断章 彼女の記憶
ユヴィリアイゼは座り込んでいた。どこか辺りは薄暗く、昼間とは思えない。
不完全な転移式を補助し、取り敢えず無事にいることを考えた結果ではあったが、ただでさえ強制干渉の痕がある術式に割り込み、魔力を補充したこと、しかもそれが嵐壁起動直後だったことが災いした。ここがどこかも分からない。
息を吐いた。声が出るか確かめようと、息に声を載せてみる。そこに更に名が載った。
「――レフェアイゼ」
大切な名前、守るべき名前。
その名前は否応なく、彼の記憶に結びついている。その名前は絶対的に、彼女の気持ちを表わしている。
彼の――一番大切なゼアントの。
◇◇◇◇◇◇
目の前で都市が焼けていった。明るい光を撒き散らしながら、碧空の下で文明が終わっていく。一つの世界が終わっていく。
彼女はじっとそれを見ていた。彼がそのために作った彼女の玩具は、命令に忠実に、役割を果たした。あの火で人間が死んでいく、機巧人が死んでいく。その中には彼女と親しかった者たちもいるはずだった。
それでも。
彼女は今までずっと塔の中で暮らしていた。それは彼女をこの汚染された空気から守るためでもあり、また来るべきこの時に、彼女が必要以上の罪悪感を抱くことがないようにという、ゼアントの希望でもあった。
ユヴィリアイゼが初めて見た外の景色は、それが炎を上げて滅んでいく風景だった。
空から飛来した炎の弾が、効率的に都市を焼く。空気を焼いて、浄化していく。悪質な魔力の気を一掃し、元の大気の状態を取り戻す。
ユヴィリアイゼは罪悪感など微塵も覚えなかった。
ただ、これで彼が助かるという、圧倒的な安堵しか覚えなかった。
身勝手だと分かってはいた。けれども、彼女にとっての世界は余りにもゼアントに集中され過ぎていた。
足元で魔法陣が輝き渡った。ユヴィリアイゼの放った最上級魔法が大気中で燦然と煌めく。その光がもたらすものは平穏であり、浄化であり、忘却。大陸中央のこの高原都市の付近は、そのためにうってつけの場所だった。
今この汚染を解消すれば、彼の病の進行は止まるはずだ。彼の病はまだ致死水準にまでは達していない。だから、ゼアントは助かる。これから新たな世界を創っていきながら、ゆっくり療養すればいい。二人で世界を創るのだ。彼は大丈夫。
そう、心の底から信じていた。
◇◇◇◇◇◇
「ゼアント――ゼアントっ……!」
ユヴィリアイゼは溢れ返る思い出に息を詰まらせ、しかし呼ばずにはいられなかった。
「あの子が、あの子がなんでっ……!」
◇◇◇◇◇◇
安全なように、万術の柱を立ち上げた。そこに作る建造物は一から彼女とゼアントでどんなものにするかを決めた初めてのものだった。
「やはり綺麗でないとな」
ゼアントは言った。ユヴィリアイゼはむう、と膨れる。敬語を彼に対して使うのはしばらく前に止めていた。
「なんでなんで? 綺麗なのよりもっとこう――威圧感というか……無骨なのの方がいい」
「駄目だ」
ゼアントは言って、ユヴィリアイゼの頭をくしゃりと撫でた。
「ここも、そうだな、草原か何かにしよう。穏やかな感じの。そして、真ん中に綺麗な建物を」
ユヴィリアイゼはきゃんきゃんと吠えた――少なくとも、そんな印象を受ける――。
「なんでなんで!」
「ユヴィリアイゼ」
ゼアントは溜息を吐き、半眼で彼女を見下ろした。そして、そのままの表情で言ってのけた。
「それは、きみが私の知る限り最も美しい人だからだ。美しい人には美しいものを。分かるだろう?」
ユヴィリアイゼは真っ赤になった。ゼアントはにやりと笑う。
「分かるだろう? これからずっといる場所なんだ、隣にいる人に見劣りするなといちいち思いながら過ごすようなことはしたくない。だから折れてくれないか」
ユヴィリアイゼはぱくぱくと口を開け閉めした。ゼアントが訝るように眉を上げ、彼女はやっとの思いで声を出す。
「とと――隣、にいる、人……?」
ゼアントは意外そうに目を瞠った。
「そうじゃないのかい?」
ユヴィリアイゼが答えられないでいると、ゼアントは溜息を零して彼女を覗き込み、噛んで含めるようにして言った。
「いいかい、ユヴィリアイゼ。約束だ。これからずっと一緒に――きみの隣にいよう」
ユヴィリアイゼは顔を輝かせた。
「うん!」
◇◇◇◇◇◇
どうして同じ言葉だったのだろう。同じだったからこそ、妹の最も弱い部分を襲った。
あんなことをするべきではないと、痛いほど分かっていたのに。
◇◇◇◇◇◇
機巧兵たちは一旦地下に収めている。また使うことがあるかも知れないと、ゼアントは繰り返し言っていた。
〈記録〉は壮麗な建物に仕上がり、ゼアントはかなりお気に召したようである。まだ空っぽの本棚の列を眺めては、いつもうんうんと頷いている。前の世界から持ち込んだ紙は上質で白く、外の世界でまだ文明も与えられずにいる者たちには考えられない代物だろう。
「ねえ、外の様子は?」
ユヴィリアイゼが宙に向かって尋ねると、ゼアントの提案から生まれた「管理人」の、無機質な声が答えた。
[混乱。闘争はなし]
ふむむと唸ったユヴィリアイゼは、ゼアントを振り返る。彼が慌てて取り繕ったため、直前まで胸の苦しさに彼が声を上げるのを堪えていたことに気付かない。
「ねえゼアント、そろそろどの文明を伝えるか決めないと」
ゼアントは慌てて姿勢を正す。
「あ、ああ、そうだな」
「言葉はどうするの? 機巧人の使ってる言葉と人間の使ってる言葉は違うでしょう?」
機巧人の使う言葉は韻律を持ち、非常に強い拘束力を持つ。ユヴィリアイゼにとっての母語に当たるが、ゼアントもユヴィリアイゼも、人間の使う言葉も機巧人の使う言葉も、問題なく操ることができた。
「そうだな、人間の言葉を使うようにしようか。機巧人の声には自然に韻律が滲むものだし」
「そうだね、うん、そうしよう。国境のことも考えないとなぁ」
ユヴィリアイゼが斜め上を見ながら言うと、ゼアントは姿勢を正した。
「そのことなんだが、ユヴィリアイゼ」
ユヴィリアイゼはゼアントに視線を戻し、無邪気に首を傾げる。
「なぁに?」
「あの場所を覚えているか? きみが忘却魔法陣を起動させた」
ユヴィリアイゼはこくんと頷く。
「もちろん。なぜ?」
「あそこは守ろう」
ゼアントは言った。こんなとき彼は、ユヴィリアイゼの教育係の顔を覗かせる。
「あそこはあの魔法を放つ最も良い地点だ。今後この世界も駄目になったとき、あそこに何か有っては面倒だ。あそこは無人のままにしよう」
ユヴィリアイゼは頷く。
「分かった、じゃあ、規制しておくわ」
「更に、そのことなんだが……」
ゼアントは苦笑して続ける。
「今後のこと一切を、私ときみとで取り仕切るのは不可能だ。仕事が膨大過ぎる。そこで、これからきみは新しく機巧人を創る予定をしているわけだが、その中の数人を先に創って、特別な存在として補佐をさせよう」
ユヴィリアイゼは柳眉を吊り上げた。
「何よそれ。あたしだけじゃご不満?」
ゼアントは絶句した。教育係の顔はすっかり消えている。しばらくユヴィリアイゼの視線に射抜かれ放題のぽかんとした顔を晒してから、はっと我に返って言った。
「――そんなはずないだろう? まったく……」
ゼアントはにっこりとユヴィリアイゼを見下ろした。
「私はね、過労でやつれるきみを見たくはない」
ユヴィリアイゼは真っ赤になった。
「う……そ、それなら」
「きみが創るその彼女たちは、そうだな」
ゼアントがそこまで言ったところで、ユヴィリアイゼは遮った。
「彼女たち? 彼らじゃ駄目なの?」
ゼアントは非常に厳しい目でユヴィリアイゼを見た。
「駄目だ」
そして、何事もなかったかのように言葉を続ける。
「今の機巧人の言葉も彼女たちには教えようか。彼女たちには、アイゼルトとでも名乗らせるといい」
ユヴィリアイゼは眉を寄せた。聞き覚えのある言葉だったからだ。半信半疑で口に出す。
「それって――確か――?」
ゼアントが笑って、後を引き継いだ。
「太古の言葉で守護者の意味。きみの名前の由来でもあるね、優しい守護。
アイゼルトたちにはこの新しい世界と、もしかしたら生まれるかも知れない次の世界の幕開けを、守ってもらおう。
ただし、きみはいつも考えなしだから……注意点がある……」
◇◇◇◇◇◇
「分かってたんでしょう」
ユヴィリアイゼは泣きながら罵る。
「だからあんなこと言ったんでしょう、ばか。あたしが寂しくないように。誰がいたって、ゼアントの代わりにはならないのに」
ユヴィリアイゼは罵倒する。死んだ人間を罵っても何の益もないが、これは彼女にとって益があると思える行為だった。
彼女の中で、ゼアントは死なない人でもあったのだから。
「うそつき……! 馬鹿!」
◇◇◇◇◇◇
魔法陣を書くのには数日を要した。それを、四つ。大体それくらい補佐がいればいいかと、ユヴィリアイゼが判断したのだ。
「――よし、っと……」
彼女は万術の柱の内側の草原に書いた魔法陣を四つ、順番に見ていく。完璧だ。
その様子を扉に寄りかかりながら見ていたゼアントが、からかいの口調で言ってきた。
「そこで雨を降らしたりしないように」
ユヴィリアイゼはむっとして振り返る。
「そんなことしないわよっ、まったく。――これを起動させれば、身体と魂魄が同時生成されるはずなのよね……」
「私は手伝いたくとも出来ないが」
ゼアントが言う。
それはそうだ。生命を生み出すのは女性。この魔法は珍しい、男女によっては機能を果たさないものだった。最高位の魔力と技術、そして女性であることを兼ね備えた存在のみが使えるもの。そうでなくてはそれは、ただの生命に対する冒涜だ。
「そうね。じゃあ、起動させるわよ――」
ユヴィリアイゼは言い、その膨大な魔力を魔法陣に注いだ。魔力を受けて陣が輝く。それは胎動の開始までの秒読みでもあった。完成までにはかなりの時間が掛かるが、取り敢えず彼女は息を吐く。
そして、振り返って呆然とした。
「……ゼアント……?」
彼が倒れている。
眩暈がした。ひどい眩暈だ。
「ゼアント」
彼が動かない。
なぜ。
心臓に絶望が絡み付く。
「ゼアント!」
ユヴィリアイゼは駆け出した。
ゼアントにしがみ付いて生きていることを確認。ありったけの治癒式をその身体に入れる。覆うようにして治癒を詠う。
「ゼアント、ゼアントしっかりして。なんで、なんでっ」
何度も揺すぶり、ようやっと彼が動いた。目を開けて、苦笑する。
「……ひどい顔だ」
「誰のせいよ!」
反射的に返して、ユヴィリアイゼは唇を噛む。
手遅れだったのか。
思いをそっと口に出す。
「手遅れだった――なんて、言わないよね」
ゼアントは柔らかく笑った。
「ああ、言わない」
彼女の髪を撫でて、不安そうな彼女の顔を覗き込んで。
「けれど事実は私が何を言おうと変わらない」
ユヴィリアイゼは笑った。
「そうだよね」
言い聞かせるように。
「大丈夫だもんね、変わらないよね」
それを聞いて、ゼアントは少し悲しそうにした。
ゼアントが伏せった。
外の魔法陣は解除できないもので、だから彼女は本来の力の半分ほどで治癒しなければならない。――もっとも全力で当たったとして、治癒は不可能だっただろうけれど。
ゼアントはしきりに世界のことを気にしていた。彼は理想を語り、現実と比べ、実現可能な一線を模索していた。傍でそれを聞くユヴィリアイゼも考えを同じくする。
「ユヴィリアイゼ」
〈記録〉の吹き抜けの広間に床を作り、休む彼はそっと呼んだ。無言で彼女が答えると、彼は仄かに微笑む。
「大丈夫かい」
それは自らの死後のことを尋ねたものであったけれど、ユヴィリアイゼは現在の体調と解釈した。彼女は頷く。
「そうか……。ねえきみ、私の出した宿題を持って来ていただろう……?」
「……うん」
「あれを製本して、本棚に置くといい。それからこの世界のことを書き綴ってみてごらん。文明継承のためではあるけれど、それはそれで楽しいことだろ?」
「……うん」
「ねえきみ。いつかこの世界が駄目になったら――そのときはきみが判断するわけだが――、そのときは、任せていいかい?」
「…………」
「いい世界を創ってくれるかい?」
「…………」
「頼む、ユヴィリアイゼ。可愛い人。日記を真面目に書いてくれた生徒は初めてだった――きみはそういう、生真面目でいい子だ」
ユヴィリアイゼは震える声を出した。
「可愛い? いい子? いつまで子ども扱いをするんですか」
ゼアントは笑った。
「敬語。止めたんじゃ――なかったのかい?」
「子ども扱いするから」
ユヴィリアイゼは言う。彼の言葉を否定する。
「真面目じゃない、いい子じゃないんです。ゼアントがいたからなの」
紡ぐ言葉は震えて零れる。
「ゼアント――書くことをたくさんくれた人」
「書くことは無償であげたけれど」
ゼアントは言う。苦しそうなのに、まだ悪戯っぽい口調を保とうとしている。しかしその口調は重い必死なものになる。
「――お礼をしてくれ、私を大事に思うなら。――頼む。頼む、いい世界にしてくれ、可愛い人。
この世界も――この新しい世界もいつかおかしくなるだろう、畢竟人とはそういう生き物だ。絶対に自制できなくなる時が来る。
万人殺して未来の億人が助かるのならその方がいいだろう? だからそのときは、きちんと」
彼は彼女を見た。
「――始末を付けてくれ」
躊躇いなくユヴィリアイゼは頷いた。
「うん、そうする。約束する。絶対にそうする。だから安心して、今は治ることだけ考えて」
ゼアントは少し切なそうに目を細めて微笑んだ。
「これからも子ども扱いでいい。ううん、何でもいい。これからも可愛い人って呼んで。お願い」
お願い、と言った途端。まるでそれを嘲笑うように、治癒式に費やしていた力がユヴィリアイゼに逆流し始めた。術式が、彼は治癒の見込みなしと判断したのだ。
ユヴィリアイゼは愕然とした。
「だ――駄目、何で? 何で、なぜなの? え?」
混乱、困惑。その様子で事態を察したのだろう、ゼアントがにっこりと笑った。底が抜けたように明るい笑顔だった。
「――大丈夫かい」
ユヴィリアイゼはゼアントを見た。そこに、覆しようのない相を見た。
「あ、ああ」
声が出た。
「ゼアント。ゼアント――」
ゼアントはまだ笑っている。ゆっくりとその瞼が閉じられていく。声は囁くようで、耳に優しく、そしてまるで灯火のような。
「ユヴィリアイゼ、可愛い人。――恋しい人、大丈夫かい」
ユヴィリアイゼは目を見開いた。
恋しい人?
ああ、こんなときに何てことを言っているのだろうゼアントは。怒らなければ。ふんと顔を背けて、不機嫌になってやろう。ああでも嬉しさが顔に出てしまうかも知れない。そうなったらおじゃんじゃないの――
ユヴィリアイゼはそう思考する。その中で自分は真っ赤な顔をしてそっぽを向いている。ちょっと頬が緩んでいるかも知れない。ゼアントはそんな自分を覗き込んでからかうはずだ。そう思考している、それなのに、ユヴィリアイゼの頬は蒼白だった。
ゼアントはまだ笑っている。
それなのにどうして目尻から涙が一筋流れているのか。――ユヴィリアイゼには分からない。
彼の愛した女性を気遣った、それが彼の最期の言葉になっていた。
なぜなら彼が本当に伝えたかったことは、そんな一身上のことだったのだから。
「ああ、あ」
ユヴィリアイゼの喉が引き攣れた。
なんで。
なんでなんでなんでなんでどうして。
どうして彼が死ななければならない!
「ゼアント!」
彼女は絶叫した。叱りつけるように叫んだ。意識は混乱して、今自分が何を感じているのかさえ分からない。
「何で? 何であたしを独りにするの! 一緒にいようって言ったでしょう! あれは嘘?――嘘なんてついたことないじゃないですか、いつもあたしには正直だったでしょう? ねえそうでしょ――何で唯一の嘘が……選りによってこれなんですか……? 他にしてください――他の嘘ならどんな嘘でも、怒ったり責めたりしないから……」
ゼアントが最後の最後に彼女を女性扱いしたものだから、変になって敬語が出てきた。そう、そんなからかいを誘うような場面なのだ、これは。今にゼアントは、「本当に怒らないかい」などと言いながら薄目を開けるのだ。こんな笑顔を、いつまでも浮かべているのは彼らしくない。
彼らしくない。
「ね、ねえ……」
ユヴィリアイゼは声を掛ける。
「ねえゼアント……」
ゼアントはまだ笑っている。
「答えてくださいってば。ねえ、怒らないって言ってるでしょう?」
胸が苦しい。
彼女は知覚した。これは、この感覚は苦痛だ。
混じり気なしの苦痛だ。
耐えられないほどの苦痛。壊れるほどの苦痛。彼女の無意識はそれを逃がそうとして、さながら避難経路を探すようにして彼女と繋がる魔力の糸を辿り始めた。
そしてその圧倒的な苦痛を、四つの魔法陣のうち一つに注いだ。
どうすればいい、これから。
何をすればいい、彼もなく。
ゼアントはまだ笑っている。
「ああ」
彼女は首を垂れた。何にだろう、分からない。それでも頭を下げた。
「おねがいうそって言って――」
彼は二度と動かないのだと、彼女が理解したのはしばらく経ってから。
魔法陣が機能を果たした。彼女はふらりと外に出てそれを眺める。
四つの魔法陣から形を成して現れた、彼女が選んだ姿をした四つの人影。金髪、赤髪、白髪、銀髪。どれも綺麗なのだろう。彼女にはどうでもいいことだけれど。
「……え?」
銀髪のモノに目を留めたとき、彼女は彼を失ったと気付いてから初めて声を出した。
なんだ、これは。
その少女の姿をしたモノは悶えていた。蹲り、地面を掻き、痙攣し。声もなく、ただ苦しみを訴える。
まるで。
ユヴィリアイゼは呆然としていた。久し振りに感じる、感情というもの。
コレは。これは。――この子は。
まるで、自分だ。
その瞬間、何が起こったのか理解した。恐らくは、あのとき、あのときの苦痛がこの子に渡ったのだ。だからこの子はあのときの自分。
「ああ」
彼女は呟いた。
駆け寄って、彼女の苦痛を彼女が抱える心盤に移して封じ込める。そんなことは容易い。ただ心盤を持つ者がこの子に苦痛を願えばあっと言う間に苦痛にのたうつことになるのだろうけれど。
それから、四機を――四人を順番に見た。
不意に、笑えた。
可愛がってあげよう、大切にしてあげよう、ゼアントの提案で生まれた子たちだ、いわばゼアントの子でもあるわけだ。
四人の、ぽかんとした顔を見る。自分はこの子たちの母なのだろう――。いや。
父がゼアントであるというならば、その彼に恋をされていた自分だけれど、求婚はされていないのだから。
さあ仮面を被ろう。あの銀髪の子はみんなで守らなくては、だから末っ子ということにしよう。嘘も吐こう。その苦痛の由来は誰にも教えまい。
なぜならそれは自分と、自分の恋した、自分に恋したゼアントのもの。
そして彼女は宣言した。
「おはよう、初めまして、アイゼルトたち。わたくしはユヴィリアイゼ、あなたたちの姉よ」
中央のあの高地を守ることが目的だ。そして、高地に近付くものを片っ端から撃つというのは現実的ではなく、むしろあそこを有することになる国家と、同盟に近いものを結んでおくのが賢明だろうとユヴィリアイゼは思っていた。その国を彼女の力で守護し、執政を助けて民を安寧し、最強の国としておけば、滅多なことでは倒れない国になるだろう。裏を返せば、その国がいつ倒れるかということが、世界の限界を知る標にもなるはずだ。だから、ユヴィリアイゼは名乗った。
「わたくしはユヴィリアイゼ」
古代語を、覚えている。ゼアントに教わったことは、覚えている。
「中央の守護者、イリセ・アイゼルト。わたくしの名の意は優しみ。優しい守護のユヴィリアイゼよ」
金髪の子の頭を撫でて。
「あなたは上から二番目の姉妹。東方の守護者、アゼ・アイゼルト。名は、知恵。賢き守護のケステアイゼ」
白い髪の子の肩を叩いて。
「あなたは三番目の姉妹。西方の守護者、レナ・アイゼルト。名は、慈愛。慈しみの守護のシェリアイゼ」
赤い髪の子の頬に触れて。
「あなたは四番目の姉妹。南方の守護者、ゼア・アイゼルト。名は、希望。希う守護のセレアイゼ」
銀髪の子の、怯えたような目を覗き込んで手を握って。
「あなたは末の姉妹。北方の守護者、リノ・アイゼルト。名は、――思慕。思い慕う守護のレフェアイゼ」
最後の名付けは我ながらどうかと思った。しかし勝手に口が紡いだ言葉だ、仕方がない。あの苦痛は確かに、ユヴィリアイゼがゼアントに焦がれる、その恋い慕う感情そのものの痛みだ。
だからかも知れない。
絶対にこの苦痛は消えない。心盤に移したものも、絶対に消滅したりはしない。だからこんな名前にしたのかも知れない。消えないと知っているということは、ゼアントを忘れないということだ。この銀髪の子にそんな想いを背負わせる気はないけれど、そもそもそんなことは想いを分けてやるようで嫌だけれど、それでもこの子は思慕の子だ。
他には何も要らないほどの恋慕を捧げる相手が、自分にはいる。
百年想えと言われるのなら、千年想うと返すほどの。
◇◇◇◇◇◇
「レフェアイゼ――レフェアイゼ」
ユヴィリアイゼは啜り泣く。
「あなただけは裏切ってはいけなかったのに」
あなたはあたしの、三千年の恋慕の子。




