離反
アレンにとってそれは、驚きでしかなかった。
レフは一人でずっと寂しかったはずだ。今このときという短い時間よりも、これからという可能性を取る方が明らかに合理的だ。
しかも理由があのときの、アレンがレフを疑う発言をしたからこその、あてつけのような約束だとは。
こんなに嬉しいことはない。
これほど切ないことはない。
ユヴィリアイゼは凍り付いていた。美しい顔が強張り、しばらくは身動きすらしない。そしてやがて、ゆっくりと言った。
「――何ですって?」
レフは少し辛そうに顔を背けたが、すぐに戻して更に言った。
「わたしが貴女に望むことは、機巧兵の廃棄あるいは休眠です」
「出来るわけがない」
ユヴィリアイゼが吐き捨てた。
「レフェアイゼ、あなたは知らないからそんなことが言える。前にどんなことが起きたか知らないから。前だってもっと早く決定していれば、ゼアントは死なずに済んだのよ。わたくしはもう既に一回見ている。知っている。だから判断できる」
レフは眉を寄せた。ユヴィリアイゼは傲然と彼女を見据える。女王のような表情と気迫だった。
そして、ユヴィリアイゼは断言した。
「わたくしは機巧の盟主。一切の機巧人と機巧兵の上の者。機巧人はわたくしの子供、機巧兵はわたくしがこの任を果たすために作られた、ゼアントの遺産よ」
「お姉さま……」
レフは呟いた。
「貴女は我が子を殺すのですか」
辺りが静まり返った。機巧兵すら沈黙し、やがてユヴィリアイゼは訝るように言った。
「殺すわけではないと、ルイに説明させなかった?」
その瞬間、どこかで明確にレフは理解した。
ユヴィリアイゼはこの世界などどうでもいいのだ。
それは傲慢でも優越感でもなく、ただただ彼女はひたむきに、ゼアントの理想を追っている。ゼアントと交わした約束に忠実であろうとしている。いじらしいほど懸命に、ゼアントの影を慕い続けている。
だから彼女は、こんなどうでもいい、約束のためだけに見守り続けた世界のことなど、ただの一度も見ようとしたことはない。
危険だと判断した、だから彼女は切り捨てる。そこに容赦も慈悲も哀愁も、あろうはずがない。存在する、理由すらない。
レフェアイゼ=リノ・アイゼルトが千年孤独だったというのなら、ユヴィリアイゼ=イリセ・アイゼルトは三千年の孤独を生きてきた。
ゼアントというたった一つの存在を、こうまで致命的に想ってしまっていれば、他の何があったとしても、孤独でなくなるはずがない。
己を守護者と称しても、妹たちに同じ称号を名乗らせてみても、妹たちを大事にしてみようと、たくさんの子供たちを作ってみても、癒されるはずがない。
ゼアントとユヴィリアイゼと、その他との間には、埋まりようのない、越えようのない絶対の距離があるのだから。その断崖のこちら側の一人がいなくなってしまえば、残された側は未来永劫たった独りだ。
綺麗な、異質な、最強の、盟主。
北方の守護者が手を伸ばすことの許されない孤独を生かされたというのなら、中央の守護者は手を伸ばしても空しいだけの孤独を己で生き続けなければならなかった。そこに何の救いも、望むことすらしなかったろう。
いつかこの世界が駄目になったときのために。
そのためだけに、生きてきた。
「お姉さま……」
レフは呟いて、口調を改めた。
「イリセ・アイゼルト。わたしは貴女の敵です。――貴女は、わたしの敵です」
ユヴィリアイゼは息をした。息をする度に彼女の内面が崩れていくようだった。そんな、裏切られた者の顔をしていた。彼女は目を閉じた。
「そう――」
呟いて目を開いた彼女の、漆黒の双眸が露を含んで煌めいていた。
「先程、約束したと言っていたわね。どんな約束をしたの? わたくしはあなたたちに、約束という言葉も概念も教えなかったのだけれど」
レフは応えるように胸を張った。
「アレンが教えてくれました。わたしは彼に、隣にいると約束しました」
瞬間、ユヴィリアイゼの表情がなぜか歪んだ。万の針を刺されても、炎の上を歩いても、人はこんな凄まじい、狂気に見えるほどの悲哀を顔に浮かべることは出来ないだろう。その表情を飲み下すようにして収めると、ユヴィリアイゼは低く言った。
「――レフェアイゼ、あなたが本気になったところでわたくしには敵わない。わたくしは、あなたを生かして連れて帰る」
レフは素早く算段した。無理だ。どう考えても敵わない。しかし彼女は抗戦しようと、アレンたちの方を振り向いた。何かを頼もうとしたのかも知れない。しかし――
アレンから見ても、それは自然な仕草のように見えた。
ユヴィリアイゼは親愛を込めてそうするように、アレンたちの方へ振り向いたレフの両肩を掴んで、驚いたように自分を振り返った彼女の心盤をするりと袋から抜き取った。
一瞬、レフは怪訝そうにした。それほど――敵と言ってなお、彼女は姉を信頼していた。
ユヴィリアイゼはぎゅっと眉を顰め、レフの心盤を両手で持った。
「やめ――っ!」
アレンが叫んだ次の瞬間、レフが棒立ちになった。アレンの声が喉で潰れ、彼は咄嗟に前に出た。
レフは以前と違って絶叫することも出来ず、痙攣するように震え、昏倒することも許されずにばたりと倒れた。顔色は白く、浅い息が震えている。アレンは恐怖に震えながら、横向きに倒れた彼女を抱え起こした。触れることで苦痛が増大したらと思うと、嘔吐感を覚えるほど怖かったが、レフは既に極限の苦痛を味わっているようだった。
ラシュカとリアは事態が把握できず呆然としている。
ぞっとした。
「レフ!」
叫んだのは誰だったか。
このままでは、レフが壊れる。
ユヴィリアイゼを見上げた。黒髪の姫君は不快なものを見る目でアレンを見下ろしていたが、そんなことはどうでもいい。
レフが痙攣する。
「もういいだろ!」
アレンは叫んだ。惨すぎる。なぜよりにもよって彼女の大好きな姉がこんな真似をするのか。ユヴィリアイゼがぴくりと眉根を寄せる。
しかしレフに向ける目には限りない苦痛が映っていた。
レフが唇を噛み切って血が出た。滲んだ色は真紅。
「――やめてくれ……レフが……」
アレンは喉に絡んだ声で懇願した。
「何でもするから止めてくれ……」
「そう」
凛と冷たい、中央の守護者の声がした。
「なら妹から離れてくれる? それから腰の剣を外して。なぜだか知らないけれど、それは【掃討波】を撃てるようだから」
アレンはそろそろとレフを地面に横たえ、しゃがんだままの姿勢で下がると、腰から剣を外して右側に置いて滑らせた。ざっ――と砂埃を小さく巻き込んで、剣が滑って離れる。
もう一度見上げると、ユヴィリアイゼは嫌悪そのものの表情でアレンを見ていた。
「それから二度と妹を、馴れ馴れしい愛称で呼ばないで」
レフが大きく息を吸い込んだ。苦痛が終わったのだ。
ユヴィリアイゼがレフの傍に膝を突いて、辛そうに言った。
「ごめんね、でも分かるでしょう? あなたはどうやってもわたくしに敵わないの。お願い、帰ると言って」
レフが起き上がろうとしながら啜り泣いた。まるで子どものようだった。ユヴィリアイゼが反射的にだろう、彼女を宥めようと手を伸ばし掛けると、レフは身を捩って避け、聞き分けのない子どもの口調で繰り返した。
「アレン、アレンはどこ」
アレンは迷わず声を上げた。
「ここだ」
レフがこちらに手を伸ばしたので、膝で移動してその手を取る。引っ張り上げるようにして起こしてやると、レフは無言でしがみ付いてきた。震えている。
アレンはユヴィリアイゼを見た。まだ心盤は彼女が持っている。しかし繰り返して苦痛の命令を使う気は無いらしく、少し驚いたようにしてレフを見ていた。
「まあ」
と彼女は言った。
「あんなに人間嫌いだったのに、変わるものね」
レフは答えず、アレンにしがみ付いた。傍から見れば、苦痛に耐えかねて泣きじゃくっているように見えるだろうが、アレンは小さな囁きを聞いていた。
「――わたしの指示を聞いてほしい――」
アレンは了解の意味で背中を叩いた。レフは囁く。
「指示を聞いてと他の人にも伝えて――」
また、軽く叩く。レフは更に声を小さくした。
「――ユアンたちのところまで下がったらすぐに剣を呼んで」
アレンがとんと背中を叩くと、レフはゆっくりとアレンから離れた。アレンがユアンたちの方へと下がろうとするのと同時に、レフは言っていた。
「返してください」
ユヴィリアイゼは首を傾げた。それから、納得したように一人頷くと、一旦心盤を持ち直した。また苦痛の命令を使う気かと、アレンは凍り付くほど緊張したが、そうではない。ただし、レフは悲鳴を上げていた。
「何のつもりですか!?」
ユヴィリアイゼは答えなかった。ただ、どうぞというように心盤をレフに向かって、浮遊式を使って返したのみだ。レフは漂ったそれをひったくり、肩を震わせた。
ユヴィリアイゼがまた首を傾げる。
「おかしいわね」
口元に指を当てて、レフを矯めつ眇めつする。
「どうしたのかしら。魔力がまるで感じられない」
レフが凍り付いた。アレンたちも驚愕の表情で彼女を見た。
「そんなことでは、転移も出来ないのではないの?」
ユヴィリアイゼはむしろ心配そうに。
「そうか……そもそも術式が破損しているのね?」
レフが弾かれたように顔を上げる。それと同時にユヴィリアイゼがひょい、と人差し指を上げた。それだけの動作で、空恐ろしいほどの魔力が反応し、術式に応えて働く。
耳で捉えることの出来ない轟音が、足元から這い上がって来た。レフが半ば振り返り、また姉に向き直って顔を歪めた。
ユヴィリアイゼは、アレンたちとレフを分断していた。それも、アレンたちが厄介だという考えはないだろう。ただ単に、邪魔だっただけだ。
分断した方法も、魔術師なら誰でも出来るだろう、障壁を作っただけである。ただそれだけ――ただし、魔力が別格というだけで。
障壁は完全に光を通すわけでなく、向こう側の景色は少し白色を帯びて見えた。
レフは少し震えていたが、切り替えるように頭を振った。アレンはレフを見て、レフがしそうなことを考えた。仕草を見る限り、実際にやる気らしい。
周囲を見る。馬車も馬もまとめてアレンから離れたところにあり、傍にはリアとアゼナがいる状態だ。レフが向きを考えてくれれば、この三人が直撃を受けるだけで済むだろう。剣が手元にあれば、アレンが内側からやるが、生憎召喚を使う前である。剣はむしろレフの傍、障壁の向こうにある。
障壁の向こうでレフがこちらを見た。
「全員動くな!」
アレンが怒鳴り、アゼナとリアを引き寄せた。アゼナは事態を理解しぎゅっと縮こまったが、リアに理解しろというのは無茶である。
「は、ちょ、ちょっと!」
引っ張り寄せられて大混乱の彼女をアゼナごと抱き締める。背後で銀の光が放たれた。
轟くような音、激震。視界に何も映せない。何も聞こえない。感覚全てが失われたような数瞬。それが掃討波の中にいる感覚。
破壊の銀の大波が、清々しく荒々しく過ぎていく。性質としてアレンの身はそこに存在するだけで掃討波を切り取り、無効化している。ゆえにこのとき、アレンの身体は盾となる。障壁など最初から無かったかのように消し去られた。ユアンたちの前にあった部分は残るかと思われたが、術式が破損したらしく、瓦解していく。
銀の大禍が収まった。辺りは酷い有様だ。地面が抉れて見る影もない。
「え――使用者?」
剣にしか注目していなかったのだろう、さすがに唖然としたユヴィリアイゼの声がして、アレンはぱっと立ち上がった。姉に答える、レフの声がした。
「――はい、そうです」
同瞬、アレンが声を上げた。
「+【召喚】+!」
剣が飛んで来る。レフがアレンを傷付けることがないようにと付与した力で、アレンの右手に馳せ参ずる。アレンはその柄を捉え、左手で鞘を握り、剣の飛翔の勢いそのままに刀身を引き抜いた。レフは躊躇わず叫んだ。
「アレン、振り切って!」
アレンも全く躊躇わなかった。
「+【掃討波】+!」
白銀の大波が一気に二人のアイゼルトに迫った。レフにはそもそも無害であり、ユヴィリアイゼの方は軽く指先でそれを払った。
西方の守護者の固有の力、嵐壁。
絶対の防御が掃討波を消し飛ばし、ユヴィリアイゼはアレンを睨み据えた。
「こんなものが【掃討波】ですって。片腹痛いわ」
なるほど先程のものに比べて威力は劣るが、害を加えようとしたわけではない。
嵐壁の出現に合わせて、レフが素早くこちら側に戻って来ていた。多分それが狙いだったのだろう。
性質としての防御壁があるレフは自由に動けて、嵐壁を出現させねばならないユヴィリアイゼは足止めを食うと見越したのだ。
「状況を説明します」
いつものように、理の当然という顔をして偉そうに、レフは言った。
「あれはわたしの姉であり、機巧の盟主です。つまりあの人が、機巧兵に命令を下している人です。ですので、わたしは離反しました」
素早く集結した全員が、無言。レフは口早に続けた。
「あの人は今、最大の攻撃を三つ、防御を一つ所持しています。わたしは対抗できますが、アレンを含めあなた方は、狙われたら命はないと思ってください。そして彼女は魔力もわたし以上に保持しています。わたしは」
ここでレフは一瞬言い澱んだ。
「――まだ回復していません。この場で使える魔術は殆どないので……つまりわたしは今、役立たずです」
「おまえが役立たずだったことはない」
アレンが言い切り、訊いた。
「どうすればいい?」
レフはユヴィリアイゼを目で追いながら、はっきりと指示を出した。
「ユアン、楔役をして。アゼナは機巧兵に対処してほしい。アレンは指示したときに指示した方向に掃討波を撃ってください」
「ラシュカじゃないのか?」
ユアンが口を挟み、レフはラシュカを見て顔を歪めた。
「ええ。ラシュカが楔役をすれば、それは機巧人の魔力を帯びるから――姉には干渉できない。……それに、ラシュカ」
「はい」
きょとんとしてラシュカは返す。レフは息を吸い込んだ。
「姉にあなたの存在を否認させたくないの。けれど、あなたの力も貸してほしい」
ラシュカは頷く。
「包囲陣に参加して。でもそこには魔力の半分だけを使って。それで残りを――わたしに使わせてほしい」
レフはそちらを見もせずに、威嚇のための掃討波を姉に向かって放った。
「アイゼルトとしての力は完璧に戻っている。けれど今、わたしには魔力が足りない。補わせてほしい」
ラシュカが頷かなかった。今までリノ・アイゼルトの言うことには素直に従っていたラシュカが、まるで石像のように動かなかった。
「ラシュカ、お願い」
レフが哀願した。
躊躇って、逡巡して、ラシュカは頷いた。レフはほっとしたような顔をすると、リアとラデル、ヴェルガードに言った。
「姉の周囲に行って。魔力を提供するだけでいい、全部ユアンに任せて。あなたたちがどこに行こうと姉は気にしないわ。戦力だとも思わない」
「なぜそう言える」
ヴェルガードが尋ねた。ラデルも同じ顔をしている。対するレフの答えは、測ったように明確だった。
「わたしならそう思うからよ」
そして、柔和に、しかし断固として言った。
「わたしは今、あの人に対抗できる知識を備えたたった一人よ。
――指示通りにして」




