回復色
「もう三区画が潰れたけれど、まだやるの?」
ユヴィリアイゼは咎めるように尋ねた。彼女はまだ手傷一つ負っておらず、頬と肩、そして横腹から血を流し、度重なる苦痛のせいで肩で息をしているレフとの差は歴然としている。
レフは険しい顔をしていた。魔力よりは威力の高いアイゼルトとしての能力を優先して使っているのだが、その消費の勢いが凄まじい。掃討波を温存せざるを得なくなってきている。
対して、ユヴィリアイゼがレフに直接的に害を及ぼせるのは、アイゼルトとしての力よりは劣るはずの魔力でのみ。それにも関わらず、二人には圧倒的な差があった。
「そんな怖い顔をしないで」
ユヴィリアイゼは怒りを収めたかのように笑って言った。
「せっかくの可愛い顔が台無しじゃないの」
「だったら今すぐ機巧兵を撤退させてください」
レフは言い切り、状況を打開する策を見出そうと目を細めた。
「レフェアイゼ!――レフェアイゼ!」
アレンの声が聞こえる。確かに約束通り、何度も何度も名前を呼んでくれている。
「それは出来ないわね」
ユヴィリアイゼはのんびりと言い、機巧兵を見渡した。
爆炎に空が染まり、黒煙が漂い、破壊された機巧兵が堆く積み上がっているというのに、その眼差しは怖いくらいに穏やかだった。いつもと変わらない、美しい静かな表情だった。
「ねえ、レフェアイゼ。あなたはどう思っているの?」
ユヴィリアイゼは呟いた。
銀色の光の軌道に従って破壊が撒き散らされ、また炎が上がった。
「今、もしもわたくしが機巧兵を撤退させたとする。けれどどうせ世界は駄目になるわ。また沢山の人が巻き込まれて死んでしまう」
それでいいの? と、まるで幼い子供がするように首を傾げた。
レフは思わず吐息を漏らした。その吐息に溶けているものは、感情に直すとすれば失笑だった。
「そんなことは考えていません、お姉さま」
レフは言って、すとんと肩を落として息を吐いた。
「〈記録〉が破壊されています。もうあそこで生活は出来ません。わたしは外界で暮らすことになります。そしてそうである限り、わたしは数十年もすれば死にます」
距離のあるユヴィリアイゼの顔を、それでも覗き込むようにして、落とすように断言した。
「ですからわたしは、そんな未来のことなんて考えていません」
ただ、今この世界の人たちが記憶を失うのが嫌だから。いくつもいくつも世界を見ていくのは寂しいから。
レフは言外に、世界を終わらせるのはまだ早いと断言したのだ。
「困った妹」
ユヴィリアイゼは呟いた。
決してレフのことも誰のことも我が子とは言わず、自ら引いた一線を守っている。その言葉を紡ぐ人はもういないのに、忠実に続きの言葉を待っている。ゼアントの娘たちの、母を名乗るのに必要な一言を。
「でもそれを考えろというのが、ゼアントがわたくしに遺した言葉なのですもの」
ねえ、レフェアイゼ、と、まるで二千と五百年の昔のように呼び掛けて、しかし当時では決して有り得ない問いを口に昇らせる。
「どうしてわたくしを止めようとするの? やろうと思えば、愛着のあるものたちだけを〈記録〉に避難させることだって出来たでしょうに」
レフは首を傾げた。その手段は一度たりとも考えなかったが、なぜなのかと問われればその答えには一瞬で辿り着く。
〈記録〉が彼女たちにとって、そして誰よりもユヴィリアイゼにとって神聖で特別な場所だったことと、そして――
「そんなこと決まっているでしょう、お姉さま」
断言した彼女の声に、三千年分の自負が仄見えた。
「わたしは北方の守護者ですもの。――あなたがそう、わたしを位置付けたときから」
そうだった、と呟いたイリセ・アイゼルトの声は、楽しげで少し寂しげだった。レフは唇を噛んで、それからはっきりと言った。
彼女を誰より信じたフロースが幾度となく彼女に名乗らせ、そしてアレンが遥々〈記録〉にまで求めた存在を、世界に認知させるように。二千年前よりも誇らしげに、二千年前よりも伸びやかに。
「わたしはリノ・アイゼルト。北方の守護者、アゼイラの救世主」
二千年前よりも過酷な状況に置かれた今、彼女は以前よりも幸せだったのだから。
救世主でなければならないという重圧も期待もない。アレンは彼女を、アイゼルトの一人としてではなく、レフェアイゼという一人の人として見ているのだから。
ユヴィリアイゼが薄く笑った。薄い硝子のような笑み、今にも罅割れてしまいそうな。
「だったらやっぱり、あなたはわたくしの敵なのね」
その手が探るのは、やはり心盤だった。
「次はどこが駄目になるかしら?」
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アレンはぜえぜえと息を乱しながら、使い物にならなくなった左腕を眺めた。
折れていたのは前からだが、今度は完璧に関節が外れた。この極限状態にあって、脳がどこかおかしくなったのか、痛みはまるで感じないが、動かないのは事実である。
「やりやがって、この……」
呟いた先にあるのは、人型の機巧兵。見覚えがあった。確かレフが、ルイとか呼んでいたか。ルイも無傷ではなくて、右腕が丸ごと飛んでおり、腹も抉れていた。やったのはアレンだが、この傷で動いてるって何者だよと、今更ながらにぞっとする。
「末の北のお姫様は、中央の姫君に敵いません」
ルイは明瞭に言った。その目は、苦痛や恐怖ではなく、ただ疑問を表わしていた。
「どうして逃げないんですか、あなた。さっさと逃げればいいのに。ここは爆心地になるんですよ? 絶対に掃射からは逃げられませんよ?」
「いいこと教えてやろう」
アレンは唸るように言った。
「掃射はされない。レフは勝つ。ついでに俺も、俺の仲間もな」
剣を持つ手が怠くなってきた。体中どこもかしこも軋んでいる。
「変な人だ」
ルイは呟いた。
「あなたも末の北のお姫様も」
「……機巧兵に言われるのは心外だが」
アレンは言って、剣を持ち上げた。ルイももう素早い回避行動は取れない。
片手で剣を頭上に持ち上げて、掃討波を宣言する。そのまま重力に任せて剣を振り下ろした。
初めて見たときから変わらない銀の光の大波は、ルイを丸ごと消し飛ばし、周囲も同じく巻き込んだ。
はあ、と息を吐いて、レフを見上げる。レフは今は戦っておらず、ユヴィリアイゼに何か言っていた。その姿を見ながら、アレンは口元に笑みを浮かべて呟く。
「レフと同列に並べられるのは、いいもんだな」
そして斜面を駆け上った。
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レフが歯を食いしばって魔力を爆発させ、ユヴィリアイゼを威嚇する。
――もう、威嚇程度の余力しか残っていないかのように。実際、魔力においてはユヴィリアイゼの方が圧倒的に優れており、全力でぶつけたとしても与えられる打撃は高が知れている。
ユヴィリアイゼは軽く魔力を障壁に錬成し、苦も無くそれを消滅させた。そして心盤に触れようとして、――身体の平衡を崩してよろめいた。
「何回もさせるかってんだ!」
右半身から思い切りユヴィリアイゼに当て身を喰らわせ、左腕で思うように均衡を取れずに自身も体勢を崩したアレンが叫んだ。
――レフを見るに思うことだが、アイゼルトというのは遠距離戦でも接近戦でも無類の強さを持つ。魔力総量が常人の域を遥かに超えた尋常ではないものであることと、アイゼルトとしての能力の桁外れの強力さが、それを実現しているのだが、だからこそ、人間や機巧人が普通にやるような肉弾戦には弱そうなのだ。恐らく戦闘の形式として想定外なのだろう。
確かに、普通であればアイゼルト相手に肉弾戦まで持ち込むことは不可能だ。
しかし今のような、アイゼルト対アイゼルトの戦闘に割り込んだ場合、それが出来る。双方相手の攻撃手段は熟知しているから、どうしても注意も警戒もそちらに行きがちだ。つまり気配を殺して近付きさえすれば、接触くらいは出来るのである。
「――レフェアイゼの使用者……」
ユヴィリアイゼが軽く魔術を使用して姿勢を整え、不機嫌に呟いた。
「なんて邪魔なの」
容赦ない鋭利がアレンに降り注いだが、アレンはさっと避けていた。ついで掃討波で機巧兵を消し飛ばし、ざっと機巧兵を見て思わず唇を曲げるようにして笑った。
「減ってない減ってないと思ってたが、案外減ってるのかもな」
「数としてはまだ十分残っていると見做すべきです、アレン」
レフが息を整えながら言い、ユヴィリアイゼが心盤に触れるのを見て息を詰めた。
「レフェアイゼ!」
アレンは呼んで、同時にユヴィリアイゼに掃討波を撃った。ユヴィリアイゼがそれに対処した一瞬、すかさず彼女に肉薄し、接近したまま思い切りその手目掛けて剣を突き出した。
(こうすれば――っ)
鮮血が散った。
ユヴィリアイゼは初めて負った手傷に驚いたような顔をして、自身の心盤を握った手を見た。そこに刃が喰い込み、真っ赤な血が心盤を伝って地面に滴っている。
「なんて邪魔なの」
ユヴィリアイゼは先程よりも苛立たしげに言い、アレンを押し遣ろうとしたが、いかにアイゼルトと言えどアレンとは膂力が違う。
(レフ頼む!)
目を合わせた一瞬、レフが理解の光を目に宿らせ、アレンを魔術で押し遣ろうとしたユヴィリアイゼに、過剰ともいえる防護で対抗した。
(よしこれで――多分――)
アレンとユヴィリアイゼが押し合い、アレンはユヴィリアイゼの心盤を破壊しようとしているかのように剣に力を込めた。当然アレンは先程から剣を引いていない。ゆえにユヴィリアイゼの手の甲に容赦なく刃が喰い込み、止め処なく血が溢れるが、ユヴィリアイゼは蚊に刺された程度の反応しか示さない。
しかし心臓とも言える急所のすぐ傍に凶器があって、冷静に考えを巡らせる者はいないだろう。どんな馬鹿でも状況を分析する前に急所を守る。相手の狙いが自分の命だとはっきりしていれば尚更だ。
アレンにしてみれば、どちらでもいいのだが。
筋力では押し返せず、魔力は妹に妨害され、アイゼルトの力を使おうとすればアレンが掃討波を使おうと半ばまで詠唱した。
「+【掃討――】」
「撃て!」
ユヴィリアイゼは間髪入れずに叫んだ。
自身以外のアイゼルトの攻撃に対し、防護壁を持っているのはただ一人レフェアイゼのみ。この至近距離で掃討波を撃たれれば、いかにそれが弱いものであろうと確実に心盤は破壊される。防護で防ぐ隙間すらないのだ。
だから確実なのは、自分の手傷をある程度覚悟した上で、機巧兵にアレンを撃たせること。
(くると思った!)
確かに確実な手段だった。
ただしそれは、アレンが常人であればの話。
アレンがユヴィリアイゼを持ち上げた。ふわりと浮かせて、エスコートをするように、丁寧ささえ感じさせる動きで互いの位置を入れ替える。
それを、機巧兵の攻撃の着弾までの瞬くほどの間にやってのけたのだ。
魔力を放った機巧兵たちは弾道を変えた。ただし他はそうはいかない。
「――――っ!」
悲鳴を堪えるように唇を覆ったのは、ユヴィリアイゼではなくレフだった。
普通なら致命傷だろう傷をたちどころに受けて、ユヴィリアイゼはさすがに立っていられないのか膝を突いて喀血した。一度大量に吐いた後、続けてえづくように何度にも亘って血を吐く。
くらくらするほど美しく、アイゼルトの血が薫った。
無論、左手を使えないアレンは鞘で防護を展開させられず、そもそも鞘は先程落とした処に取り残したままであり、咄嗟にレフが防護を展開したものの、それでも右肩と脇腹、そして脚にも負傷した。レフだけは辛うじて無傷で済んだようであるが、アレンは傷のせいで、レフはさすがに目の前の光景に視線を縫い付けられて、咄嗟には動けない。
普通ならばこれで決着だ。ユヴィリアイゼは鉄の塊に胸を貫かれ、炎で背中を焼かれ、腰の辺り一帯を氷で刺されて、その上空気の塊を喰らって呼吸が一時的に奪われている。
レフが休眠に入った時よりも、傷の程度は深い。
ユヴィリアイゼの周囲が見る間に血の海となった。
(これで――)
アレンは肩の痛みに思わず呻きながらも周囲に目を遣った。
(やっぱり)
レフのときと同じだ。アイゼルトを傷付けたと認識し、その大量の血の匂いに中てられ、機巧兵たちは動けない。
「う……うう」
ユヴィリアイゼが呻いた。レフがぴくりと反応する。
止めを刺さなければ。
そのことははっきりと分かった。アレンは痛みを無視して剣を構え――
「うわっ!」
目の前で起こった爆発に、思わず体勢を崩し、左腕で身体を支えようとして左腕が動かず、無理に動かそうとしたことで燃えるような痛みに襲われ、声にならない叫びと共に地面に突っ込んだ。
「ちっ……くしょう」
呻き声を上げ、反射的にレフの無事を確認する。レフはやはり予期していなかったのか、爆発の威力をもろに喰らって少し飛ばされていた。しかし大きな怪我はないようだ。
ユヴィリアイゼが蹲ったままで顔を上げた。その顔を見て、アレンは戦慄した。
笑っているのだ。
皮肉な、どこか自嘲気味な色のある笑みではあったが、確かに笑っているのだ。意識を保っていられないほどの、神経が切れてもおかしくないだけの痛みに苛まれているはずの彼女が、この場の三人のうちで最も余裕ありげに笑っている。
おかしい。
レフは十分に深かったとはいえ、これよりはやや浅い傷を受けて術式の殆どを欠損し、休眠に入った。いかに魔力総量が大きいとはいえ、ユヴィリアイゼもせめて動けなくはなるはずだ。
レフも、珍しいくらいの驚愕の表情で姉を見ている。
けほん、と咳き込んで血を吐くと、指先で上品に口元の血を拭いながら、ユヴィリアイゼが笑って言った。
「……なに、その顔は」
二人の顔を見て、それから笑みの皮肉の色を濃くした。
「ああ、分かった。こんな傷を受けたら、いくらわたくしでも痛まないはずがない、と思っているんでしょう? レフェアイゼと違って苦痛の命令のようなものを持っている訳でもないのに、平気なはずがない――とね」
ユヴィリアイゼはアレンを見て、嘲るように後半の言葉を紡いだ。
はあああ、と息を吐き、ユヴィリアイゼは座り直した。
「レフェアイゼの使用者、教えておくけれどね。わたくしにとってはこんな痛み、痛むうちに入らないのよ」
おかしいのだ。こんなに流暢に言葉が出てくるはずがない。切れ切れに喋ることさえ出来ないはずなのだ。
「レフェアイゼの苦痛の命令、確かに苦しいでしょうとも。あれを知っていれば大抵のことには平気になるでしょうね。
だからわたくしだって平気なのよ」
呆然と自分を見るアレンに嫣然と微笑んで、しかしやはり自嘲の色を交えて、ユヴィリアイゼは静かに言った。
「レフェアイゼの苦痛の命令は、元はあたしの苦痛だもの」
レフに目を移して、首を傾げた。
「ねえ、〈記録〉に戻ったのならあなたはもう知っていたでしょう?
――辛いとは思っていたけれど、まさかこんな痛みまでましと思えてしまうとは。あのときのあたしはよく正気を保てたものだ」
独り言のように零して、ユヴィリアイゼは立ち上がった。
「それとも、何かしら? いくらわたくしといえども、この傷を受ければ休眠に入らなければ回復できないはずじゃないのかと思っているのかしら?」
癒えていく。ユヴィリアイゼの全身の傷が、完治とまではいかないものの、軽傷と言える範囲にまで治っていく。
「舐めないで」
イリセ・アイゼルトは言い放った。
「――わたくしを他のアイゼルトと同列に見るな」
二人を見据える漆黒の目に、凄絶な感情が走った。
「ゼアントがわたくしを守ることを、怠ったことは一瞬もない!」
誇らしげに、まるでそのことで自分の全てが肯定されるかのように、ユヴィリアイゼは断言した。
血溜まりの血が、まるで時間を巻き戻すようにユヴィリアイゼの中に戻っていく。そのユヴィリアイゼは末の妹を見て、苦笑するように表情を揺らめかせた。
「あなたはわたくしの苦痛を背負ってしまったから、自分の身を守ることが出来るようにと戦闘色を最強にしてあげた。ねえ、レフェアイゼ、わたくしはあなたが大好きよ。大好きだから、そうしたの」
「…………」
「ゼアントはわたくしが大好きだったようね」
ユヴィリアイゼは呟いて、結果的に軽傷を負っただけのその身体を、一度だけ見下ろした。
「わたくしにこの膨大な魔力の使い方を教えたのはゼアントよ」
機巧人の身にすら余る、異端としか言いようがない、生き物としての命数すら狂わせる異常な魔力。それほどの魔力を持っているのは、後にも先にもユヴィリアイゼだけだろう。他のアイゼルトですら、〈記録〉を出れば他人と同じように齢を取り、死んでいって朽ちるのだ。
「ゼアントが何よりも先に何よりも念入りにわたくしに教えたのは、治癒の術。言うなればわたくしは回復色では史上最高の技量を持っているの。こんな傷を治すことは訳ないわ。
――そして、もしかしてレフェアイゼが休眠するのを見たことがあるのかも知れないけれど、そこの使用者――」
きみはいつも考えなしだから、とそう言う、ゼアントの柔らかな声がまだ耳元に残っている。
「確かにレフェアイゼがこの傷を負えば、休眠を余儀なくされるでしょう。術式だって失って、とても治癒どころではないでしょうね。でもね、ゼアントは」
レフを見て、ユヴィリアイゼはにこりとした。
「自分の娘であるあなたたちですら、信用はしなかった。何よりもわたくしのことを考えた。わたくしが裏切りに遭わないかを案じた。だからね、レフェアイゼ――」
最古の機巧人、そして最強のアイゼルトは髪を払い、ただの事実を告げる口調でその言葉を落とした。
「アイゼルトはわたくしには勝てない。危害を加えることすらままならない。そういう力量になるようにして、あなたたちを創るようにとゼアントが言ったのだもの」
何の気負いもなく、ユヴィリアイゼは言い切った。
「そのように、わたくしはあなたたちを創ったのだもの」




