微笑
「次」とはすなわち、アーデット高地目前の小休憩――最後の休憩を指していた。
アレンは馬から下り、レフを抱え下ろしてやると、首を傾げて尋ねた。
「話って?」
レフは少しの間俯いていたが、やがていつものように偉そうに、理の当然という顔をして話し始めた。
「このすぐ傍で、イリセ・アイゼルトは記憶消去の魔法陣を用意しています。その術式はわたしも扱えませんから、解除は出来ません。予め出来上がっているものに干渉することしか出来ません。【掃討波】でも、姉が機巧兵で創った術式を破壊することは出来ないでしょう。
無理にすれば出来ないこともないでしょうが、その場合この高地一帯が無事では済みません。記憶消去の魔法陣に組み込まれていた魔力が暴走して、【掃討波】の威力を乗算した爆発が起きます。――ユアンたちも巻き添えになります」
アレンは頷く。
「ああ、それは――解除できないっていうのは、〈記録〉で聞いたな」
はい、とレフは頷いて、澱みなく続けた。まるでこのときのために、何回も練習してきたかのようだった。
「ですからわたしは、その魔法陣に干渉します。――〈記録〉でわたしが最後に、術式を錬成したのを覚えていますか」
アレンは少しの間記憶を探り、あの、レフの指先に溶けていった魔法陣を思い出した。
「ああ、あれな。あれが、何なんだ?」
「あれで記憶消去の術式に干渉します。あれは対象を書き換えます。上手く作れたので、恐らく姉も改竄に気付かないでしょう」
嫌な予感がした。ひどく嫌な、切羽詰まった感じが。
レフが遠くへ行ってしまうような。
「対象の、書き換え――?」
低い声が漏れた。
欠片も動じずに、レフは頷く。
「はい。本来の対象である大陸全土の人々の記憶と、等価のものと対象を書き換えます」
嫌な、嫌な、これ以上なく嫌な予感が、容赦なく頭をがんがんと揺すぶる。アレンは思わず蟀谷を押さえた。
「――レフ。分かりやすく言え。何と、書き換えるんだ」
レフが片手を挙げて、アレンの仕草を真似るように、自分の蟀谷に触れた。
そして淡々と告げた。
「これです」
アレンは目を見開いた。レフははっきりと言った。
「わたしの持つ三千年分の記憶と情報は、とても重い。抱えているのに疲れるほど、重いんです。だから、この大陸全土の人々の記憶と天秤に掛けても、釣り合いが取れるはずなんです」
目を見開いたままのアレンを困ったように見て、レフは端的に言った。
「簡単に言いますと、姉が魔法陣を起動させると、わたしは一切の記憶を失います」
――あなたのことも書きますね。
「ふざけんなっ!」
気付くとアレンは怒鳴っていた。レフが少し驚いたように目を瞠るが、気にしていられない。なりふり構わず肩を掴むと、驚くほど彼女は華奢なのだと改めて痛感させられた。
「なんで勝手にそんなこと決めた! 誰がそんなことをしていいと言った! 何が疲れるだ、何が釣り合うだ! 勝手に決めるな!」
レフがきょとんとしている。
「おまえの記憶と釣り合うものなんてねえんだ!
なんで姉妹のことを忘れようとするんだよ!? なんでオーヴェルって人のことまで忘れようとするんだよ、好きなんだろうが!
なんで――なんで俺のことも忘れようとするんだよ!? そんなこと許さねえぞ! そんなに俺が嫌いか!」
「――アレン」
レフが何か言おうとしたが、耳に入らなかった。いや、聞きたくなかったのかも知れない。
「〈記録〉に戻ったら俺のことも書いてくれるんだろう!? そう言っただろうが! それもなしにするのか、ああ約束はしてなかったもんな? 機巧人に約束は出来ないって言ったからか? 悪かったよ、今ではそんなこと思ってない。取り消せって言うんならいくらでも取り消す、何だってするから! だから――」
嗚咽が声に交じり始めた。アレンはレフを揺さぶって、そんな馬鹿げた考えを止めさせようと思った。それなのにレフの身体をどうしても乱暴に扱えなくて、情けなくも彼女の肩に額を預けるようにしてしがみ付いた。
「だから――頼むからそんな、笑えない冗談は言うな」
一呼吸、二呼吸の間があった。それから、レフが困ったように躊躇いがちな手付きで、アレンの頭を撫でた。
「ユアンに、あなたはわたしの記憶を惜しんでくれるか訊いたとき、惜しんでくれると答えられました。――本当でしたね」
レフにしがみ付いたままで、アレンは呟いた。
「みんなには、先に言ってたんだな」
「はい」
レフは認め、アレンは思わず声を荒げかけた。
「なんで、俺にはこんな寸前になって――!」
「あなたがわたしの使用者で、わたしに最も近い人であるだけならば、一番に教えましたとも」
レフはアレンの言葉を遮るようにして言い、アレンの頭を軽く、宥めるように叩いた。
「けれどあなたはそれだけではないから。あなたは、わたしを大切にしてくれているでしょう?」
アレンは俯いたままで苦笑した。
「――上手く出来なかったけど」
「いいえ、いいえ」
レフは歌うように否定を重ねた。
「あなたほど『わたし』を大切にしてくれた人はいません。『北方の守護者』ではなく『わたし』をきちんと見てくれたのは、あなたが一番です。だからあなたに辛い思いはさせたくなかった」
アレンは動けなかった。
「あなたの発言の間違いを指摘します。まずわたしは、自発的に忘れようなどとは思っていません。これしか方法が無いので、やむなく取った策です。
そしてわたしは、あなたが嫌いではありません」
アレンは顔を上げた。レフは不思議そうな顔をしており、どうして自分がアレンを嫌っていると思われたのか、心底疑問に思っているようだった。
アレンと目を合わせて、レフはその華やかな青い目に優しい色を昇らせた。
「あなたが好きです、アレン」
レフは神聖な言葉を口にするようにそう言った。恐らく彼女は、その言葉がアレンに、震えるほどの嬉しさを、戦慄と紛うほどの幸福をもたらすとは知らない。だからこその真っ直ぐな眼差しで、レフは迷うことなく言葉を続ける。
「あなたはわたしが欠陥品でないと言ってくれた人。わたしが二千年待った人。書くことをたくさんくれた人。わたしを大切にしてくれる人。あなたはわたしの大切な人。――あなたは、わたしが、大事にしたい人」
アレンの両手を取って、レフは言葉を紡いでいく。
「以前に少しだけ言っていました。わたしは人殺しです。二千年前、誰よりわたしを信じてくれた人をこの手で殺した。あの人の目を今でも覚えている。あの人がわたしを裏切ったと思ったからこそ首を刎ねたのですけれど、先に裏切っていたのはわたしの方でした。彼の命より大事な者たちをこの手で殺めていた」
アレンは黙っていた。
「きちんと覚えているんです。その人たちの名前はロイーゼにイルシュにリエラ。もうあの人はいないから、許してくれと言うこともできないし言う資格もない。事情の説明ももう出来ない。言いましたよね。あの人が守ろうとしたものを差し置いて、他のものは守れないと思っていたと。あの人が守ろうとしたものを壊しておきながら、他のものを守るなど、彼に顔向けが出来ないと」
あっさりとミリウィアを壊滅させようとした銀の髪の姫君。
その彼女が今は、柔らかな表情でアレンを見ている。その彼女を見ているだけで、アレンの世界は一瞬一瞬違う彩に色付く。
「ですけれど、あなたがいたのでわたしはもう一度、何かを守ってみようと思いました。あなたが余りにも当然であるかのように、町の安全が最優先だと言ったから。それを疑っていなかったから。わたしに、守らせてくれると言ったから。きっとそれが彼への贖罪にもなるだろうと思えました。
――本当に……、あなたがいなければ、わたしももっとあっさりとこの記憶を諦めて、姉を討ちに行けたのに。あなたがいるからわたしは、この記憶が惜しいなどと思っている」
そう言って、レフは首を傾げる。アレンの大好きなあの角度で。
「だからもし、わたしが記憶を失くしたら、あなたが思い出させてください。あなたと行った処に連れて行って、あなたが言ったことを言ってください」
そんなことをしたところで、記憶は戻りはしないだろうけれど、そんなことは分かっているけれど、ふと零れるようにそう言っていた。
「そうしてくれれば、わたしは多分、もう一度あなたに恋をします」
レフはゆっくりと言う。
「わたしの人生は長いので、まだまだあなたに言っていないことが沢山あります。全部お話します。そうしたいと思います。きっと退屈はさせません。
ですのでアレン、明日からも一緒にいてくれますか?
――もしわたしが全部忘れても、それでも一緒にいてもいいですか?
お話しすることはなくなってしまいますけれど」
うん、うん、と頷いて、アレンは思わずレフを抱き締めた。何の躊躇いもなく言葉が出てきた。
「大好きだ、レフ。俺はおまえが好きなんだから、おまえが何を忘れたって離れてやらない」
レフはどう返せばいいのか迷ったようで、結局それには答えなかったが、まだアレンの発言への訂正は終わっていなかったらしく、生真面目にアレンの腕を外して目を合わせ、続けた。
「――それからわたしは、機巧人に約束は出来ないという旨のあなたの発言に対する反証を、既に挙げています」
アレンが訝しげに眉を寄せると、レフは少し誇らしげにに言った。
「約束したでしょう、アレン。わたしはそれを破っていません。それはこれからも、ずっと、そのつもりです」
その瞬間、アレンは己の目を疑った。
レフが、レフの表情が。
こんなに美しいものは見たことがない。今までのレフが見せた表情で、最も彼女が美しく見える瞬間だった。
初めてレフが笑っている。
柔らかな美しい微笑みが、確かにその唇に弧を描かせて、その頬を綺麗に持ち上げて、目が優しげに細められて、こんなに嬉しそうに幸せそうに、これほど美しい表情を浮かべるなどと、人の顔には想定されてはいないだろうというくらいの、極上の笑み。
「だから、大丈夫です」
その笑みと同じ音色の声で、レフは断言した。
「わたしはあなたの隣にいます」




