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何もない1日と髭面の旅人

 スレイくんとグレイさんに会った日、あの日から数えて10回目の夜を迎えた。ここまで、今のところキューちゃんを捕まえに来た人間はいない。ふたりは約束を守ってくれているのだろうか。


 今日は特に変わりのない、平和な1日だった。日が昇り、キューちゃんが起きて、湖まで駆けっこをして。湖では水鳥たちがゆっくりと過ごしていた。普段はまったり丸く水上をぷかぷか浮いているのに、翼を広げるとあんなにも優雅に空を飛ぶなんて。わたしは思わずその姿に魅了された。わたしが水鳥ばかり眺めてキューちゃんを放置していたため、それからご飯の時間まで、キューちゃんはずっと機嫌悪そうにそっぽを向いていた。

 ご飯はいつもの赤い果実。キューちゃんは本当にこの果実が好きだ。わたしも好きではあるのだけど、毎日毎日これだけを食べ続けるのは、流石に飽きてしまった。なのでたまに新しい果実を試して見るのだが、大抵わたしには苦すぎたり、味が全くしなかったりで、赤い果実を超えるには至らない。

 最近は果実を取りに来るたびに、ひっそりとスレイくんに会えるのを期待してしまっている。しかし、そもそもスレイくんがあそこに来たのは迷子になってしまったからであり、普通はそんな場所で会えるはずがないのだ。

 そう、わたしはあの日、少し変わってしまった。それまではキューちゃんと一緒に過ごすだけで満足していた。でも、あの日。今、記憶のある「わたし」が、初めて誰かと友好的な会話をしたあの日。わたしの他にはキューちゃんしかいなかったわたしの世界が、広がってしまった。世界にはキューちゃんの他にも仲良くしてくれる人がいるのだと、知ってしまった。スレイくんの他にも、誰かと会話をしてみたい。そんな感情が、わたしの中に芽生えていた。グレイさんと話すのは怖いけど。


 果実を食べた後は森の中をお散歩していた。道中、木に登って食べ物を集めている熊と出会った。その集めてた食べ物のうち、丸くて硬い木の実をわたしも食べてみたのだが、わたしには少し渋すぎた。キューちゃんがあの果実ばかり食べる理由がわかり始めてきた気がする。

 館に戻る頃には、だいぶ日も暮れていた。キューちゃんは館に貯めてあった果実を食べた後は、満足して眠ってしまった。

 そして、わたしはこうして、今日もまた退屈で長い夜を迎えていた。たまにはキューちゃんと一緒に眠って見るのも良さそうなんだけれど、眠っている間にキューちゃんに万が一のことがあったらと考えると、眠ることは出来なかった。


 眠りはしなかったが、椅子に座って静かに目を瞑りはした。こうすると、なんだかとても物思いが捗った。風に揺られる木々の音もよく聞こえる。いつも通りの静かな夜だ。

 しかし、わたしの静寂は、そう長くは続かなかった。目をつむってしばらくした頃、風の音に混じって人の足音が聞こえ始めた。だんだんこちらに近づいてくる。この館に向かっているのだろうか?先ほどまでは涼しさを感じているくらいだったのに、今は緊張で身体が熱い。嫌な汗をかいている。


 足音は館の入口まで来た。程なくして、扉を叩く音と、人間の声が聞こえた。


「ごめんくださーい。……誰もいねぇか?」


 大人の男の声だ。しかし、聞き覚えはない。

 キューちゃんは寝床でぐっすり眠っている。扉の前にいる男はこの後どうするだろうか?館に入ってきて、それから?

 少しだけ考えて、わたしは館の入口に向かった。キューちゃんが目的かどうかはわからない。いや、多分キューちゃんを捕まえにここに来たのではない。ただ、どちらにせよキューちゃんを見られないに越したことはない。キューちゃんが眠る部屋に行かないよう、わたしが男を対応して誘導する。


「ごめんくださーい。……開けますよお?」

「すいません、お待たせしました」


 男に扉を開けられるより先に、わたしの方から扉を開いた。そこには、ヨレヨレの帽子と外套を纏った髭面の男が、ひどく驚いた顔で立っていた。

 男は咳払いをして、帽子を外してから話し始めた。


「いやぁ、こりゃ失礼。わたしゃてっきり誰もいな……」

「なんの御用でしょうか」


 そうするつもりはなかったのに、男の言葉が終わらないうちに用件を尋ねてしまった。自分で思っている以上に、警戒心を抱いているのだろうか。そんなわたしを意にも介さず、男は質問に答えた。


「わたくし旅をしているものでしてぇ、こちらのお館で今晩泊まらせて頂けないかと思いまして。いやぁ、外は獣がうろついてて、おちおち眠れやしないものですから」


 森の中で眠ると危険なのは事実だ。大体の動物も夜は眠るけれど、そんな夜だからこそ活動する動物もいる。


「失礼ながら、わたしゃこの館が空き家かと思いまして、勝手に泊まろうだなんて思ってたんですが。住んでる方がいらっしゃるなら、そうもいかねぇなあ。お嬢ちゃん、お父さんかお母さんいるかい?」

「いません。ここはわたしの館。」


 そうか、わたしの見た目だと、館の主だとは思ってもらえないのか。グレイさんは、恩義からか警戒心からか、小柄なわたしを子供扱いせず話してくれていた。だから、身体が小さいと『ナメられる』ことを忘れていた。


「ええぇ、お嬢ちゃん、まさかひとりでこの館に?保護者さんとかいないの?」

「……いないよ。わたし以外には誰も」


 わたしとキューちゃんの館だけど、というか先にいたのは多分キューちゃんだから、キューちゃんの館というのが一番正しいけど、キューちゃんの事を話すわけにはいかない。


「そいつぁたまげたなあ。んで、お嬢ちゃん。おじさん、泊まってもいいかい?」


 いつのまにか旅人の口調が馴れ馴れしくなっている。正直言って不快だ。しかし、ここで門前払いにして、危険な森の中で野宿させるというのも、あまり良い気分ではない。


「いいよ。ただし、2階には行かないで。それを約束してくれるなら」

「ああ、それくらい構わんとも」


 気付けばわたしも敬語をやめていた。まあこの相手に敬語はいらない。


 1階の長机が置かれた広い部屋に案内すると、旅人が質問をしてきた。


「お嬢ちゃん、なんて名前なんだい?」

「……ボサノヴァ」

「ボサボサ?」

「ボサノヴァ!……ボサでいいよ」


 どうしてそこでボサボサが出てくるのか。耳が悪いのだろうか。それとも、そんなにわたしの髪はボサボサなのだろうか。


「はいはい、ボサちゃんね。ところでボサちゃん。この部屋、あんま使ってねえの?でかい蜘蛛の巣が張ってるけど」


 わたしは普段、キューちゃんが眠るあの部屋以外はほとんど使わない。


「そうだね。食べるものはキッチンから上の部屋に持ってっちゃうから。今晩はこの部屋を使っていいよ。変な事をしなければ」

「へっへ、そりゃありがたい」


 そう言うと、旅人は背負っていた荷物を床に置いて、中身を広げ始めた。そんな旅人に、わたしも質問をする。


「おじさんはなんて名前なの」

「シャグラ。シャグラって言うんだ」


 ニイっと笑いながら旅人はそう答えた。口から見える歯は黄ばんでいる。


「ところでボサちゃん。ちょっとキッチンを使っていいかい?」


 シャグラは荷物の中から何かが詰まった巾着と小さな鍋を手に持って、そう聞いてきた。何かおかしな事をするわけではなさそうだし、料理をする気なら興味があるので、キッチンまで案内することにした。


「ずいぶんボロいキッチンだねえ。ボサちゃん、本当に料理してる?」

「わたし、あんまり料理は知らないから……でも、一応料理してる」


 わたしは食事をしなくても特に問題はないので、実際のところ一応どころか全く料理はしていない。せいぜい、果実を潰してジュースを作るくらいだ。しかし、あまり変な事を言って、怪しまれるのは嫌だった。そうして生まれた好奇心で2階のキューちゃんを見られたら大変だ。


「さて、今晩のディナーの食材は……こいつだ!」


 そう言って、シャグラは持ってきた巾着の中身を、鍋の中にぶちまけた。


「えっ?これって……」


 巾着に入っていたもの、それは日中出会った熊が集めていた、丸くて硬い木の実だった。


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