫合不全リスクは通常の人よりも確実に高いし……」

「その確率を1%でも減らすように努力したと、お前、胸張って言えるのか?」

 言いたいことはわかるが、なかなか難しい話ではある。

 明石は再び前を向いた。

「それが命を預かってるものの義務だ。メスは無理としても、とりあえずは奴にモノフィラを触らせるな」

 モノフィラとはモノフィラメント糸の事である。

「お前の立ち位置だったら、是非自分に練習させてくださいっ、とか言いながら、しれっと奴から仕事奪えるだろ?」

「え?」

 彼は精悍な横顔を見せたまま肩をすくめる。

「何故俺が人前でお前を何度も罵倒したと思ってる?」

 そういえば、指示待ちは嫌いだとか、積極的に練習させてくれと何故言わないっ、とか散々怒鳴られた様な気もする。

 それがこのための布石なのだとしたら驚きだ。

 村山は微かに微笑む。

 彼が自らを殺して世間に合わせてきたが故に、今となっては理想も何もなくただ漠然とここにいることを明石は知っている。

 そんな彼に進むべき道を指し示すようなボランティアを買って出てくれていることを村山は静かに感謝した。

「馬鹿野郎っ、そこで笑うな!」

「済みませんっ!」

 頭を軽く下げ、村山はやはり笑った。

「いや、感謝してるんです。先生には」

 すると明石は苦虫をかみつぶしたような顔になる。

「感謝?」

「はい。だから何でもさせて頂きます」

 明石はさらに渋い顔になった。

「わかった」

「え?」

「何でもするっていうんなら、この間一緒に飲んだ分、あの店に行って払っておいてくれ」

「えええっ!」

 この世界、後輩におごらせる先輩医師は少ない。

 しかも、相当経ってからの後払いなんて前代未聞だ。

「……は、はあ」

「それで全部ちゃらにしてやる」

 ちゃらにするとはどういう意味だろうと村山が茫然と相手を見ると、相手は再び彼を軽く蹴った。

 一種の照れ隠しなのか、それ以上何も要求しないという意思表示なのか。

「今晩一緒に飲みに行って、そこで俺が出すというのでは駄目なんですか?」

「俺は当直だ」

「あれ? 今日は第二外科じゃ……」

「都合が悪いって言うんで交代した」

 そのまま、きびすを返して再びエレベーターに向かう明石を目で見送って、村山は部屋に入って着替えた。

 そして、緑衣を所定のボックスに入れたその足で病院を出る。

(……ふう)

 何故かどっと疲れが押し寄せてきた。

 ただ、オーバーワークぐらいの方が余計なことを考えなくて済むのは確かだ。

 いつものように関係者出口から出て、家とは逆の方向に足を向け、以前、明石と飲みに入った店の引き戸を開ける。

「いらっしゃい、おや?」

 店には意外に人がいた。

 作業着姿の若い男達や、くたびれた背広姿のサラリーマン風の中年男性。

「今日はお一人?」

 声をかけてきた親父に慌てて村山は首を振った。

「済みません、今日はこないだの精算をしに来ただけで、飲まずに帰ります」

「まあ、そう言わずに、一杯だけどうだい?」

「今日は嫁さんが待ってるので、次回必ず」

 親父は仕方なさそうな顔をした。

「そりゃ、しょうがないね。あの先生が知り合い連れてくるってのが初めてだったんで、色々聞きたかったんだけど」

 村山は周りを見回した。

「今日は繁盛してますね」

「いつもこんなもんだよ。トンネル工事関係の人が懇意にしてくれてるからね」

「じゃあ、こないだみたいなのは偶然?」

「あの日は定休日だったから」

「え!」

 財布を出しかけていた村山は驚いた。

「そうなんですか?」

「まあ、ほんとは年中無休みたいなもんだが、明石先生は人が多いと帰っちまうんで、あの人が来る日は基本、定休日ってことにしたんだよ」

「え、でも、来る日が前もってわかるんですか?」

 親父は頷いた。

「新鮮な魚を仕入れるのは大変だから、来るんなら三日前には連絡くれと頼んだからね」

「それは……明石先生も酷いな」

 親父は慌てたように手を振った。

「そのこと、あの先生は知らないから内緒な。俺が勝手にやってることだから」

「なんでそこまで?」

 親父は笑って村山の背中を叩いた。

「あの先生は、わしの初恋の人の息子なのさ」

「え、あ……はあ?」

「ま、深くは聞かんでくれ、照れるから」

 世の中、色々あるものだと思いながら、村山は言われた金額を払って外に出た。

(思ってたよりも随分安いな)

 何だかわからないが、この金額で彼の前科をちゃらにしてくれたのなら、それこそ安いものだと思う。

(……腹減った)

 家に向かってゆっくりと歩きながら、少し村山は後悔する。

(やっぱり、ビール一杯ぐらい飲んでも良かったかな)

 そうしたら、もっと明石の話を聞くことができたかもしれない。

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