姫君、目を覚ます
アレンたちはそこから大きく弧を描くようにしてレイファへ戻り始めた。同じ町を通らないようにするためである。大きな戦力であるアレンたちが同じ処を間を置かずに通るのは賢明とは言えない。
レフの身体が回復するとはいえ、レフの機能が戻るかは分からなかったし、皆がそれを頭に置いてはいたが、何より重要なことはレフの目が覚めることであると、全員――主にアレンは思っていた。
――自己治癒を開始。術式、現時点で修復不可能。身体機能の回復を優先。身体の完治、推定十日後。誤差は最大三日。
アレンは見間違いを何より警戒して何度も心盤を確かめたが、白い文字の表示は依然として保たれていた。
(レフが治る)
アレンは何度も自分に言い聞かせた。
(レフの目を覚まさせられる)
それはとてつもない奇跡に思われた。この上ない幸運に違いなかった。アレンは相当嬉しく、しばらくは振り撒く近寄り難さも緩和された。
しかしまた、この上でレフに何か起りはしないかと心配になったらしく、連絡してきたヴェルガードに対しても厳しい声で、レフは無事かと訊いていた。
「尖り過ぎだ」
ヴェルガードは一刀両断した。
「いくら俺でもレフを襲わせたりしない」
「いや、それは分かってるけど……」
アレンは呟き、溜息に紛らせて「心配なものは仕方がない」だとか言っていた。ヴェルガードは連日徹夜してレフの治療に当たっており、このアレンの科白で頭痛が頂点に達したらしい、呻き声が聞こえてきた。
「ヴェルガードさん、こいつはそろそろレフ欠乏症になってきてるだけだから」
ユアンが疲れた声音で言い、ヴェルガードは含み笑いを漏らした。
「目が覚めたらレフに言ってやろうな」
アレンは思わず制止の声を上げたが、周りはにやにや笑って頷いていた。
久し振りに打ち解けた空気が流れていた。元のような、緩んで暖かい空気が。それはリアとデイヴにとっては初めてとも言える空気だった。
「とにかく、自己治癒が始まったのは大きい。俺がそれを援助してやれば、これまでとは比較にならない回復速度が見込めるからな」
ヴェルガードは明るい口調で言い、ヴェルガードが術式を回収した後も、リアとデイヴを除いて各々の顔には笑顔があった。
「早く戻りてえ――」
ユアンは言って空を仰いだ。レイファに戻るのに、来たのと同じだけの日数が掛かることは必然である。それがじれったい。
レフが戻るということで、アレンは大変元気になったが、同時に早く帰りたくて仕方がなく、帰路に出遭った機巧兵に八つ当たり気味の苛立ちをぶつけた。そのうちの一機は、町を襲いに行く途中だったのか人気のない処で発見され、ユアンとアゼナは思わず同時に、「間抜けな」と漏らしていた。その機巧兵は即座に掃討波で消し飛ばされ(なおかつ背後の木立が少し削られ)、見慣れていないリアとデイヴは心臓に悪い思いをしたのだった。
「何なの、あれ。ぴかっと光ったら吹っ飛んでるって」
リアは言ったが、アレンは曖昧に笑った。アレンも掃討波については、その威力とレフの固有の力であるということしか知らないのである。
「レフから説明された方が分かりやすいと思うぜ?」
言った傍からアレンは、もうすぐレフに会えるということに意識を持って行かれた。レフに会ってすることは――。
謝る。
「でもあれって、使いどころがむしろないんじゃないの?」
リアが訊いて、アレンは思わず笑った。
「そう、最初は全く使えなかったんだよな。初めて使ったときにえげつないことになったから。――俺のせいだけど」
レフが振り切らないようにと言っていたのに、振り切ったアレンが悪いのである。それを聞いたユアンが苦笑いで思い返した。
「あれは本気で怖かったな。いきなり吹っ飛ぶから。レフはレフで説明する気もなかったし」
アレンは苦笑した。レフもここ数箇月で態度が軟化したものである。今ではかなり丁寧な説明が求められる。
――目が覚めれば。
レイファが近付くにつれて思い出すのは、あのときの血だらけになったレフであり、彼女の掠れて弱々しい声だった。このままレフの姿を見ないでいると、あの姿にこれからずっと苦しめられそうだ。一生忘れることはない、アレンの心臓に刻み込まれた記憶だった。
行きに比べて彼らはかなり余裕のない調子で進み、町にも殆ど泊まることはなく、しかしそれに対して苦情を言う者もおらず――アレンたちにしてみればレフの目が覚めるのに早すぎるということはないし、リアやデイヴにとっては帰宅であるのだから当然である。もっとも、リアは帰れるかどうか未定だったが――、行きと同じ日数を覚悟していたものの、実際には一日半の短縮に成功した。
初春の月も残り四日という日に、アレンたちはレイファに帰り着いた。
前回にその町を見た時とは段違いの表情で故郷を見たアレンは、城壁の外に転がる機巧兵の残骸も、城門を潜るや掛けられる周囲の声も完璧に無視してユアンの家へ急いだ。後ろに続く他の者が、それとなく愛想を振り撒いておく。
「あいつ、人ん家に馬で乗り付けるつもりかよ」
自身も騎乗したままであるということを失念してユアンがぼやけば、アゼナがとんちんかんに返した。
「案外道幅広いよね」
リアとデイヴは迷ったようだが、ユアンの家の前までは同行した。馬を返す都合もある。
アレンは他よりも早くユアンの家に入ろうとしており、思わずラデルが「がっつくな!」と止めてしまった。アレンは心外だという顔をしたが、一応他を待つ。
ヴェルガードには前日の連絡で今日の到着を知らせており、どやどやと彼らが入って来ても驚いた様子はなかった。ただ彼は睡眠不足の窺える顔をしており、疲れは如実に表情に刻まれていた。無詠唱で発動できることが少ないことからも分かるように、癒しの術の術幅は大きい。
アレンは彼を労うこともそこそこに、戻って来た唯一の理由を見た。
レフは元のように寝台に俯せに横たえられており、その姿を見てアレンはみるみる溢れる安堵を自覚した。
邪魔にならないようにと横に払われた銀の髪は窓から差し込む午後の陽光に煌めき、異常なまでにゆっくりとした呼吸の拍子で上下する背中に乗っている部分が、その度にさらさらと揺れる。目が閉じられた顔には、当然ながら表情は無い。うっすらと開かれた珊瑚の唇からは呼気が漏れ、閉じられた瞼は少し固い印象。頬に影を落とす銀の睫が、まるで誂えた装飾のようだった。
アレンが余りにも息を詰めてレフを見ているので、誰一人として声を出せなかった。が、やがてアレンがレフから目を逸らし、ヴェルガードに視線を移した。
「――もう、治ってるんだよな?」
ヴェルガードは頷いた。
「ああ。俺の見る限りでは完全に。――だがこの子の能力面ではどうだろうな……本人に訊くしかないだろうが」
アレンは頷いて、そろりとレフに近付いた。確かに彼女だ。そっと左手を取る。ぼろぼろだったそれは、完全に元に戻っていた。――そして、暖かい。
レフは当然ながら着替えさせられてもおり、ぱっと見には背中の状態は分からない。だが、ヴェルガードが大丈夫と言うからにはそうなのだろう。
アレンの様子に、どうでもいいことだがと言いたげな口調でヴェルガードが伝えた。
「アレン、レフの傷の治りを確かめたいなら本人の了解は得ろ。ちょっと人目には晒せないところにも傷はあったから」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………へえ」
ユアン、アゼナ、ラデル、ラシュカは沈黙し、アレンは長い沈黙の末に声を出した。疲労のため頭の回っていなかったヴェルガードは今更ながらしまったと思ったが、アレンは己に「治療のため治療のため」と言い聞かせるのに必死だった。しかしどうしても言ってしまう。
「――つまりヴェルガードさんはレフの『ちょっと人目には晒せないところ』も見たと」
責めてはいない。アレンとてそんな真似はしないし出来ない。レフを治してくれた感謝は大きい。しかしどうしても言ってしまった。
互いに気まずくなってアレンとヴェルガードが顔を見合わせると、ユアンが気を取り直してアレンの頭を後ろから叩いた。
「こら、アレン。おまえ何ヴェルガードさんにあらぬ嫌疑掛けてんだ」
アレンはうっと詰まり、ヴェルガードは神妙に言った。
「着替えさせたのはユアンの母上だ」
ユアンとアゼナとラデルが同時にアレンの顔を見て、あからさまに浮かんだ安堵の表情に思わず噴き出した。が、ラシュカはそれどころではなく、久し振りに見るリノ・アイゼルトの御尊顔に見入るのに忙しいようだった。
「ねーねー」
アゼナが言って、アレンの腕を引いた。
「いつレフの目を覚まさせるの?」
アレンは室内を見て、レフが気を許している人間と機巧人しかいないことを確認した。そして、鞘の傍に固定していた心盤の袋を外す。中身を取り出して左手で持ち、袋は寝台の傍の卓に置いておいた。
「今からだ」
アレンは言って、レフの頭の傍に跪いた。この手順は、レフに言われてからこちら、ずっと頭の中で復習していたのだ。
まずは。
「――レフェアイゼ」
アレンはその名を呼んだ。唇から滑り出るその名が少々くすぐったい。その名で呼ばれる人が目の前にいるということが嬉しい。
心盤の中で白い光が散った。
――声紋を照合。使用者を認識。
アレンはレフに――レフだけに声を届けようと意識した。今から彼女の言葉を話す必要があるからだ。アレンはレフの顔を見て、我知らず微笑んだ。口に出した言葉は柔らかく優しく、室内の他の者には意味不明なものだった。
「――Ky`mnnWCh`dnn」
――休眠を中断
心盤の中で、素早く文字が形成された。
――休眠を中断。睡眠に移行。身体異常なし、正常に覚醒可能。術式の修復は当該機巧人本人の意思に委ねるものとする。
「レフは、レフはいつ目が覚めるの?」
子供のようにアゼナが訊き、心盤を注視したままでアレンは答えた。
「今、休眠から睡眠に入ったってさ」
なにそれどういうこと、とアゼナがきょとんとし、ラシュカが簡潔に説明した。
「休眠はわたしたち機巧人が意識を手放して、所定の手続きを踏むまでは起きない状態のことで、睡眠は普通に寝ている状態のことを言います。だからえっと、つまりレフは今寝ていらっしゃるから、朝起きる感じでもうすぐ目を覚ますってこと」
なるほど、とアゼナが頷く。
――確認。痛覚を復旧させますか? はい/いいえ
心盤にそんな文字が浮かび、アレンは絶句した。レフがなぜあれほど喋れたのかという疑問が氷解する。
(痛覚を切るって……なんてことしてんだよこいつ……)
とにかく、アレンは彼女の言葉で述べる。
「――Hi...」
はい、と。それを受けて心盤の文字が崩れ、新たな文字が浮かび上がる。
――指示を承認。痛覚を復旧。覚醒まで秒読み開始。二三〇秒前……
見慣れない単位だが、時間を測っているらしかった。アレンは息を詰める。その雰囲気を受けて、他も押し黙った。
――覚醒まで二一二秒。呼吸速度、上昇。代謝は正常に戻っています……
レフの呼吸が変わった。深過ぎた呼吸から、睡眠時の呼吸へ。そして少しの間を置いて、更に覚醒時のものに近く。
――一八〇秒前……
ぴく、とレフの瞼が動いた。アレンは腰を浮かし掛けたが堪える。レフは寝ているときによくするように、溜息に似た息を吐いた。
――九〇秒前……
レフの頭が動いた。横を向いていたのを、下を向くように、布団に擦るようにして動く。アレンが目を逸らしもせずにただひたすらじっとレフを見ているので、ユアンはやや呆れ、アゼナは注意すべきか否か迷った。
――五〇秒前……
アレンは心盤を袋の中に直した。そしてすぐに視線をレフに戻す。レフは今やいつ起きてもおかしくはない様子を見せていた。アレンは思わず寝台に手を突くようにしてそれを待ち、周囲はそんなアレンに取り敢えず一番にレフに話し掛ける権利を献上するということでは一致していた。
――覚醒します。
レフの睫が漣に揺れるように動いた。一度ぎゅっと瞑られてから開いた目は、アレンがずっと見たかった華やかな青い色。訝しむように瞬きして、寝惚けたような光が宿ったその目が彷徨う。やがて焦点が定まって、レフはアレンを見た。アレンは何も言えなかった。
レフは身じろいで、両腕を使って上半身を起こした。銀髪が肩に胸に零れ掛かる。その状態でアレンを見て、レフは目が覚めてから最初の言葉を発した。
「――……怪我はありませんか、アレン?」
掠れてはいても、天上の音楽と言っても差し支えのない声だった。
アレンは絶句し、しばし呆然とレフを見た。その様子に、レフは気遣わしげに眉を寄せる。まるで、アレンがどこかに怪我をしたと思っているかのようだ。
(怪我したのはレフだよな?)
アレンは呆然としながらも考えた。それなのに何だ、この言葉は。
まるで――まるで、アレンのことが心配だとでも言うような。
「休眠すると周囲のことが分からなくなりますから……。あの後、大丈夫でしたか。それにわたしの心盤は役に立ちました?」
レフは首を傾げた。いつもの角度、いつもの表情で。そしてそれはアレンの愛しいものに他ならない。
無意識にアレンはレフを抱き締めた。レフが面食らってきょとんとしたのが分かる。アレンは傷のなくなったレフの背中に腕を回して、力を込め過ぎないように注意しながら彼女を抱き締めて、まずは言わなければならないことを、万感の思いで言った。
「――今までごめん」
腕の中でレフが首を傾げたのが分かった。彼女の髪がさらさらと腕を滑った。
「アレン?」
声は訝しげだった。
「どうしたんですか? 何かありました?」
「何かって――」
アレンは息を吸い込んだ。言いたいことは多くあったが、結局一つしか口に出せなかった。
「おまえが怪我しただろ」
レフは一瞬動きを止めて、それから丁寧な動きでするりとアレンの腕を退けた。しかしそのままアレンの前腕を握って、真顔で言った。
「――怪我をしたのがあなただったら、間違いなく死んでいました」
「…………」
「わたしが受けた内臓破損も出血も、人間や他の機巧人が耐えられるものではありませんでした。ですからわたしが怪我をしました。気に病んでいなければいいと思ったのですけれど……」
レフは愁うようにアレンを見て、溜息をひとつ零した。
「……その様子だとまた気に病んだのでしょう?」
アレンが言葉に詰まると、レフは真摯に言葉を重ねた。
「わたしがあなたに死んで欲しくなかったために取った行動です」
アレンは硬直した。いつもなら使用者云々で納得する言葉であるが、腕を取りながら、こんな表情で言われると――
(こっ、これは!)
ユアンは思わず拳を握り締めていた。本来なら他がさり気なくそうしたように、アレンがレフを抱き締めたときに視線を外すべきではあったが、恋路を案ずる俺を許せよ親友。
(いける! 脈はある!)
取り敢えず何か言葉を返せ! と本気で心配していると、レフがアレンから手を離した。アレンよりもユアンが恐怖に駆られた一瞬後、レフが言った。
「何か――変な気分です」
アレンは思わずレフの腕を掴んだ。顔を覗き込む。
「どうした? どんな感じだ?」
レフは眉根を寄せ、覚束ない口調で言った。
「頭が妙にふわふわします。それからここが――」
レフは腹部を示した。
「すかすかします」
沈黙の一瞬後、アゼナとラシュカが部屋の外に飛び出した。レフはそれを不思議そうに見てから、説明を求める顔でアレンを見る。アレンは呆れていた。
「――それはな、レフ。空腹というものだ」
レフは眉を顰めて反論した。
「いいえ。前に教わった状態ではありません」
アレンは圧力を込めてにっこりした。
「おまえは長い間何も食ってないからな。そうまで食わないでいると、空きっ腹も違うようになるんだよ。おまえが今感じてるそれは、飢餓と言った方がいいようなのだろ。あの二人は何か食事を取りに行ってくれたはずだ」
レフは納得したように頷くと、今度はゆっくりと自分の身体を確認し始めた。空腹以外の異常がないことを確認してから、何かを探すように目を泳がせる。察したアレンが心盤の袋を差し出した。
「ほら、無事だ」
レフは不思議そうにアレンを見上げた。そんなことは分かり切っていると言わんばかりで、それが嬉しい。
アゼナとラシュカが二人掛かりで食事を運んで来て、レフは寝台の上に座り込んだままそれを食べた。何気なくちらちらとアレンを見ているのが愛らしい。当たり前だが相当飢えていたらしく、かつてなく黙々と食べている。
アレンは今までの近寄り難さはどこへやら、かなり上機嫌な顔でレフの傍に張り付き、レフに乞われて彼女が休眠していた間のことを取り留めなく話した。自分が町の三分の一は譲ってもいいと言ったことなどはちゃっかり省いたな、とユアンなどは思うが、レフは一切そういったことは感知せず、安堵したような残念なような、微妙な顔をした。その顔を、アレンは妙に思って覗き込む。
「どうした?」
レフは視線を逸らして食事に集中し出した。
「……いえ別に」
アレンは怪訝に思ったが、追及はしないでおいた。アゼナが無言で笑っていた。
かなりの勢いで食事を終えたレフは、話がセドに及んで大きく目を見開いた。次いで、責めるようにアレンたちを見る。
「どうして早く言ってくれないの」
拗ねた口調と表情だった。これも可愛いなあとアレンは呑気に思う。レフはアレンを見上げた。
「会いたいです」
アレンは危ぶむ顔でレフを見た。一箇月近く寝ていたのだ、自力で立てるかも怪しい。そのことを素直に言ってみると、レフは目を瞠った。
「そうなんですか?」
自覚が無かったらしい。試しに立とうとしてみて、やはり膝立ちまでしか出来ず転び掛ける。慌てたアレンが間髪入れず支え、危なげなく元の状態に戻しながら、内心で冷や汗をどっと掻いて、それもあって厳しく言った。
「だから言っただろうが。普通に考えて足が立つ訳ないだろう」
レフは悔しそうな顔をしてじっと考え込んだが、顔を上げると今度はアレンをじっと見た。
「――会いたいのですけれど」
アレンはレフを見て、己の敗北を悟った。
「分かった、呼んで来る」
本音ではレフの隣にいたかったのだが。
アレンが立ち上がって部屋を出ると、レフが一瞬腰を浮かし掛けた。それを目敏く見付けて、アゼナがからかうように言った。
「なに、レフ。どうしたの」
レフは部屋の扉の方を見たまま、呟いた。
「アレン本人が行くとは思わなくて」
にやっとアゼナは笑った。
「アレンにはここにいてほしかったんだ?」
訝しげにレフは彼女を見た。
「――それがどうかした?」
ユアンとアゼナが目を見合わせて、にっこりした。レフはそれを訝しそうに見つつ、落ち着かない様子でアレンを待った。
しばらくしてアレンが戻って来たが、セドが先行して部屋に走り込んでくるという事態になり、セドが何をしてくれたかを聞いていたレフも大歓迎だったので、アレンは少々拗ねた態度で部屋の隅に立った。
異変が起こったのはセドが帰った後、レフが自分の心盤を確認していた最中だった。アレンが傍に座って見ていると、ちょうど自身の術式についての文字が表われたときだった。
顔色が変わった。
「どうした?」
アレンが怪訝に思って訊くと、レフは呆然とした顔で彼を見上げた。
「……わたしは……」
もう一度心盤に目を落とし、またアレンに視線を戻して、恐れるような口調で呟いた。
「――わたしは、どれくらい休眠状態にあったんですか」
アレンは眉を寄せたが、即答した。
「一箇月くらい――それがどうかしたか?」
レフは大きく息を吸い込んだ。
「今はいつですか」
アレンは戸惑いながらも答えた。
「――あと四日で春の月……だけど」
瞬時に蒼白になったレフが、震える唇で復唱した。
「……四日……?」
アレンはレフを覗き込んだ。
「どうしたんだ。何かあるのか」
反射的にだろう、レフがアレンの腕をぎゅっと掴んだ。アレンは少し驚く。そんな彼を尻目に、レフは訴える口調で言っていた。
「アレン、ここから離れさせてください」
アレンが妙に思いつつも、ヴェルガードに馬車を出してくれるよう頼もうと振り返った。レフはアレンの腕というよりも袖を掴んだまま、不安で堪らない様子で呟いた。
「……わたしは今、動けないんです……」
「ヴェルガードさん、馬車を用意してくれ」
アレンは指示して、レフに視線を戻した。
「レフ、そのままの格好でもいいな?」
レフはこくりと頷く。アレンは迷った末にぽんぽんとレフの腕を叩いて宥め、ユアンに頼んだ。
「リアのことだけど、おまえに任せる」
「あの魔術師ですか?」
レフがアレンを遮って訊き、アレンが頷くと更に縋るように尋ねた。
「アレン、わたしはあなたを頼ってもいいですか」
アレンは動揺してレフを見た。レフはかつてなく不安げで、アレンの目はしっかりと見ていたものの、視線が泳ごうとするのを必死に堪えているような風情だった。
「――そりゃあな」
やっとのことでアレンが答えると、レフは言い方を変えて更に尋ねた。
「わたしは、あなたたちを頼ってもいいですか」
アレンはユアンやアゼナといった、室内にいた仲間を見た。ユアンは訝しげにした。
「何言ってる。全然構わないぞ」
「同じくー」
アゼナがあっけらかんと答え、他も同じ旨の返答をする。レフは何か考えるような顔をしてから、小さく言った。
「――その魔術師を連れて行くことにしてほしい。もしかしたら……必要になるかも知れないから……」
アレンは言っておいた方がいいだろうと思い、注意深く言った。
「けどあいつ――リアは、機巧人嫌いだぞ?」
「気にしません。それを気にするようなら、わたしはあなたに付いて〈記録〉を出たりはしませんでした」
レフが即答し、アレンはぐっと詰まった。
「……仰る通りで……」
馬車の用意が出来た。アレンはちらりとレフを見て、歩くのは無理そうだなと判断した。レフ自身、少し困ったような顔をしている。
アレンはすっと膝を突くと、一言断った。
「ちょっと失礼、するぞ?」
レフが首を傾げると同時に、アレンはレフを抱え上げた。レフは驚いた様子もなく、納得の口調で感想を述べた。
「なるほど、合理的ですね」
アレンは微妙な顔で唸った。
「本来ならアゼナかラシュカに支えてもらうのが一番なんだけどな」
レフはきょとんとした。
「なぜです?」
アレンは溜息を吐いた。
「まあ、出れば分かるさ。そんなに合理的じゃないってことも……」
不思議そうなレフだったが、アレンに抱えられて外に出て、馬車に乗るまでの僅かな間に、二人を見掛けた人物悉くに騒がれて、閉口すると同時にその意味を悟ったらしい。レフが不機嫌になる前にと、アレンはかなり急いで彼女を馬車に入れた。しかしレフにしてみれば不機嫌になるどころの状況ではなかった。
姉が来る。
(春の月に入って、貴女がアゼイラ国内にいるようであれば、イリセ・アイゼルトが貴女の下をお訪ねになられます。〈記録〉に戻ってもしばらく会えないので、会いたければそれまでアゼイラに留まることをお勧めします。イリセ・アイゼルトもそれとなく期待しておられる風でした)
ルイの言葉は頭に刻み込まれている。焦った理由もそこにある。
まさかそれほどひどく術式が損傷するとは思っていなかった、そう彼女は認めた。心盤に表われた事実を見たときは気が遠くなり掛けた。
術式が損傷しているという可能性は考慮していた。しかしそれも、休眠中か、目が覚めた後の自分の意思で、簡単に修復できる程度だろうと思っていた。それなのに――。
修復可能な術式は、それこそすぐに修復した。しかし肝心の、治癒や転移といった術幅の大きなものは修復が出来ない状態なのだ。それがなくては他国に移動できない。修復する手段は、あるにはあるが、危険すぎる。
こんな状態で姉と対峙しては、見逃してもらう自信すら持てない。――姉が自分を棄てるならば。
姉と敵対していると、敵はイリセ・アイゼルトだと、言わなければ。そのことを話したいと、休眠する直前に確かに思っていたはずだ。それなのに今になって躊躇いが生じる。
――リノ・アイゼルトに実力で遥かに勝るイリセ・アイゼルトを敵にして、アレンたちは去って行くだろうか? 自分たちの運命を受け容れて、わたしの前からいなくなるだろうか。
窓枠をこつこつと叩いて不安を紛らせていると、何を誤解したのかアレンが慌てて言ってきた。
「すぐ出るから! けどリアを連れて来なくちゃならねえし、他にもちょっと――」
今更一分一秒を惜しんで何とかなるほど、状況は甘くない。レフは頷いた。
「急かしてはいないのですけれど?」
言わなくては、と思う。今自分に使える魔術は限られているのだということを。けれどどうしてだろう、アレンには言いたくないと思ってしまった。
信頼していないのか? それは違うと断言できる。使用者であるということを差し引いても、レフはアレンのことを誰よりも信じている。姉と相反する立場を取ることを決めた現在、アレンはレフが世界で最も信頼している存在と言っても過言ではない。
それなのに、なぜ。
しばらく考えて、これは強がりなのかも知れないと思い当たった。なぜ、自分はアレンには強がっていたいのだろう――
――馬鹿にした過去があるからか……。
生まれて初めて自分の過去の言動に腹を立てながら、レフはやって来たラシュカのために内側から馬車の扉を開けた。




