春の月
リアが呆れたのは、アレンの態度の変わりようにだった。
今までの近寄り難さはどこへやら、雰囲気が明るい。軽口なども普通に言う。馬車と馬を並走させながら、中のレフにかなり気を遣っているようだ。
レフに慣れた仲間から見てみれば、レフの態度は明らかにおかしかった。何かに怯えているようでもあり、そして何より、初めてレフが行先に口を出したのだ。
機巧兵の被害の大きさは勿論気に掛けて、なおかつ、人のいない方へ。
人のいない方、というのをレフは強調した。そしてまた、機巧兵がどこに出るかかなり正確に予測できているようだった。
機巧兵の存在意義を知ってしまえば、それは案外容易いことだったのだ。
文明水準が高く、なおかつ人口の多い都市を、姉は狙い撃ちにするはずだ。そしてついでとばかりにその道中の町にも手を出すだろう。ならば都市の周囲に気を配り、機巧兵が人口の多い処に到達する前に始末しさえすればいい。――そう、レフは考えた。
無論、機巧兵がそもそもどこにいるかなどは分からない。しかし、二千年前、二人の姉と協力して地下へと追いやった機巧兵ども――その位置ならば把握できる。ゆえにそこを基点として、現在の機巧兵の分布を考える。
また、一度だけあった王都への襲撃は、あれほどの破壊をもたらし結界に負担を掛けるとなれば、万術の柱へのリノの門付近にいた機巧兵の殆どが王都に集結していたに違いない。恐らく姉が、あの結界を張れる唯一の存在であるリノ・アイゼルトが本当に〈記録〉の外に出ているかを確かめるために指示した行動だろう。
あれから数箇月が経ち、恐らくばらけて移動をしただろうけれど、機巧兵の移動速度には限度がある。また、機巧兵を魔術で運ぼうとすれば、いかな姉といえども大幅に消耗するだろうし、何よりも穢れる。
ああそうだ。
レフは意識する。
自分は誰よりも機巧兵のことを知っていて、そして今共にいる誰よりも機巧兵に近い。
自分は、レフェアイゼ=リノ・アイゼルトは、機巧の盟主たり得る者の最後の一人――現在その地位に在る者に次いで、二番目に強制力を持つ者なのだ。
□□□□□□□□□□□□□□□□
春の月になった。
新芽に梢が煙り、春霞で空は柔らかく低い。麗かな日のはずだった。
――レフがこれ程、蒼白でなければ。
辺りは踝まで届く草の生えた広い平原だった。西側には青く山脈の影が見え、東側には点のように小さな黒い塊――距離があり過ぎてそうと知らなければ分からないが、町がある。平原を突っ切るようにその町から南に向かって、大きく蛇行して石畳の道が敷かれていた。その道も随分と古く、石畳の間から草が顔を出し、石は割れていたり欠けていたりと、辛うじて道の機能を果たすに留まっていた。北側にはうっすらと森が見える。
そちら側の景色に、アレンは先程から違和感を覚えているのだが、なぜなのか分からない。
アレンたちはここから北を目指すつもりだった。
レフの顔色が悪い、とアレンは思う。昨日は殆ど眠っていないのだろうと分かった。それは良くない。レフはまだ体力が戻っておらず、ようやく歩けるようになったばかりなのである。それも、ヴェルガードが治療の延長のようにして手助けをしてのことだ。彼女は自分でそれをしようとはせず、しかもこの四日、機巧兵に遭う度に後ろに下がって傍観の姿勢を取っていた。
不調なのだろうか――と思う。そうだとすれば当然心配だ。目が覚めたときはあれほど明るかった表情も、彼女が自分の状態を把握してからというもの曇ったままである。それほど深刻な後遺症があるのだろうか。
術式の修復は本人の意思に任されたという、心盤に表われたあの文字を見てから、アレンは一つ重大な誤解をしていた。
つまりレフは己の意思で、全ての術式を修復できる――修復したものと思ってしまったのだ。
だからこそ、レフの不調の原因が分からない。大丈夫なのだろうかと思い、横目で彼女を窺っていたときだ。
そのレフが意を決したようにアレンを馬車の中から見上げてきた。
「――アレン」
アレンは少なからず驚いた。
「なんだ?」
レフは唇を噛んだが、言い出した。
「多分言っておいた方がいいかと思いまして。わたしは今――」
そこまで言って、レフははっとしたように前方――北側を見た。アレンがずっと違和感を感じていた方向だ。ふとアゼナを見ると、彼女も眉間に皺を寄せて北の方を見ている。
「――レフ?」
ラシュカが控えめに声を掛けた。その声で我に返ったようで、レフはぽつりと呟いた。
「……機巧兵です」
アレンは驚いて彼女の視線を追った。機巧兵の巨体は見えない。
「――どこだ?」
「隠蔽……」
レフは呟いた。隠蔽の術は転移よりも術幅が大きく、レフならば機巧兵でも覆い隠せるが、並みの魔術師が使えるものではない。しかも気配だけでなく視覚まで遮っているのである、こんな力を持っているのはこの世界にただ一人しかいないだろう。
機巧兵の気配は感じられないが、隠蔽の術の匂いがする。その大きさからして、内包する物は機巧兵としか考えられなかった。
術者は間違いなく――、
「アレン」
レフは無意識に言っていた。アレンが首を傾げるのが視界の隅に見えたが、彼女の唇は言おうとしていたのとは別の言葉を紡いでいた。
「停めてください」
アレンではなくヴェルガードが反応し、馬車が緩やかに停まった。レフは内側から扉を開け、外に出る。
どうして機巧兵がいるのか、姉は自分の離反に気付いたのか、それとも――、と、思考が好き勝手に錯綜する。
けれどとにかく、彼らを巻き込まないようにしなくては。
無意識にそう思ったところで、レフはそれを打ち消す。頼っていいかと訊いたとき、肯定してくれた彼らだから、多分気を遣わなくてもいいはずだ、と。
「レフ? どうした?」
アレンが言って、下馬して彼女の傍に寄った。他も彼を倣って下馬する。ヴェルガードも御者台を降りた。皆、一様に怪訝そうだ。
太陽はまだ中天に達していない。本当にまだ、春の月になったばかりなのだ。
「恐らく――」
レフは言い掛けた。姉が来るということを告げようとしたのだ。しかしそれよりも早く、懐かしく慕わしく、心臓を抉るほどの罪悪感をもたらす綺麗な声が、嬉しそうに弾んで間近に響いた。
「レフェアイゼ!」
レフが息を呑んだ。
他も同様だった。視線を正面に戻すと、今まさに転移してきたのだろう、黒い霞の花を散らせながら、ユヴィリアイゼ=イリセ・アイゼルトが満開の笑顔をレフに向けていた。
レフは動けなかった。
そんなレフに、ユヴィリアイゼは嬉しそうに抱き付いた。
アゼナがするよりもずっと上品で綺麗で、段違いの愛情が込められた仕草だった。
「嬉しい、待っててくれたの?
会いたかった――もうちょっと待ってね、もうちょっとで大掃除だから。それが済んだらまた一緒にいられるから。
その辺りのことはルイに聞いたでしょう?」
レフは大きく息を吸い込んだ。
「――ええ、お姉さま」
また一緒にいられるから、というその言葉が、自分で思っていたよりもずっと嬉しかった。
けれど一緒に見るその世界はどんななのだろう――そう、思ってしまうから、レフは姉にぎゅっと抱き付いて、紛うことなき本心を口にする。
「お姉さま、大好きです」
ユヴィリアイゼが軽く目を見開いて身体を離した。
「驚いた。――そんなことを言うのは初めてじゃなくって?」
レフは笑おうとしたが、どうしても出来なかった。ただ少し顔を歪ませて、彼女は言う。
「そうですね、お姉さま。心の底から大好きです。それから、何ですが――後ろに何を連れて来ているんですか」
ユヴィリアイゼは指摘されて半ば振り返り、少し罰が悪そうにした。
「ええ……まあ、いいものではないけれど。でも事情があって、ね?」
ぱちんと指を鳴らすと隠蔽が解除され、夥しい数の機巧兵が平野を埋め尽くすように見えた。アレンたちが絶句する中、レフは極めて穏やかに言う。
「お姉さま、本当に大掃除をなさるんですか」
ユヴィリアイゼはにっこりした。
「勿論。ルイから聞かなかった? ゼアントの――わたくしの一番大事な人のためなの」
レフの顔を覗き込んで、透き通った微笑を浮かべた。
「〈記録〉にいてくれることが協力になるの。協力してくれるでしょう?」
レフは長姉の笑顔をじっと見詰めていたが、やがて三度目となるその言葉を唇に載せた。
「お姉さま、大好きです」
ユヴィリアイゼがくすぐったそうにした。レフはむしろ淡々と続ける。
「わたしにとっては、お姉さまが――お姉さまたちが、一番大事な人でした」
目を伏せて。
「けれどお姉さまにとってはそうではなかったんですね。仕方がないことです――生きている長さが違うのですから」
ユヴィリアイゼは困ったように眉を寄せた。
「レフェアイゼ……」
レフは目を上げて、ユヴィリアイゼの手を取った。そのまま姉の手を引いて、アレンたちや馬車から離れるように動く。それに引かれる形でアレンやユアンたちも動いたが、必要以上にレフとの距離を詰められない。
彼女が離れることを、アレンは――アレンたちは半ば覚悟していたからだ。リアだけは何が何だか分からなかっただろうが、ほんの数箇月一緒にいた自分たちを、今ここにいる姉を裏切ってまで取る理由があるものか。
「わたくしも、あなたのことが大好きなのよ?」
立ち止まったレフに合わせて足を止め、ユヴィリアイゼは照れ隠しのように素っ気なく、ちらちらとレフと目を合わせながら言った。レフは表情を緩める。心からの安堵が透けていた。
「それで、十分です」
ユヴィリアイゼはにこりと笑い、レフに握られたままの手を引いた。
「じゃあ、帰ろう?」
レフは自分より少し高い位置にあるユヴィリアイゼの目を覗いた。そして、澱みなく言った。
「相互協力は我々アイゼルトの基本仕様です」
ユヴィリアイゼは首を傾げた。その仕草はやはり、レフと非常によく似通っていた。
「ええ、そうね」
その言葉に頷いてから、レフははっきりと宣言した。
「ですが、わたしはアレンに約束しました。ですから貴女の頼みは聞けません」




