港の整備
シードラゴンの体内から立ちのぼる呪術の気配が、波紋のように空間を染めていく。
次の瞬間、私の周囲の空気がゆらりと“色”を変えた。
視界の端から世界が薄い墨を流したように曇り、体表のすぐ外側にひやりとした皮膜が張りつく感覚が走る。
私は、その術式に指先で触れるように冷静に構造をなぞった。
(これは、“対象の生命力を奪い取る”類の呪術ね)
魔力の流れ、刻まれた呪的文様の組み方、代償の質と量からそう判断をする
呪術は基本的に“食らうのは悪手”だ。
最善は「発動させないこと」。
それが叶わなければ「避けること」が第一になる。
呪術の特性は“浸食”だ。
影響を受けた箇所からじわりと伝播し、防御魔法ごと侵食して内部へ入り込むことすらある。
そのため発動されてしまった呪術に対しては――
“避けるか”“起動を逸らすか”“相殺する”かの三択を迫られる。
だが、私はあえて――この呪術を正面から受けた。
私が“呪術をすべて無効化できる”体質であることもそうだが、
呪術は実際に受けてみなければ分からない情報も多いのだ。
(しかし――このドラゴン、結構なやり手ね)
術式は非常に整っていて無駄がない。
術式に無駄がほとんどなく、代償として差し出しているのは自身の“血肉の一部”――しかも“やがて再生される部分”を捧げている。
ヤケになって放った一撃ではない。冷静に、自分の負担を計算したうえで撃ち込んできている。
(討伐難度で言えば、“S”くらいはあるのかもしれないわね)
普通の冒険者にとっては間違いなく“災厄級”だろう。
もっとも――私にとっては“A”と“S”の違いなど些末な差でしかないが。
『うわ、なにこれ。呪術の“中”ってこうなってるんだ』
リカの声が、興味と恐怖の中間の調子で響く。
『ゲームじゃ黒いエフェクトに包まれる演出だったから、こうやって内側から見ると周囲の景色がモヤモヤしてるのは新発見だよ』
視界の輪郭が薄い煙のように揺れて見えるのは、呪術の“境界面”が現実空間と重なっている証拠だ。
『……って、いや。“食らってる”がな!』
『これほんとに大丈夫な状態なの? ゲームだと呪術は聖女様以外が受けるとかなりの大ダメージとか大幅デバフが付くんだけど!?』
ビビり続けるリカをよそに、私は淡々と結論を下す。
「……こんな“二流魔法”なんて、脅威でも何でもないわね」
呟きとともに、掌を軽く返すと、周囲を覆っていた呪的な靄がまるで時を巻き戻すように流れの向きを変えた。
私へ向かっていた“侵食”のベクトルが、そのまま“発信源”であるシードラゴンへ引き戻されていく。
受けた呪術を――術式そのまま、そっくり反射させてお返ししたのだ。
これには、シードラゴンも何が起こったのか分からなかったのだろう。
あるいは分かっていても、もはや打てる手段が無かったのかもしれない。
跳ね返ってきた呪術を真正面からまともに受け
それによって、その生命力が奪われていく。
ドラゴンの表情の細部までは読み取れないが、身を覆う魔力の揺らぎと鱗の色の変化から“苦悶に喘いでいる”ことは十分に伝わる。
濃い群青だった鱗が血の気を失ったかのように少しずつ褪せ、鮮やかな葉がゆっくり乾き枯れ葉へ変わる過程を早送りで見せられているかのようだった。
巨体ゆえにしぶとい。
だが、このまま数刻も経てば、その命の火には確実に終止符が打たれるだろう。
私は、その生命の灯が細くなる様をただ冷静に見つめていた。
――そのとき。
「マティルダ様、お待ちください!」
背後から、風にかき消されぬはっきりとした声が飛んだ。
息は荒く、ここまで全力で駆けてきたのだろう。それでも喉を振り絞り声を届けている。
「どうか、この“水神様”の命まで奪わないでください!」
アヤノだった。
応接室にいたはずの彼女が、髪を乱しながらこちらへ駆け寄ってきていた。
その必死な声音に、私は一瞬だけ思考を揺らされ――指先を軽く鳴らした。
シードラゴンの全身を取り巻いていた呪術が、ぱきんと硬いものが割れる音を立てて崩れ去る。
呪術が断ち切られたことで、ドラゴンの生命力の流出はいったん止まった。
だが――巨体は力なくその場に崩れ落ち、氷塊にもたれかかる形で首を倒した。
ズドンと鈍い衝撃が周囲を震わせ、砕けた氷の破片が粉雪のように飛び散る。
もはや、虫の息だ。
巨大な魔力の揺らぎも先ほどより格段に弱まり、かろうじて“生きている”と分かる程度の細い火が胸の奥で燻っているだけだ。
そんな瀕死の存在よりも――今、私が興味を惹かれるのは、この巨大な存在を庇おうとしたアヤノの方だった。
彼女は一度だけシードラゴンを一瞥すると、こちらへ向き直り深く頭を下げた。
「私の愚かな進言を聞いてくださり、ありがとうございます」
潮風に乱れた黒髪をそのままに、額が地面に付きそうなほど深々と。
「頭を下げるのは早いわね」
私は肩を竦める。
「まだ、“討伐しない”と決めたわけではない。判断を保留にしただけよ」
一旦言葉を切り、あえてシードラゴンへ視線を向ける。
「それに――」
氷塊にもたれかかる巨体は先ほどより明らかに小さく頼りなく見える。
「私が手を下すまでもなく、あと数分もすれば勝手に息絶えるわ」
アヤノの表情がはっと揺れた。
それは“ただの魔獣”でも“魔術の触媒”でもなく、彼女にとってはまさしく“水神様”と呼ぶべき存在なのだろう。
だが、助けたい理由は明確にしておく必要がある。
だからこそ――
「もし、死なせたくないのであれば――」
私は真正面からアヤノを見据える。
「この存在が“生きていることのメリット”を、早く教えて頂戴」
アヤノは一瞬顔を強張らせ、必死に考え込むような表情を見せたが、やがて迷いを振り切ったように口を開いた。
「シードラゴンは、この海域の頂点捕食者です」
その声には確信が宿っていた。
「その存在がいるからこそ、魔獣が増えすぎないのです」
「だから私の生まれ故郷では――この存在を“水神様”と慕っておりました」
「なるほどね。“民を守護している側面”もあると」
私は軽く頷く。
「でも、今回――そんな存在が人類側に襲撃をかけてきた。それはどう捉えるのかしら」
「シードラゴンは温厚です。そして人を襲いません。むしろ人を助けた逸話がいくつもあるのです」
アヤノは一歩出て、強く言い切る。
「彼らは巨体ですが、主に食しているのは海域中のプランクトンです」
「だから、彼らの領域に入ったとしても、こちらから意図的な干渉をしない限り襲ってくることはまずあり得ません」
確かに――私は本でそんな記述を読んだことがある。
そして、そういった益獣としての側面から冒険者ギルドはシードラゴンの討伐依頼は基本的に受け付けてくれないのだ。
(だからこそ、こいつらの素材は重宝されるのよね)
簡単には出回らないから価値が高い。
「温厚な存在っていうのは、私も知っているわ」
私は視線だけで巨大な氷塊を示す。
「でも、実際に襲撃してきた。何かの怒りに触れたのかもしれないけれど――逆に言えば、いつまた襲撃してくるか分からない存在と共存なんてあり得ないわ」
「こちらからの干渉の結果、今回の事態が発生した可能性が高いと考えられます」
アヤノは即座に反論する。
「そして、今回は襲撃ではなく”脅し”が目的だったと思われます」
「その証拠に、対峙していた冒険者の皆さんには大した外傷がありませんでした」
「恐らく睨み合いだけで、戦闘は起こっていないはずです」
確かに、後方へ吹き飛ばした冒険者たちの装備には直接攻撃の痕は見られなかった。
しかし――
「仮にそうだとしても、工事の邪魔になるのは明白よ」
言葉を切り、氷塊の上の巨体を見やる。
「ここで仕留めてしまうのが、最も安全で確実な選択肢だわ」
「水神様――いえ、シードラゴンは船乗りや沖に住む者たちの信仰の対象になっているのです」
アヤノはわずかに声を震わせながら続けた。
「そんな存在を抹消したと知れれば、神として慕う者たちから激しい反発を受けます」
「それに――白鷺商会に所属している者たちは…………」
そこで言葉を飲み込んだ。
おそらく白鷺商会の中にも、シードラゴンを神として慕う者が数多くいるのだろう。
そして一連の行動を見る限り――恐らく、彼女自身もその一人なのだ。
だがそれを口にすれば、魔獣やドラゴンを神として信仰を禁忌としているこの大陸では自身や商会に火の粉が降ることをよく理解しているため明言を避けたのだ。
アヤノはさらに言葉を足す。
「加えて、彼らは陸に上がることは出来ません。水中でしかその巨躯を維持できないのです」
「ですから仮に怒って暴れたとしても――この港側に直接的な被害は出ないはずです」
「安易な考えね」
私は即座に切り返す。
「今回の報復として船を襲うようになるかもしれないでしょう」
「魔獣を追い立ててくる可能性だって、十分に考えられるわ」
「いえ――彼らに限って、それはあり得ません」
「私は過去に、彼らに害をなしたのに、襲われるどころか、命を救われた経験があります」
「だからこそ、私が保証します!」
「彼らは人間に対して友好的な存在だと!!!」
アヤノは一歩も引かず、はっきりと断言する。
真っ直ぐ私の目を見て、真剣な表情を向けてくる。
私はちらりとドラゴンを一瞥し、状態を確認する。
助けるのであればそろそろ回復魔法をかけねば生命は維持できない。結論を出すべき時だ。
今度は私も、アヤノを真正面から見返した。
「あなたの考えや想いはよく分かったわ」
一拍置いて続ける。
「けれども――それを『はいそうですか』と何の担保もなく信じるほど、私は愚かではないし」
「“可哀そうだし助けてあげるか”なんて思うお人好しでもない」
潮風が二人の間をすり抜ける。
「だから――ここで約束しなさい」
私は静かに、しかし逃げ道を与えない声音で告げる。
「以後、この海域でシードラゴンが暴れて被害を出さないこと」
「そして――もし被害が発生したら、その賠償責任はすべて白鷺商会が負うこと」
「今ここで、それを誓って見せなさい」
私の言葉に、アヤノの肩がびくりとこわばった。
彼女個人ではなく、“白鷺商会そのものが全責任を負う”。
――それがどれだけ重い意味を持つか、彼女ほどの商人が理解していないはずがない。
一瞬だけ、彼女は視線を落とし、強く唇を噛んだ。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
そこにあるのは、いつもの柔らかなものではない。
覚悟を決めた者の、きっぱりとした声音だった。
「――承知いたしました」
アヤノは膝をつき、きちんとした礼の姿勢を取る。
「この海域において、“シードラゴンが暴れて被害を出さない”と、我が商会が保証いたします」
「しかし、もしも我らの不徳により、シードラゴンが人々や船に害を成したなら――」
一拍置き、深く頭を垂れる。
「その際の賠償は、“白鷺商会が負う”ことを、ここにお約束いたします」
そこで、ほんのわずかに顔を上げ、付け加えた。
「ただ、一点だけ……」
「誠に勝手なお願いになりますが、その約束は、“人間側がシードラゴンへ敵対行為を行っていない場合に限る”という条件を付けさせてください」
「密猟者や、好奇心からちょっかいを出す冒険者が原因となって発生した被害は、“例外”という形にしていただければ幸いです」
その瞳には、商人として――そして水神の信奉者としての、確固たる決意が宿っていた。
その言葉を聞き、私は指をひとつ鳴らし、シードラゴンに向けて“最上位の回復魔法”を行使する。
濃密な光が、巨体の内側からじわりと滲み出すように広がった。
弱々しかった生命の流れが、一気に勢いを取り戻し、
枯れかけていた炎に油を注ぐように、全身へと巡っていく。
胸元を走っていた古い傷跡が、すうっと消えていく。
鱗の欠けた箇所には、新たな鱗が盛り上がり、
色あせていた部分には、かつての深い群青が戻っていく。
そして――
今まで固く閉じられていた瞼が、ゆっくりと開いた。
巨大な竜眼が、まっすぐこちらを捉える。
その視線には、先ほどまであったような“敵意”や“憎悪”の色は見えない。
あるのは、困惑と、ほんの僅かな警戒、そして……測りかねているような静かな感情だけだ。
私は、その様子を確認し――念のためにと準備していた“拘束魔法”の詠唱を、そっと破棄した。
(つづく)




