幕間 ある機巧人
日は既に落ちていた。
辺りは暮れなずみ、視界は色を失いつつある。丈高く聳える灰色の建物は冷たく威圧的で、幅広い大通りには不思議と人影がない。首都から離れているとはいえ、繁栄する商人町アドルにおいて、最近は特に珍しくもなくなった光景である。
この町はレデスナ王国シェンド侯領の領都も兼ね、中心には高く豪勢にシェンド侯の館が敷地を横たえている。
脇道から大通りへと飛び出した彼女の呼吸は逼迫していた。迷いなく走っているものの、その瞳には最早諦めの色が濃い。それは達観とも似通っているように思われた。
彼女の耳が、石畳を揺らすようにして後を追ってくる一団の足音を捉えた。皆無言で、ただ明確に害意のみが伝わってくる。彼らの呼吸は未だ規則正しく、彼女は疲れ切った頭のどこかで皮肉に考えた。――途中で人員交代をしていますもんね?
彼女は緩い坂を下り、己の命数が尽きようとしているのを肌で感じた。捕まれば後はない。この頃密やかに囁かれている迷宮に入れられるか、殺されるかだ。そして遅かれ早かれ――終着点は同じだ。心臓の鼓動はもう数え切れないほどに速い。それはまるで、生存を訴えているかのようにも思われた。しかし実際は、限界を迎えつつある彼女の身体に、その活動を支え得るだけの血液を送り込もうとしているに過ぎない。
彼女は自分が息をしているのかどうか分からないまま、大通りを下り続けた。視界が揺れているので変だなと思っていると、途中で膝が折れた。もう随分前からよろめいてはいたらしい。
倒れて、地面に這い蹲った状態になっても、彼女はまだ進もうとしている。もう諦めたはずなのに、生に執着することの意地汚いこと、と彼女は意地悪く己を嘲った。
生きたいのだろうか?
いや違う、と彼女は断言出来た。――父が目の前で殺され掛けているのを、黙って見ていろと言われて従った自分だ。後でねと笑っていた母が消息を絶ってから既に半月、もう生きてはいまい。自分そっくりの赤い髪の妹は知らないうちに捕まっていた。やはり、助命されてはいないだろう。兄を止めることが出来ず、みすみす無駄な行為へと向かわせてしまった。
死にたくないのだろうか?
そうかも知れない、と彼女は思った。どうしてこんな目に遭わねばならない、と心のどこかがずっと叫んでいる。罰なのだと誰かが言った。ではその罰を与えているのは誰なのだ。詰れば届く処にいるのか。
一月前に追放令が暗黙のうちに第二世代にまで拡大され、そのときからずっと怯えていた。その恐怖から逃れられるというのに、解放感など欠片たりともありはしない。
視界が揺れだした。なぜだろうと思って瞬きをすると、視界は晴れたが頬は濡れた。
――なぜ、泣かされなければならない。
彼女は歯を食いしばり、背後に迫る男たち――ひいては死への、最後の抵抗として火炎の術式を組み立てた。刻々と濃厚になっていく夜陰を勢いよく焦がした火は、彼女の最後の体力を奪った。もう何も出来ることがなくなったというのに、なぜか泣き続ける体力は残っていた。馬鹿、と罵る。泣くくらいなら反撃してやりたいというのに。
足音が前からも後ろからも聞こえた。いつの間にか追手が増えたのかもしれず、あるいは混乱した彼女の頭が、変な風に音を聞いているのかも知れない。
彼女は目を閉じ、人生に終止符を打つ音、あるいは光、あるいは衝撃を待った。涙は容赦なく瞼を攻め立てて決壊させ、次から次へと流れていく。なぜ泣かされなくてはならない。なぜ――何のために自分は泣いている。もうどうにもならないことは分かっている。ずっと前から覚悟はしていた。
足音は、すぐそこ。
彼女は唇を噛み、目を開けた。自分に罰を与えるものが、詰れば届く処にいると信じて、精一杯罵る。大声を出したかったのに、喉は涸れて、吐く息ほどにしか声が出ない。
生まれてきたことが罪ですか。
だったらなぜわたしたちはここにいるのですか。
わたしたちを罰する前に、わたしたちを創ったものを罰したらどうなんですか。
こうなるならどうして生まれなくてはならなかった。
生まれることを望んだことは一度もない、それなのに死に対する恐怖はこれほどに根深い。
これはどういうことですか。
わたしたちを創ったものは悪意で以て創ったのか。
一度も慈しんだことはないのか。
駄々っ子のように脈絡のない言葉が溢れ、そのせいで余計に胸が苦しくなった。心臓が引き裂かれたような。
あるいはもっと大切な――
―ーもっと大切な心盤が、胸の奥でしんしんと冷えていっている。
雪が落ちるような軽やかさを持つ連続性を持って、心盤が重くなっていく。それは死期が近いからか。雪を連想したのはそのせいか。
――降る雪に溶けゆく覚悟があろうか。そんなのないに決まってる。それでも雪は溶けていく。
それと同じ絶対で、ここで今、自分は死ぬ。
彼女は目を閉じた。死ぬんだということは分かっている。それなのにどうして、この願いが消えない。もうどうでもいいことのはずなのに、なぜ消えない。
彼女は己に降伏し、その願望を直視した。消えない、消えるはずはない。父を母を兄を妹を、その他親しかった人たちを、奪われる度に返せと叫び、返してくださいと願った。――それよりもまだ切なる願い。
足音は、すぐそこ。
呼気は白い。それはまだ彼女が生きている証。この大気に彼女の命が刻む印。彼女はその息を大きく吐き出し、何度目かに願った。今までのどのときよりも静かに願った。
――生きてていいって、誰か言って。




