姫君、決意する
魔力の供給を〈記録〉から受け、また〈記録〉内にいる限り睡眠も食事も必要としないレフの仕事は、今までと比べても格段に早かった。
それを言ってみると、〈記録〉の入り口付近に陣を書くレフは懐かしそうに目を細めた。
「そうですか? 前回ここで魔法陣を書いたときはゼアのお姉さまが手伝ってくれたんですよ」
アレンも思い出した。
「ああ――記録を見せてもらったな」
レフはアレンが覚えていたことが嬉しいようだった。魔法陣を素早く折り畳んでいきながら、生き生きと言う。
「そうですね。前回はオーヴェルが――勅使が途中で寝てしまって。あの人はいつもとても面白かったのですけれど、その一件でからかってからは金輪際わたしの前では寝ようとしませんでした」
「へえ」
アレンは呟き、気になっていたことを尋ねた。このとき周りに誰もいなかったということも影響していた。
「おまえ、その人のこと好きだったのか?」
レフは首を傾げた。この仕草は本当に、初めて会ったときと変わらない。ただこの仕草を見るときのアレンの感情が、どんどん変わっていっただけで。
彼女は考え、言った。
「そうですね、好意はあります」
アレンは何とか何食わぬ顔を維持した。レフはアレンの方は見ずに、魔法陣を書き進めながら話した。
「彼はとてもいい人です。それに……」
少し懐かしそうに。
「わたしの命の恩人です」
それを聞いた途端、現金なことにアレンの心情は一変した。それまではかなり妬んでいたというのに、一気に、よくレフを助けてくださったと言わんばかりの心境になったのだ。
「へえ」
同じ呟きでも、先程とは温度が違う。レフは、はい、と頷いてアレンを促した。
「少し休んでください、アレン」
アレンは素直に頷いた。追い払おうとしているのではなく案じているのだと、はっきりと理解できたからだ。
背を向けて適当に休む場所を探すアレンを、レフはじっと目で追った。
(書くことをたくさんくれた人)
そう呼んだのは自分の意思だった。それなのにどうしてかそれが不吉な気がする。姉にとってのその人――ゼアントのように、死んでしまう気がしてならない。
偶然だ、根拠はないと分かっていても、不安だった。
彼が死ぬのは嫌だった。他の誰と比べても嫌だった。彼が記憶を失って、誰かに情報を与えられて残った人生を生きていくのは、最早嫌悪を誘うことだった。
だから姉を止めなくてはならない。
レフは軽く右手を掲げ、それを何とはなしに見た。次にその手を頭に持っていき、蟀谷を押さえた。――ここにある情報と、記憶。
もう重くなり過ぎた。三千年分だ。重過ぎる。一人で抱えていくには、余りにも重い。――けれど、確かに大切なものだ。
決めたのは先程だった。思い付くと同時に決めていた。
三千年分の記憶は、重い。抱えていることに疲れてしまうほど。
「あなたたちも、疲れた……?」
レフは周囲に佇む本棚と、そこに並べられた色とりどりの背表紙を持つ本たちに、そっと問い掛けていた。
無生物は、もちろん答えない。
だけれど、それであるからこそ、レフは決断して少しだけ寂しげに目を伏せた。
静まり返った〈記録〉は、独りきりだった千年間を彷彿とさせ、それでなお、優しい。
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アレンが予定外に熟睡して目を覚ますと、アゼナとヴェルガード以外は既に目を覚ましていた。
レフはもちろん寝ておらず、アレンからやや離れた処で膝を揃えてしゃがみ込み、その膝の上に両手を置いて、小首を傾げてアレンを見ていた。
起きた直後にこんな破壊力抜群の姿を見てしまい、アレンは大いに慌てた。具体的には、飛び起きて立ち上がった。
「あ、レ、レフ。おはよう」
レフは真顔だった。
「わたしは睡眠状態を挟んでいない状態であなたに会っているので、この返事が適当かは分かりかねますが――おはようございます」
少し間を置いて。
「あと二つの作業を終えたら出発できます」
アレンは頷いた。
「お、おう」
レフは少しだけ眉を寄せた。
「何を慌てているんですか」
その無駄に綺麗な顔を何とか出来ないのか、とアレンは言い掛けて、堪えた。
全員が起きたところで、レフは吹き抜けの空間に向かった。アレンたちはその後を付いて行き、少しだけ困ったような顔をされた。
レフはそこの机に向かって立ち、指先の動きで一つの術式を生じさせ、招いた。そして、いるならば説明してやろうというように、淡々と言った。
「機巧兵による大掃除――つまりは大量破壊は、わたしが機巧の盟主になれば防げます。問題はそのためにイリセ・アイゼルトを下さなくてはならないということと――まあこの問題は悩んでも仕方がありません。やりようによっては可能性もあります。それと、記憶消去の方です」
レフは言って、術式を魔法陣に錬成し、何か囁きかけた。詠唱のようだったが、聞き取れない。魔法陣は煌めき、レフはそれを満足げではあるが、どこか複雑な顔で見た。魔法陣はレフの指先に触れ、そこに溶け込んだ。
「記憶消去は、わたしの魔力では扱うことの出来ない術式です。そもそも術式の生成の仕方が分かりませんし、イリセの姉の知識量はわたしの比ではない――精密な解読も難しいでしょう。ですから解除は出来ません――ゆえに、わたしに期待できるのはわたし自身で生成した魔術による術式への干渉であり、わたしが期待できるのは姉の慈悲です」
「レフ」
ラデルが何かに気付いたように、真剣な顔をして言った。
「今の魔法陣は何だ?」
レフは肩を竦めた。まだ教えるつもりはなかった。
「そのうちに。――それから、わたしの欠陥……」
「レフ」
今度はアレンが低く呼んだ。レフは欠陥呼ばわりが禁止されていたことを思い出し、素早く改めた。
「わたしの弱点のことですが、これはアレンの考えを採用して……」
「まじで?」
アレンは今度は絶句した。レフは真顔でアレンを見返した。数拍の後、アレンは思わず咽そうになりながら言い募った。
「待てよ? ここって大事な処だよな? な?」
「はい。とても大切です」
レフは言い切った。青い目はどこまでも静かだった。
「そしてそれは姉にとっても同じです」
まるで決まった科白を読み上げているようだった。それは本心でないからではなく、もう既に決まったことを述べているからであり、それが周囲にも間違いなく伝わる口調だった。
その大切だという気持ちは彼女の三千年の人生で育まれた感情であり、その降り積もる雪のようなしんしんとした重さと静かさに、全員が何も言えずに口を閉ざした。
レフは黙り込んだアレンたちを見てから、自分の椅子に静かに着席した。やはりその場所は彼女によく似合い、本人もそれを承知しているように、寛いだ様子で頬杖を突く。そして穏やかに言った。
「――わたしが反問の理由を訊いた問いをもう一度することを許す」
無機質な男の声は、忠実に尋ねた。
[リノ・アイゼルト。イリセ・アイゼルトの関連事項を訊く理由は?]
レフは頬杖を突いたまま、ぼんやりとした眼差しで答えたが、それは問いの形だった。
「二千年前の、わたしが帰った日を覚えている?」
[肯定]
レフは面白がるような顔をしていた。
「血だらけで、酷い有様だったでしょう? レナのお姉さまの応急処置も限界だったことを覚えているわ。とても痛かったし辛かった」
男の声は答えなかった。答え方が分からなかったのかも知れない。
「オーヴェルが真っ青な顔をしていたのも覚えている」
男の声は答えない。けれどレフは、確実にその声に向かって話し掛けていた。
「それでも、わたしが怖くなかったと言ったら嘘と思う?」
男の声がやっと答えた。
[否定]
レフは頬杖を突いていない方の手で机をこつんと叩いた。
「そうね。わたしは嘘は吐かないものね。おまえはよく知っているでしょう?」
[肯定]
その応えに、レフはとても嬉しそうにした。
「知っておいてくれてありがとう。――わたしが怖くなかったのは」
レフは少し詰まり、言葉を改めるようにして言い直した。
「わたしは、オーヴェルのために死ねた。
フロースのためなら命を捧げられた。
彼らと彼らの君主、その国――わたしの守護国のために死ねた。
彼らのためなら何も惜しくない。それは今も変わらない。
慈しむということを、わたしに教えてくれた人たち。
彼らを守ったと分かっていたから、刺されたことは辛かったけれど、死ぬのは全く怖くなかった。
それも、今でも同じ」
レフは頬杖を突いたまま、息を吐いた。
「わたしは生き残ったから――わたしが心から大切に思った人たちが、地上から消えても人殺しのわたしはまだ生き残っている、だから、本来いつ死んでもいいと思っている。
あの人があのとき、あんな顔をした理由が、今はとてもよく分かっているの。贖うことなど出来ない、だからいっそもう何もしないでおこうと、そう思っていた」
レフはまた、こつんと机を叩いた。
「――けれど、また頑張ってみようと思った。わたし自身の命も少しだけ惜しい――生きたいと思った。
だから姉のことを訊いて、その確率を上げようと思ったの」
[理由を質問する許可を]
「質問すればいい、答えてあげるわ。――わたしが生きたくなったのは、多分二人目の勅使のせい」
レフの目は前と過去を見ていて、背後のアレンは見ていない。
「多分わたしの名前のせい。わたしの名前は確かに、イリセのお姉さまのものに由来するのかも知れないけれど、多分わたしのものになったの」
レフの声は淡々としていて、ぶれもなければ揺らぎもしない。そのままの口調で、レフは言った。
「だから、これら全てを失うのはとても嫌なこと。だから、おまえに少しでも記録していてほしいの。
――だから、おまえの一部でも残ることを心から望んでいる」
一切誰も声を発しない。レフが千年味わった静寂が、変わりもせずにそこにある。
それを自分の手で丁寧に掻き分けるようにして、レフは命じた。
「わたしと接続しなさい。わたしが苦痛の命令に晒されれば、一度につきこの〈記録〉の一区画を破壊しなさい。最初はイリセの区画を、二度目からはどこであっても構わないわ。その度にイリセ・アイゼルトにその破壊を伝えなさい。そして六度目に」
レフはほんの少し目を細めた。
「おまえとこの万術の柱を崩壊させなさい」
自らの死を命じる声にさえ、無機質な音声は反抗しなかった。いつもと同じように、抑揚もなく答えただけ。
[命令を受理]
「わたしを恨む?」
レフがぽつりと呟くと、声は返した。
[リノ・アイゼルト。その質問は不適当]
そうだった、とレフは呟いた。万感の思いの籠った声だった。何を犠牲にしているのかを、はっきりと分かっている声だった。
それから、立ち上がったレフは訊いた。
「そうだ。おまえの名を聞いておきたかったのだけれど」
無機質な男の声は答えた。
[名称は無し。当該機構はこの〈記録〉の管理人]
レフは咄嗟には何も言えなかったようだった。それからしばらくしてやっと、「そう」と答えた。ただ一言を、落とすように。
「――出ましょう」
レフは呟き、察して他の者たちが先に立った。陣の中に立って全員が立ち止まる。レフは陣の傍で立ち止まり、振り返って最後の命令を発していた。
「管理を改めて頼むわ」
[御意]
「わたしが万術の柱を出ると同時にここを封鎖しなさい。開門はリノ・アイゼルト固有の権利とする」
男の声は何の変わりもなく響く。
[御意]
レフは一瞬だけ、悼むような顔をした。
「――行って来るわ、〈管理人〉」
恐らくそう言われた場合の返事は、最初から組み込まれていたのだろうけれど、それでも確かにレフェアイゼの言葉に対する返事として、管理人は発声した。
[いってらっしゃいませ、お気をつけて]
頷いて、レフが陣の中に入った。
景色が、変わる。




