別れ
リアに呼ばれて戻って来たアレンは、やはり不機嫌そうだった。
しかしそこで待っていたレフ以外の全員が、軒並み落ち込んだ顔をしていたため、その表情は驚きへと変わった。
「え、おい。何があった」
「何も」
レフが答えて、アレンを手で招いた。アレンがそちらへ足を向けると、それを立って出迎えた彼女は、滑らかな口調で言った。
「あなたにお願いがあります」
「なんだ?」
アレンは怪訝そうに眉を寄せ、レフはその彼の両手を取って指先に触れた。アレンが少し動揺するが、それには気付かない振りをする。
「イリセ・アイゼルトがもし、〈記録〉を見限って苦痛の命令を連発した場合、わたしには相当な負荷が掛かります」
うん、と案じるようにアレンは頷く。レフは続けた。
「最悪、わたしの自我の崩壊も有り得ます」
アレンの顔が強張ったが、レフは気にせずに続けた。
「わたしは現在、あなたの指紋と声紋と虹彩の形状を、使用者のものとして認識しています。
ですからあなたは出来るだけ、わたしの名前を呼んでください。
あなたの指先に触れること、あなたの目を見ること、そしてあなたの声で名前を呼ばれることが、わたしがあなたを使用者として認識する手段であり、また使用者を認識している間は、自我の崩壊も起こりにくいと思われます。
ですが、戦闘中であったり離れていたりしては、あなたに触れることも、あなたの目を見ることも難しいでしょう。ですから出来るだけ、名前を呼んでください」
アレンは頷いた。
「名前を、呼べばいいんだな?」
「はい。レフェアイゼ、と」
思い出したのはあのとき、レフが大怪我を負ったときのことだった。背中から身体を貫かれて意識を失った彼女が、アレンがレフの名を絶叫した結果、目を開けたのだ。更に休眠から覚めるときにも、アレンがレフの名を呼ぶ必要があった。
アレンはもう一度、今度は大きく頷くと、レフの銀色の頭に手を置いた。
「そんなことでいいなら任せろ。何回でも呼んでやるよ」
レフは嬉しそうにしながら俯き、はい、と呟いた。
彼はレフェアイゼの名前の意味を知らないだろう。けれどもそう言ってくれることが、なぜだかとても嬉しかったのだ。
三千年生きてきたけれど、レフェアイゼのことをこんな風に見てくれる人はいなかった。これほど真っ直ぐに、北方の守護者ではなくレフを見てくれる人は。
こんな人に出会えたから、もう唯一となってしまった姉と敵対することも、怖くないと思えた。
「どうした?」
アレンがレフの顔を覗き込む。ちょっと戸惑ったように顔を顰めていた。
「今深刻な話してなかったっけか。何かおまえ、嬉しそうだぞ」
レフは思わず自分の顔に触れた。そこに笑みの気配は無かったけれど、それでも言われてみればそんな顔をしていたかもしれない。
「そうですね――」
レフは首を傾げた。彼女自身は知らないが、アレンがこよなく愛するあの角度で。
「今、とても幸せだと思いまして。だからでしょうか?」
アレンは戸惑った顔をした。しかし直ぐに柔らかく微笑んで、彼女の頭から手を離しながら言った。
「そりゃ良かった。じゃ、行くか?」
はい、と頷いて、レフはアレンから一歩離れた。馬車の中に座り直すための、何気ない動きだったけれど、その動きが妙に不吉に思えて、アレンは一呼吸の間身動きを止めたのだった。
レフが遠くに行く気がした。
そんなことはないはずだと、内心で強く否定したけれど、どうしてもその不吉な予感は拭えなかった。
ラデルとラシュカがこの町に残ることになっている。ユアンとリアはここから西に向かい、レレアの町に赴くことになっているため、ここから東の方にある、アーデット高地やアッセルに向かうアレンとレフ、アゼナとヴェルガードとはやはり別行動になり、全員が揃っているのはここが最後だ。
次に生きて会えるかも分からない。
もし命を落とした場合、それは機巧兵に殺されるということを指し、死体が残るかも怪しいため、互いに別行動の者たちは本当に、これが顔を見られる最後かも知れないのだった。
ここで別れる全員が、軽く抱擁し合った。
「またな」
「おう。終わったら何か奢れよ?」
「アゼナ、娑婆での生活は楽しいぞ、楽しみにしておけ」
「もっちろん。あたし今度はまともに生活する!」
「……いや、どうだろう」
「ひどいっ。そういうヴェルガードさんは無職なんだからね?」
「大丈夫だよヴェルガードさん。僕かこの妹のラシュカが雇うから」
「恩に着る」
「今初めて知ったんだけど、あなた前科者だったの。まあいいけど。どっちにしろそこの二人、ちゃんと里帰りしなさいよ」
「分かってるよ」
「ラシュカ、また招待してね」
「う、あ、はい。……貴族って……」
「レフ? レフ、無茶しちゃ駄目だよ? みんな泣くよ?」
「くれぐれもお気を付けて――」
「アレン、レフを頼む。レフ、アレンを頼むぞ」
「レフ、先走らないようにな」
「ラシュカも言ったけど、気を付けて。それと――変に覚悟しないように」
レフはいきなり押し寄せた別れ際の言葉たちにぎょっとしたようだったが――しかもそのうち二人とはまだしばらく行動を共にするのだ――、こくん、こくんと一人一人に頷いた。
それから、囁くように言った。
「あなたたちも、気を付けて」
最初はただ、機巧兵たちを躱しながら万術の柱へと行くようにと。そして次に、機巧兵を討伐するようにと。
常に一緒で離れたりはしなかった仲間が、この、どう転んでも確実にけりが着くという終盤に離れ離れになる。
それは必要なことだけれど、それでも不安になる。
これから全員が死地に赴くようなものだから、そう互いに分かっているから、だからこそもう一度会えるようにと願う。
希うように祈る、それは全員、ただ一つのことを。
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ラシュカとラデルが佇んで、西と東に去って行く仲間たちを見送っている。リアとユアンももう遠い。
馬車一台に馬二頭と、今までに比べて確実に小さくなった規模に、思わずアレンは溜息を吐きそうになり、慌ててそれを呑み込んだ。
アゼナはそんなアレンの様子に目を留めたらしく、器用に馬を促してアレンの馬の傍に寄らせると、からかうような、しかしその実真剣そうな、そんな口調で言った。
「アレンくん、生きてるうちに未練は断ち切っといた方がいいんじゃないの? ねえ、どうなの。いつレフに告白するの」
アレンは息を吸い込み損ねて咳き込んだ。
「な――んだよいきなり!?」
馬車を確認し、会話が聞こえていなかったことを確認。
「それに何だ? 俺は死ぬ前提か?」
「違うよ」
意外にもアゼナは真面目に言った。
「アレンじゃないよ。レフだよ」
アレンは眉を寄せた。
「……は?」
アゼナは責めるような目でアレンを見た。
「アレンは駄目だよ。ちゃんとしないと。――レフは不死身じゃないんだよ? レフが相手にしようとしているお姉さんは、レフよりずっと強いんだよ? レフだって無事じゃ済まないかも知れないんだよ。分かってる?」
「――まあ、そうだろうな」
ヴェルガードまでもがぼそりと呟き、アレンは疑うように目を細めた。
「どういうことだ?――さっき、レフは何を話したんだ?」
「使用者には言えないことなんだって」
アゼナは綺麗に誤魔化し、更に言った。
「レフに何かあったら、アレンは辛いでしょう?」
アレンは考える様子もなしに答えた。
「辛いに決まってる」
「アゼナ?」
レフの声がした。振り返ると、レフが窓から身を乗り出すようにしてこちらを見ている。アレンは思わず言った。
「おいレフ、危ないから。危ないから、中に入れ」
「落ちたりしません」
レフは言い切り、アゼナに視線を移してから穏やかに言った。
「心配しなくても、大丈夫」
アゼナは一瞬、辛そうに顔を歪めたが、すぐにいつもの笑顔になった。
「うんっ」
アレンは心臓を締め付けられるような不安を感じながら、車内に頭を戻すレフを見た。
――まただ。また、レフが遠くに行く気がする。
「……レフェアイゼ」
思わず呟けば、距離があり、しかもかなり小さな声だったというのに、レフが窓から顔を出してこちらを見た。いつものように首を傾げ、問うようにこちらを見てくる。
アレンは何とか笑みを作り、首を振った。なんでもない、と。するとレフは頷きを返し、また馬車の中に頭を戻した。
大丈夫、大丈夫だ、とアレンは自分に言い聞かせる。
レフがどうにかなるわけがない。たしかにイリセ・アイゼルトは強いけれど、レフが敗けるわけがない。
――そう考えていないと、頭がおかしくなりそうだった。
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半日も進むと、不安だとか言っている場合ではなくなった。
機巧兵が多い。多過ぎて、戦闘なしには進めないのだ。ユアンたちも同じ状態なのかと思うと、アレンは彼らを案じる余り歯噛みした。
レフの使用者であるアレンがいるこちらは、掃討波で大多数を吹き飛ばしながら進めるが、ユアンとリアではそうはいかないだろう。通信して無事を確かめたいが、それに割ける魔力も惜しまなくてはならない状況だ。あちらも同じ事情でこちらに無事を報せられない。
生きてる、生きてるに決まってる、と、アレンとアゼナ、ヴェルガードは何回も言い聞かせ合った。レフはずっと馬車に引き籠っており、アゼナもヴェルガードも、アレンには分からない理由でそんな彼女のことを心配した。
心配される度に、レフは少し困ったような顔をする。
その度に、アレンはまた不安になる。いっそレフを問い詰めてしまいたいのに、何について問えばいいのか分からない。
どうして元気がないのか訊けばいいのか? 今から姉と訣別しようという彼女にそれを訊くのか?
違う、と思う。
(イリセ・アイゼルトと敵対することが確定した後も、こんな風にはなってなかった……)
最近のレフはあの頃の、怯えたり、迷ったりしているのとは違うのだ。
もっと透明な、何かを決めた後の、そんな静かなものに満ちているのだ。それが何なのかは分からないし、それゆえに気が狂うほど不安なのだけれど。
諦めている、というのとは違う。それは分かる。
「また選んでくださいね」
食事のときに――といっても焚き火の傍で保存食を齧るだけの味気ないものだが――、そうレフは言ったのだ。
「またわたしが食べる物を選んでくださいね」
「ああ、そうだな。――だけどおまえ、せめてアゼナよりは早く、食うもの決めろよ?」
アレンが冗談めかして返すと、レフは眉を顰めた。
「……そんなに時間を掛けていました、わたし?」
アレンが「ああ、ものすごく」と返すのと、アゼナが「え、あたしってそんなに時間掛けてたの」と素っ頓狂に言うのが同時だった。ヴェルガードは静かに面白がっていた。
そんなこともあるから、レフは決して諦めているのではないはずだ。
それなのに、なぜだろう。
彼女が瞳に湛えるものが、諦念に似ているように思えるのは。
アレンは懸命になって彼女が抱えているものを分かろうとするけれど、レフはそんなことは望んでいないように、それを独りで抱え込んでいる。
(なあ、何でだよ)
アレンは何度も何度もそう思う。
(おまえはもう独りじゃないだろう。何でそうやって独りで抱え込んでるんだよ……)
レフを〈記録〉から引き摺り出して、アレンが彼女を独りではなくしたのだから、だからもう少し――、寂しそうにしないでほしい。
寂しくなりそうだったら、せめてそうなったときに一声かけてほしい。そうすれば、どこにいようと飛んで行って、独りじゃないと言ってやれるから。
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アーデット高地への進路と、アッセルへの進路が別れるときになって、アレンたちとしては、しっかりと別れの挨拶をするつもりだった。
しかしそのときに偶然、機巧兵の大群と出くわしてしまい、出来たのは掃討波で機巧兵を吹き飛ばした後に、レフをアレンの馬に引き取りながら――アレンには御者の経験はないのだ――、替え馬としてあと一頭をアレンの馬に繋ぎ、その際に簡単な挨拶を交わすことだけだった。
レフを自分と馬の首で挟む格好で相乗りしながら、アレンはレフの声に耳を傾けていた。
「姉が一人でいるとは考えにくいので、機巧兵も周囲にいると思います。ですからアレン、その相手もお願い出来ますか。ときどき姉の方にも【掃討波】を撃ってください――」
「ああ」
「人型の機巧兵もいると思います。もしも人間と判断がつかなかったら、一度【鋭利】で斬り付けてみてください。あなたの斬撃を躱すようであれば、それは機巧兵です。もしも人間だった場合、寸止めできますか?」
「ああ、多分」
「――わたしを呼んでくださいね。名前を呼んでくださいね」
アレンは目を閉じた。
「……分かってるよ。何回だって呼んでやる」
レフは少し間を置いて。
「約束ですよ?」
アレンは思わず笑った。
「ああ、約束だ」
そう言えば、レフは安心し切ったようにアレンにもたれてくる。長い髪がなびくので、邪魔だと一度文句を言うと、少しばかり不満げにしながら髪を押さえ、またもたれ掛った。しばらくそうしてじっとして、レフは何かを考えているようだった。
「アレン?」
レフは窺うような声を出した。これは彼女には珍しいことで、だからこそアレンは怪訝に思う。
「どうした?」
レフは躊躇うように小さく言った。
「次に馬を止めたときに、お話があります」




