無邪気な子どもとわたしの名前
「ねぇキミ、迷子なの?」
滅多に人間が来ない森の奥。迷子と思われる男の子にわたしは話しかけた。しかし、男の子は肯定の返事もしなければ頷きもしなかった。
「迷子なんかじゃないよ。おじさんがいなくなっちゃったんだ」
自分が迷子であると認めたくないらしい。
「……わたしは、迷子なんだ。一緒にキミのおじさんを探してもいい?」
男の子はどことなく警戒しているような表情だったが、わたしの提案に小さく頷いた。
この子のおじさんがどんな人なのかはわからない。だが、この森のことはある程度は頭に入っているし、歩いている人が近くに来ればその足音を聴き取れる。多少歩き回る必要はあるだろうけれど、そのうちおじさんを見つける事ができるだろう。
「ふうん、おじさんと薬の材料を集めに来たんだ」
男の子と一緒に歩く中、少しずつコミュニケーションを重ね、男の子とそのおじさんの情報を集めた。男の子は11歳だということ。おじさんは40過ぎでメガネをかけているということ。おじさんの仕事は薬師だということ。男の子はおじさんの仕事に憧れていて、11歳になったあかつきに今日は森までお手伝いをしにきたということ。そしてはぐれてしまったということ。
「お姉ちゃん、ボクからも質問していい?」
「ん、なあに?」
「お姉ちゃん、なんて名前なの?ボクはスレイって言うんだ」
名前。わたしの名前。正直なことを言うと、覚えていない。わからない。でも、これまでそれで不自由したことはなかった。普段一緒にいるのはキューちゃんだけだし、そのキューちゃんは言葉を話さないし。名前がわかってもわからなくても、何も変わらない。それが今までのわたしだった。
「……忘れちゃったんだ。わたしの名前」
「えー、名前って忘れるものなの?」
「うーん、わたしも普通は忘れないと思うんだけどね」
どうしてわたしは自分の名前を覚えていないのだろう。改めてその事実と向き合うと、わりと大きな問題のような気がして来た。
「じゃあさ、ボクがあだ名をつけてもいい?」
「あだ名、あだ名かあ。うん、いいよ」
もしかしたら、これからも人と関わる機会があるかもしれない。そうなると、名乗る名前がないというのは不便だ。せっかく名前をくれるというのなら、貰っておくことにした。
「じゃあ、髪がボサボサだからボサ姉ちゃん!」
「えぇー……」
ボ、ボサ……。たしかに、水浴びを終えてからタオルで髪を拭きはしたものの、整えたりはしていなかった。そのため、わたしの腰まである髪は、ちょっとくらい、ボサボサだったかもしれない。
「ね、ねえ、もうちょっと、なんというか手心を……」
「じゃあ、ボサノヴァ姉ちゃん略してボサ姉ちゃん!」
もはや由来は変えてもあだ名そのものを変えるつもりはないらしい。まあ髪がボサボサよりはボサノヴァの方がマシかな。そこでわたしが妥協してしまったため、スレイくんはわたしのことをボサ姉ちゃんと呼び始めた。
それからもうしばらく歩いていると、また別の二足歩行の足音が聞こえて来た。それとなくその足音の方に向かうように進路を取り、進んでいくと、カゴを背負った男性の姿が見えた。
「あっ……おじさん……!おじさーん!!」
スレイくんはそう呼びかけると、男性の方へ駆け出して行った。どうやらあの男性がおじさんで間違いないらしい。よかったよかった。
再会したスレイくんと男性が何やら話している(というか叱られている)のを遠目に見ながら、この辺りで帰ろうかと思った時。まずい事態になったことに気付いた。
スレイくんと歩いている間、キューちゃんはわたしたちと付かず離れずの距離を保ってついて来ていた。当然、姿を隠しながら。姿を隠すということは相手のことを直接見れないということで、わたしもキューちゃんも、足音でなんとなく互いの位置を把握していたのだけれど。今のスレイくんの走る足音につられて、キューちゃんがスレイくんと男性の方へ向かってしまった。
見つからなければ、何も問題はない。でも、もしも、見つかってしまったら。あの男性は、スレイくんは、キューちゃんのことをそのまま見逃すのだろうか。
キューちゃんがどうして狙われるのか。その理由をわたしはよく知らない。けれど、あの時の狩人――二人組で館に入ってきた狩人の生き残りは、仲間が死んだというのに、懲りずにキューちゃんを捕まえに来た。殺されるリスクを冒してでも捕まえる価値を、人間たちはキューちゃんに見出しているのではないだろうか。
もしもあの2人がキューちゃんに同じような価値を感じる人だとしたら。そして、キューちゃんを捕まえようとするなら。わたしは家族を守らなければならない。たったひとりのわたしの家族を。
あの子を殺すのは、嫌だな……。
お願いだからキューちゃん、どうか見つからないで。
遠くで話していたスレイくんと男性が、こちらに近づこうとしていた。おそらく、別れの挨拶かなにかをしに来るのだろう。わたしは焦りのせいで、自分から2人の方へ駆け寄ってしまった。結構なスピードで。万が一キューちゃんが見つかる可能性を考えたら、距離を詰めずにはいられなかった。
そんなわたしのスピードを見た2人は、かなり驚いた顔をしていた。
「ボサ姉ちゃん、すっごく足が速いんだね……」
スレイくんはそんなことをつぶやき、男性は目を丸くしていた。今の行動で、男性はわたしが人間でないと気付いただろう。無用な警戒心を持たせてしまうのは、あまり良くない気がする。
男性は咳払いをして、眼鏡の位置を直してから口を開いた。
「この度は、私の甥がご迷惑をおかけしました。本当に、ありがとうございます」
「いえ、いえ。迷惑なんかじゃありません。スレイくんとのおしゃべりは楽しかったです。無事に……えーと、おじさま?の元にお連れできて良かったです」
「ああ、私はグレイと言います。どうか今回のお礼をさせていただけないでしょうか。ボサノヴァさん」
ボサノヴァさん。そう伝わったのか。
「ありがとうございます、でもお礼は大丈夫です。大したことはしていませんので」
そう伝えると、グレイさんは少し間を置いてから、質問をして来た。
「ボサノヴァさんは、こちらの森にお住まいがあるのですか?」
住処の質問。この質問の意図はなんだろうか。さっきのわたしの走りで生じたわたしの正体への疑問を、答え合わせしてるのだろうか。黙って考えていると、グレイさんは言葉を続けた。
「スレイから聞いたかもしれませんが、私は街で薬師をしています。医者ではないので診療は出来ませんが、何かお力になれることがあればいつでも訪ねて来てください。少し遠いかもしれませんが」
少し遠いかもしれませんが。これは私が森に住んでいると見越しての言葉なのかな。もしかして、さっきの質問に即答出来なかったから、森住まいだと思われてしまったのだろうか。
「……どうも、ありがとうございます。それでは私はこの辺りで。バイバイ、スレイくん」
グレイさん、悪い人ではないと思うのだけど、これ以上話し続けるのはなんだか嫌な感じがした。余計な情報を見透かされてしまう、そんな気がした。あまり探りを入れられたくない。
そんな時。
近くからボキッという木が折れる音がして、すぐ後に何かが地面に落ちた音が聞こえた。音のした方へ振り向くと、キューちゃんがそばの葉っぱの山に落ちていた。
さっきわたしが走った時、キューちゃんはその足音でわたしの位置を把握したようだ。それで、わたしたち3人の正確な位置関係を把握しようと木の上に登っていた。上から静かに眺めてたけど、わたしが帰る素振りを見せたから、そろそろ移動しようとして。何かを間違えちゃって、足元の枝が折れて落ちてしまった、とかだろうか。
とりあえず見た感じ怪我はなさそう。それはよかった。
違う。キューちゃんが今のわたしから見える位置にいるということは。
「うわ、びっくりしたあ」
「……あの動物は……!」
当然、ふたりからも見えてしまうわけで。
キューちゃんを見られてしまった。口封じ、しなきゃ。
気づけばわたしの手は震えていた。




