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25 誘惑

 物寂しい北の塔だが、寝るには適している。何しろ耳が痛くなるほどの静寂に包まれているし、人の気配も全くない。快眠に沈んでいた私がその時ふと目を覚ましたのは、本当に偶然に過ぎなかった。


 半覚醒のまま寝返りを打って瞼を閉じたその時、微かにガルヴェインさま、という囁きが耳に届いた。

 冷や水をかけられたように眼が冴えた。聞き間違いならそれでいい。また寝ればいいだけだ。物音を立てないようにゆっくりとベッドから降りる。

 ガルヴェインは私の隣の部屋で就寝しているはずだ。足音を立てないよう一歩一歩慎重にドアの方へ近寄って行った。ドアに耳を寄せ、外の様子を探る。しばしの後、小さくカチャリとドアを開ける音がした。

 何の用だ、と聞き慣れた低い声は明らかに不機嫌だった。次いで夜分にごめんなさい、と可憐な声が響く。

 耳をそばだてているとはいえ随分と鮮明に聞こえるものだと訝しがる。そのうち、声はドア越しよりもむしろ壁越しに伝わっているのだと気付いた。壁に耳を付けると、案の定先ほどよりも鮮明に声が届く。

 そうか、ここは元は後宮だ。わざと壁が薄く作られているのだ。口さがない侍女の醜態を見張る為か、ライバルの他の女の弱みを握る為か、それとも、繰り広げられる王と女の情事を隣の部屋に見せつける為か。どれにしても人の醜さを思い知るには充分だった。

 とりあえず今はその人間の悲しい性の恩恵にあやかっておくことにした。壁に付けた耳に全神経を集中する。


 ―――ガルヴェインさま、お会いしたかった

 ―――何のことだ。知らぬのではなかったか

 ―――あの人の手前、そう申し上げたのです。この13年間、ずっとお会いしたかったのです。お願い、ガルヴェインさま、どうかわたくしを連れて逃げてくださいませ!


 私が想像した通りの台詞を口にして、思わず鼻で笑いそうになった。慌てて口元を押さえる。


 ―――ミレイユよ、今更何を言うか。奴の妻になったのだろう?

 ―――仕方がなかったのです。あなたとの婚約を破棄され、数年ののちに両親が亡くなりました。後に残された大量の借金の為に、わたくしは身を売るしかありませんでした。そこにあの人が……借金を肩代わりする代わりに妻になれ、と無理やり……

 ―――破棄された? どの口が言うか。俺を裏切ったのはお前の方だろうが


 ガルヴェインの人称が変わった。『俺』と『お前』。そこに他者には入り込めない時の重さが感じられる。やはり彼にとって彼女は特別なのだ。ぐらり、と足元が揺れた気がした。


 ―――違います! わたくし、あの事件の後何度もあなたを訪れようとしました! けれどあなたのお母様がお許しになりませんでした。『今ガルヴェインと接触するとあなたも疑われる、機を待ちなさい』と。それでわたくし、文も送れず、あなたを待つしか出来なくて……


 重苦しい沈黙が壁越しにも伝わってくる。


 ―――しかし奴に嫁いだのは事実だろう。戻れ。俺に関わるな

 ―――あの人の妻となっても、わたくしがお慕い申し上げるのはあなただけです、ガルヴェインさま


 カサリと衣擦れの音がする。何かに寄りかかったような気配に、彼女がガルヴェインに寄り添ったのだと想像出来る。視覚が頼れない分、妙にリアルに情景が浮かんだ。


 ―――わたくしと共に来てくださらないのなら、せめて今宵だけでもあなたの妻にしてくださいませ……!


 涙を浮かべ、上目遣いで懇願してくる。頬は薄紅に上気し、寄り添ってきた身体からは甘い芳香が漂う。艶やかな桃色の唇が近付くと、男は耐えきれないようにそこに口を落とし―――


 いやだ!

 自然と脳裏に浮かんでくる情景を、強く頭を振って打ち消した。彼が寄り添った彼女を振り払ってくれることに望みを託して耳を傾けていたが、やがて扉が閉められる音が無情に響く。

 私は這ってその場を離れ、ドアノブに手をかける。

 これから起こり得るコトなど聞きたくもなかった。幸いこの塔には4部屋ある。逆側の隣の部屋に移れば、多少は声も届かないだろう。滑るように部屋を抜け出し、振り向きもせず隣の部屋へと急いだ。


 ふと、廊下に人の影があった。暗がりの中浮かび上がる影に心臓が跳ねたが、それが思いのほか小さく見知った姿であることに安堵の息を漏らす。

「……クローバー?」

 うすぼんやりと現れたのはやはりクローバーだった。泣いたのか目が腫れている。怖い夢でも見たのだろうか。

「どうしたの、こんな時間に?」

「……マナミ……ごめん……」

 様子がおかしい。クローバーに一歩近づくと、彼の首元に白いものが見えた。それがナイフだと分かるまで、だいぶ時間がかかってしまった。

 ナイフから、それを持つ手、腕とゆっくりと視線を上げていく。整い過ぎた顔が暗闇に浮かんだ。

「ジュス……?」

 数日ぶりに見た顔は相変わらず表情が乏しく、何を思って主の首元にナイフを突きつけているのか全く理解出来なかった。

「お静かに願います、従者様。お連れしたい所がございますので、ご一緒に夜の散歩などいかがでしょうか?」

「マナミ……ダメだ……ッ!」

 クローバーが苦悶の表情を浮かべる。白いナイフに一筋赤いものが垂れた。

「私が躊躇なく人を殺せることは、よくご存知かと思いますが……再度ご覧になりますか?」

「やめて……!」

「ではお静かに。くれぐれも助けを呼ぼうなどと思わないことです。あなたが声を荒げるより、私がこの手に力を込める方が早いことをお忘れなく」

 何故部屋を出た時に振り返らなかったのか。怒りに任せ、ドアを蹴飛ばしでもすれば良かった。ガルヴェインに届かないSOSの念を送りながら、私はジュスに従うしかなかった。




 北の塔は元は後宮だ。ガルヴェインの言葉通り、攻めるに難く守るに易いそこは、至る所に隠し通路があるようだった。ジュスに連れられ、階段の途中の壁に隠されていた細い通路を行く。中は暗く細く、カビの臭いが充満していた。どこをどう歩いたのかは分からない。視界が開けたと思った時には外に出ていて、あらかじめ待機していたのであろう馬車に押し込まれた。私に続き馬車に放り出されたクローバーを固く抱きしめた。ジュスが乗り込むと、馬車はいずこかへ走り出した。

 クローバーは胸の中でごめん、ごめん、と繰り返しぐずっている。

「怪我は?」

 首元を見るが、皮一枚切れた程度なのだろう。出血の割に深くはないようだ。クローバーをしっかり抱き寄せ、ジュスを睨み付けた。

「ジュス、どうして? オリエル様に忠誠を誓っているのではないの?」

 クローバーは未だ彼の行動が信じられないといった風で、悲壮を湛えた目でジュスを見つめた。対するジュスの青い瞳には、何の感情も含んでいないように見える。

「条件の良い方へついただけですよ、従者様」

「……信じていたのに!」

「お人好しもいいところですよ。会って間もない人間に信頼を寄せるなど」

 私がどんなに怒りを込めて睨み付けても、その能面が動くことはない。

「……ごめん、マナミ。おれのせいで……」

 クローバーは今にも泣きだしそうだった。必死に涙をこらえている。

「気にしないで。クローバーが無事で良かった。大丈夫、絶対にアークたちが助けてくれる。信じよう」

 訪れたミレイユはきっと足止めだ。障害であるガルヴェインの注意を引き、その隙に私を攫う手筈だったのだろう。ガルヴェインが彼女の誘惑に打ち勝つことを祈りながらも、彼女の甘い声と閉じられた扉の音が脳裏から剥がれなかった。私たちは互いに寄り添い、互いを庇うようにきつく抱き合った。


 どれくらい走っただろうか。馬車が止まり、外に出るように命じられる。先にジュスとクローバーが降り、私には手が差し伸べられた。手の主を見定めるなり、それを思い切りはねのける。

「従者様、あまり私を怒らせない方が得策ですよ?」

 声の主―――レギアスは手をさすりながら冷ややかに言い放った。





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