悪女になれない妻は強烈な責めを繰り出しながら夫の全てを愛します(中編)
「よく来てくださったわ。パトリシアさん」
ミレーに代を譲り、義父母が新しい居住地にしたのは、ロッケルベンバー侯爵家が持つ別荘である。
といっても、以前からミレーが連れて行ってくれた家庭的な雰囲気の別荘ではない。
むしろ本宅より大きいのではないかという豪邸に、庭、湖まである。
そして、ミレーの母の前には、ピシッとした姿でお出迎えする使用人たち――
ぴくりとも動かないわ……まばたきすら……ない。
これを、我が家でするのは無理。
私は、次に家にお招きするときには、何を言われても聞き流そうと決意する。
「堅苦しくなさらないでね」
「いえ、女主人としての見本を見せていただきました。本宅に帰りましても、本日の学びを活かさせていただきます」
どうやって、堅苦しくならずにいられようか?
私は、扇子で口元を隠しながら貴婦人らしい仕草をしながら、しおらしくする。
「あら?聞いていてよ。ミレーの歴代の彼女を押さえ込んでいるらしいじゃないの。ふふっ、ミレーも焦ったことでしょうね。色んな女との思い出のものも、目の前で火にくべたと聞いたわ。しっかり夫をコントロールしているようで何よりよ。私もそこまで徹底的に夫をやり込めたら良かったわ」
お義母様は、嬉しそうに微笑む。
あら?
お義母様から……これはお褒めの言葉?よね。
前回は、セラフィーヌ様が家をかき乱したことを、私が、制御どころか助長させたから手厳しかった。
今回は及第点というところかしら?
セーフ!と心の中でジャッジする。
「じゃあ、早速今度の舞踏会の準備の状況を教えてくださる?」
お義母様に、今度の舞踏会で着る予定のドレス、アクセサリーなどのチェックを受け、今まで会ったことがない貴族たちの情報の引き継ぎを得る。
「きちんと勉強はしているようね。あとは、やはりその身なりだわ」
上から下まで、眉を顰めて、明らかに不満という顔をされる。
マイヤーが磨き上げてくれて、今日は気合を入れてバッチリ化粧もした貴族の装いだったが、些細な仕草や日焼け予防など、自分であげることが出来ていない女子力をどうやら見抜かれているようだ。
「侯爵夫人としての自覚がたりないんじゃなくて?」
鋭い目で睨まれ、善処しますという他ない。
一通り、そこからお小言という嫁への指導が一時間ほど……
さて、終わりかしら?というところで本題に入った。
「ところで、あなたミレーのことをテイラーから聞いたそうね、」
あの事だわ――
私は、ごくっと息をのんで頷いた。
表面上のミレーは、優しいし、穏やかだし、私を褒めまくるし、スキンシップも相変わらずだし……
ただ、ここ最近は、やはりいつもより不安げな様子があった。
私は、例のことを知らないふりをしているし、ただ、毎日ミレーを愛しているということを告げ続けるしかなかった。
その言葉も負担になるかと心配するが、それ以外、彼を支える良い言葉も見つからない。
「あの子は、小さい頃から、親の私がいうのもなんだけど、いわゆる美少年だったし、もてる子ではあったの。ただ、そこまでは、普通にガールフレンドの子がいるという感じね」
三輪車や靴下、ネクタイなど、子供らしいプレゼントの贈り合いをしていた頃ね。
お相手は、みんな良い貴族のお嬢様で、ミレーとは、深い付き合いをすることもなくみんな嫁いでいる。
「けれど思春期に入るころ……事件は起きたわ」
「バックミラー公爵夫人のことですね」
そう私がいうと、お義母さまは、唇を震わせ、きゅっと噛み締めるようにその唇を閉めて扇子で隠した。
「私がバカだったわ。あの女が、そう言った趣味があるとは知らなかったし、私怨もあったと思う。元々、バックミラー公爵の婚約者だったのは私なのだから……」
「ええっ!お義母様がですか?」
私は、そう驚き、ハッと口をつぐんだ。
そんなふうに驚くのは、無作法だ。
お義母様は、少し睨んでため息をついた。
「そうよ。あの女、シャトレーヌというのだけど、彼女は公爵の浮気相手よ。ただ、公爵にとっては遊びだったの。ある日、社交界の休憩の場で二人が関係があるのを、みんなに見られてしまった。それを機に私との婚約は破談になり、この家に嫁いだの」
「それだけ聞くと、私怨を持つのはお母様では?」
私はそんな身持ちの悪い女性が良く公爵夫人に収まったものだし、なぜミレーに手が伸びるのかわからないと驚く。
「それは、バックミラー公爵が、連日、結婚した私に泣いて復縁をすがったからよ」
「ええっ!結婚したのにまだ諦めなかったんですか?」
わたしは、目を見開いて驚く。
それは、あまりにも酷い。
「もちろん、夫が正式に先代公爵に申し入れしてくれて収まったんだけど、シャトレーヌからしたらプライドが傷ついたでしょう。」
今度は、私が驚きの声をあげても、お義母様は驚くのは当然だわとツンとしていた。
「じ、じゃあ……ミレーに対しては逆恨みみたいなもんじゃないですか」
「そうね。結局、シャトレーヌも色々揉めたみたいだけど、子供が出来たらしくて何年かして公爵も諦めて結婚したわ。その後は、夫が気をつけて接点を持たないようにしてくれたの。ところがよ……」
ミキッ パキッ
ん?今、お義母様の手元の扇子から何か音がしなかったかしら?
私はお義母様を見つめる。だが、珍しく怒りを隠そうとしていなかった。
「あの女、今度は夫を狙おうとしたのよ。薬を盛ってね」
「まさか……あの厳格なお義父様を?」
それは、無理だ。
お義父様は、お義母様を大切にしているし、貴族としての矜持を大切にしている。
誇り高いし、冗談の一つも言わない。
ミレーが初夜に私に告げたことや、結婚後の私への扱いを知って、連日ミレーは頬が腫れ上がるまで殴られていたもの。
「それは……薬を盛られて……どうなったんですの?」
私は、そう聞きながら嫌な予感がしていた。
確か、ミレーは媚薬を盛られて、公爵夫人に襲われたのではなかったか?
「お茶よ。夫が、紅茶に思い入れがあるのをあなたも知っているわよね?」
私は、初めて義父母に会った日のことを思い出した。
領地のお茶を、一口飲んで質が落ちたと表現したこと――
そして、その品に思い入れがあって、きちんと農園管理をしていたことだ。
「バックミラー公爵とは、どうしても立場的に会わなければならない場面はあった。うちは侯爵だから、身分的にも全てを突っぱねるわけにはいかないものね」
「そうですね。では、お茶を飲んでしまったのですか?」
そう私が聞くと、悲しげに首を振った。
「あの人は、バックミラー公爵のことを許していなかった。だから、出されたお茶は飲まなかったの。ところがよ……そんな雰囲気の悪さを察して、飲んでしまったのがあの子。美味しいですってあの人の代わりにね。ちょうど15歳で、社交界に顔を出し始めた頃ね」
「そんなお茶を飲めば、当然変化が出ますよね?」
どうして――公爵夫人と二人きりになったのだろう?
「そうね。すぐ異変を私たちに知らせればよかった。でも、まだ社交の場にで始めた頃だもの。そして、周囲からも人気があって、女性があの子と近づきたがっていた頃だったから、あの子は、体調が悪いからトイレに行くと行って、みんなから離れたの……」
それは、ミレーの行動を考えるとよくわかる。
お茶に最初から媚薬が入っていたんだと知っていれば、すぐ周囲に相談したかもしれない。
だけど、公爵と両親の雰囲気を見て、場を和ませるためにお茶を代わりに飲んだだけだ。
その後、女性を見ていつもと違う感覚があったなら、頭を冷やそうとその場を離れて、粗相がないようにしようとする姿も想像が出来た。
「じゃあ、被害に遭った後に気づかれたのですか?」
しばらく沈黙が走る。
私は、それが答えだとわかっていた。
「そこから先は……私が話そう」
声の方を振り向くと、そこにいたのはお義父様だった。
◆
「ロッケルベンバー侯爵ご夫妻、こちらへ来てくださるか?」
そう声をかけてきたのはバックミラー公爵だった。
いつになく声が険しい。
「いえ、お話ならここで……」
ロッケルベンバー侯爵であるアルフォートは、眉を顰めた。
この男は、結婚しても、妻、アンバーに付き纏い、碌な男ではないことを知っている。
アルフォートは、思わず、妻を支える腰の手に力が入る。
「ご子息のことです。ことを荒立てたくないでしょう。私だって怒りで震えそうだ」
硬く冷たい公爵の声が耳元で響く。
「ミレーの?」
二人一緒であれば、安全か?
アルフォートは公爵の言われるまま、男女が利用することもある休憩室に案内される。
「これは……」
あきらかに情事の跡とおもわれる形跡、震える体で、ガウンをきている公爵夫人、そして、全裸でぼんやりとしているミレーだった。
「トイレに向かわれるミレー様に声をかけたらご気分がすぐれないというので、お部屋を使われたらいいですよって教えてあげたんです。そうしたら……」
シャトレーヌは震えながらミレーを見る。
「わかるな。侯爵!お前の息子がやらかした事がどんなことか!」
アルフォートは呆然とした。
妻のアンバーは慌てて、ミレーに駆け寄る。
「お母様、公爵夫人が……公爵ふじ……ん」
譫言のようにいい、体に力が入らないのか、媚薬でぼんやりしたままなのか――
一つだけ言えることは、そんな力も入らない状態で、女性を襲えることはなかったということだ。
おそらく、公爵夫人が憎き女の息子を弄ぼうとした。
ところが、息子を襲っている時に公爵にバレた。
公爵は、それを息子の瑕疵にすり替えて、揉み消そうとしているということだ。
だが――この状況だけ見れば、公爵夫人を襲ったのはミレーになる。
「あんた!この状態でミレーが襲えるわけないでしょう!」
「私がこんな子供を襲ったとでも?バカな事を言わないで!」
アルフォートも怒りで拳が震える。
ミレーに急いで服を着せ、公爵を睨みつけた。
「そう睨むな。私も妻が傷物になったことは伏せたい。ミレー殿もまだ未来のある身だ。お互い穏便にいこうじゃないか」
二人は、許せない気持ちも大きかったが、ミレーの将来を思い、多額の慰謝料を払い、彼らとその後会うことはなかった。
だが――
「マイヤー、もっと体を洗ってくれ!汚いんだ。私は汚れている!」
外では普通に振る舞うミレーだが、寄ってくる女性を自ら避け始めた。
侍女も、マイヤー以外は触れるのも禁止。
世話はマイヤーとテイラーのみになった。
皮膚が赤くなるまで、自分の汚れた体を洗ってほしいという。
あまり眠れない日々が過ぎた。
そんな姿を見たアルフォートは、苛立ちでミレーを怒鳴った。
「お前は男だろう!公爵の身持ちの悪い妻を弄んでやった。そう思えばいい。何を軟弱な事を言っている?女の数なんて、男にとって勲章のようなものだ。それをいつまでもウジウジするな。お前が遊んでやったと思え!」
「は、はい」
ミレーは、父親に従い、何事もないように外で女性と付き合おうとした。
しかし、深い付き合いは耐えられなかったのだろう。
女性が喜ぶ言葉を、本から抜粋してはそれを伝え、口説いたかと思うと、数日後にはもう別れる。
女性ときちんと関係を作ることが出来なくなっていた。
今度は、母であるアンバーが耐えられない。
「あなたは由緒あるロッケルベンバー侯爵家の嫡男なのよ。遊びならともかく、結婚のお相手になりそうな方と中途半端なお付き合いをしてどうするつもり?」
「申し訳ありません。お付き合いをする気持ちはあったのですが、やはり気が乗らなくて……私のお相手はいいと思った時期に父上と母上で決めてください。私は従うのみです」
ただ、女性と深く付き合えないことが逆にミレーの負担になったのか?
そこからは、ただ、女性と付き合うことに執着し始めた。
次から次へと、それも社交界では浮き名を流したことがあったり、男性関係が派手と言われる人ばかり――
年齢も関係ない。
時には資産の多い裕福な平民もいて、身分すら関係ない。
ただ、特徴的だったのは、付き合っても、絶対に長く深く付き合わない。
ただ、毎月、毎月、毎月……彼女を変えた。
その状況は、明らかに異様で、社交界でも女遊びが激しい男性として噂になる。
そうなると、夫婦の希望した縁組も難しく、原因も心の傷とわかっているだけに手出しができなかった。
◆
「確かに、セラフィーヌ様までは遊びだったと……ですが、セラフィーヌ様のことは真剣に想われていたと思います」
ミレーが、世に言うクズでゲスな行動を繰り返していたことは、紛れもない事実だ。
ただ、世の中の目と大きな認識の違いがある。
ミレーが、遊びと称していた本当の目的は、自分の心の傷を、その数多い女性経験の中に隠そうとしていたことだ。
公爵夫人からの被害すら、あれは自身が望んだ数多い遊びの一つだと思い込もうとしたのではないか?
「そのセラフィーヌよ……あまりにも世間の評判が悪い息子に、孤児院で慈善活動をさせようとしたら、セラフィーヌと出会ってしまう。しかも、なんかきな臭い。そう思うのに、あの子は……」
お義母様は頭を抱えた。
「今は、セラフィーヌ様が、自分を本心で愛していたわけではないことを知っています。でも、その時の想いは間違いなく純粋なものだったから、私は大切な思い出にしてあげたいと思っています」
セラフィーヌは、あんなに口も態度も悪いし、ミレーのことも私のことも良くは言わない。
だけど、ミレーが変わるきっかけを与えてくれた人だ。
そして、私とミレーの出会いのきっかけを作った人でもある。
彼女がいなければ、ミレーはまだ毎月の彼女を続けていただろう。
「セラフィーヌは息子を騙すつもりで近づいたのだから、傷のある息子を引っ掛けるのは容易だったと思うわよ。あの頃のセラフィーヌの行動を調べさせても、お金に意地汚いし、売春もしていたわ」
「売春……ですか……」
刺繍の件で、鈍感な私が気づくぐらいだもの。
お義母様から見ても、あれ?と思うことがたくさんあったのだろうと思っていたが、私が予想した以上だった。
私は、眉をへにゃっと下げた。
皮肉にも、孤児院で苦労しながらも、純粋な心を持っているように見えたセラフィーヌ様の身の上と、恵まれた環境なのに心も体も汚れていると思っているミレーが引き合ってしまった。
「あの子には、セラフィーヌには裏の顔があることは伝えたけど……公爵夫人からの被害をもみ消して、さらに追い詰めた私たちの言葉なんて聞くことはなかったの。」
ミレーのその時の気持ちを想像した。
彼は、セラフィーヌを信じたかったし、やっと心から人を愛することができたと思っただろう。
それなのに、その人が体を売っているなんて信じたくなかったに違いない。
むしろ、再び、自分を傷つけた貴族という人種が、自分の幸せを引き裂こうとしていると思ったのではないだろうか?
だけど――
これ以上、息子に傷ついてほしくないと、何とかセラフィーヌに深入りする前に別れさせようとした義父母の気持ちも理解できるわ。
私が困ったような顔をするのを見て、お義父様もため息をついた。
「いよいよ、誰かと結婚させて別れさせようかと……こちらが思っていることが分かったんだろうな。ミレーから、伯爵令嬢を妻にして家督を継ぎたいと……」
そこで、私に白羽の矢がたったのね。
セラフィーヌ様との関係は、当時のミレーにとっては、唯一の希望の光だった。
それを失わないために、彼は、貴族として存在するためだけに必要な妻を準備しようとしたのか……
「それに関しては、我が家も私も良いご縁をいただけて、感謝しています。」
でも、あの優しいミレーだもの。
私との結婚すら、ミレーにとっては、当時、心の傷を増やす行為になっていたのではないか……
だって、今も、あの頃の私に対しての態度を後悔しているんだもの。
私は、何も嫌なことはされていない。
むしろお金のために望んで嫁いで、腹黒くミレーを利用したのは私なんじゃないだろうか?
「ああ、パトリシア殿の家には事情がある事は調べて知っていた。だが、あなたの評判は悪くなかったし、抱えた負債の理由も納得できるものだった。
うちとしては、セラフィーヌと別れてきちんと家庭を築いてくれるなら……そう思ったんだ」
ところが、蓋を開けたら私たちの関係は、偽装結婚だった。
ミレーの私に対しての振る舞いは、テイラーやマイヤーを通じて聞かされていたそうだ。
更には、社交界でも、私の名前でセラフィーヌを連れ歩き、セラフィーヌは、私の代わりに、貴族のお茶会にも参加しているという。
ショックもひとしおだっただろう。
「あの、本当に私たちは、お互いに想いあっている夫婦です。過去の彼女たちは……ええと、セラフィーヌ様を除くとですが、みんな楽しかった思い出のように話されます。
きっと、ひと月であっても、きちんとミレーは、誠実なお付き合いをしたんだと思います」
私は、そう二人に伝えて慰めるしかなかった。
本当は、二人だって、元凶である公爵夫婦を殴り飛ばしたかったに違いない。
ミレーは被害者だと、声を大にして言いたかったに違いない。
でも、それが出来なかった上に、貴族の常識に囚われて、ミレーにフォローをするつもりが、どんどん追い詰める方向になってしまったのだろう。
「ミレーの元に帰ります。安心してください。絶対に、ミレーを守りますから」
私は笑顔を必死で作った。
帰ったら、ミレーを抱きしめてあげたい。
ただそれしか考えられなかった。
◇
「おかえり、パトリシア。父や母から嫌な事を言われることは……」
ミレーが、玄関で私を出迎える。
私は、馬車から降りて、そのまま走ってミレーに飛びついた。
「うぉっ!ははっ!相変わらずすごい跳躍だね。あれ?どうしたの?」
私はミレーの首筋に手を回し、ぶら下がるように抱きつく。
「本当にどうしたの?もしかして、いじめられた?それなら、言い返しにいくよ。どうしたの?」
使用人のみんながいても関係ない。
「ミレー、会いたかった……あなたと……」
もっと早くに、何だったら傷ついたその時に隣にいたかった。
例え、子供だったとしても……
私の意思をいつも尊重するのは、ミレー自身が今までに、自分の意思を無視されてきたからだったんだわ。
私の大好きなミレーの優しさや誠実さですら、彼が苦しいと叫ぶ事を邪魔するものだった。
もう、優しくなくてもいいと言ってあげたかった。
誠実さですら、捨てて良いと言ってあげたかった。
でもそうしたら、私はミレーにとって必要な人間かしら?
セラフィーヌ様を諦めて、別れたのは、妻である私に誠実でなければならないと思ったからだわ。
セラフィーヌ様に騙されたからじゃない。
もし、セラフィーヌ様がミレーを騙したわけじゃなくて、本当に二人が愛し合っていたなら……
お金に惹かれて、ミレーという人となりを見ずに結婚してしまった私こそ、悪人で、彼に不誠実だったんじゃないかしら?
「ミレー、ごめんね。私はあなたに不誠実で酷い人間なの。それでも妻でいたいの。ひどいのは私なの。汚れているのもわたしだわ。だって、貴方の優しさや誠実さを知らずに結婚したんだもの……貴方のこと、何も知らずに……ごめんね」
私は、ミレーの優しさと誠実さに付け込んで、この立場を得た気がして、それなのに誰にもミレーを渡したくないという気持ちが溢れて、ただポロポロ涙をこぼした。
「え?何があったの?とにかく一度部屋に行こうか?みんなびっくりしているよ」
ミレーは目を白黒させて、帰って抱きついたかと思えば、わんわん泣き始める私を困ったように抱き上げた。
「うーん、だいぶ改善されたけど、もう少しご飯をしっかり食べないと簡単に運べちゃうな。この細い体であの責めを繰り出すんだから、恐ろしい」
ははっと笑いながら、ミレーは私をポンポンと背中を叩く。
「ご飯も食べるわ。わがままは言わないわ。だから、ミレーは、私にだけには、わがままを言って欲しいの。もし、ミレーがその上で私を要らないって言ったら……要らないって……」
もし、ミレーが自分だけのために生きて、本当に今度こそ純粋な気持ちで結ばれる相手が現れたら、今度こそ私も身を引かないといけない。
ミレーは私を抱き上げたまま、誰も近づかないようにいい、部屋の鍵をかけた。
「さて、パトリシア。どうしてこんなに私のために頑張ってくれる君が、こんなに落ち込んで泣きじゃくっているのかな?しかも、私が君がいらないと思うわけがないよね。愛情の伝え方が足りなかった?」
ミレーは、どうしてそう思うの?と優しく理由を聞いてくる。
それが余計に苦しくなる。
どうして?
どうして、ミレーに誰も聞いてあげなかったの?
どうして、あなたは悪くないって――
あなたは優しい人だから、みんなが困らないようにお茶を飲んだだけだって伝えなかったの?
どうしてあなたは、こんなに傷ついたのにそれでも優しいの?
私は、これ以上ミレーに優しくさせてはいけないと思った。
「ううん、私は、本当は嫌な女なのよ。だって、あなたが優しい事を知っているの。誠実なこともよ。それがあなたを苦しめてきたって知っているのに、こうやってわざと泣いてあなたが私から離れられないように気を引こうとする悪女なんだわ」
「君が……悪女?」
ミレーはそういうと、ぷっと噴き出した。
すると、ミレーから急に暖かい温度が落ち、これは誰?という低く冷たい冷気が流れる。
更には、今までの声は作っていたのだと……あの初夜の時のような気持ちがない声で私に告げる。
「それじゃ、そんな泣き真似はもうやめるんだ。わざとなんだからすぐ泣き止めるよね」
冷たく冷酷な目で、私を見つめるミレーを見て、なぜか、もう私に気を遣ってないんだとホッとする。
「……やめるわ」
「……」
それなのに……あれ?
おかしいわ……
本当は優しいミレーにこんな顔させて、ミレーはまた傷つかないかしら?
わたしはどっちに転んでも酷い女だわ。
そう思うと、更に悲しくなる。
「うわあああああああん」
我慢して止めようとしたのに、次から次に涙がでて止まらない。
でも、ミレーは瞬時にいつもの顔に戻った。
そんな私の顔を嬉しそうに見て、ミレーはその涙を手で拭ってくれる。
「ほらほら、君は嘘がつけない正直者だから、悪女は無理だね。テイラーから聞いたよ。あの事を知ったってね。私は君がどんなふうに感じるのだろうと思ったんだ」
「どんなふうに?」
「そうだねえ、私に同情するか?それとも、気にしないようにと笑うかを想像したんだ。だけど、やっぱり予想は外れるね。全く関係ない君がどうして自分が不誠実だと責め立てているのかわからない。しかも、私が君から離れるって?」
私は聞いた事を全て伝えたうえで、感じた事を話した。
ミレーは私を抱きしめたままだ。
「そうだったんだ。母上と公爵のことは初めて聞いた。タブーだったから、みんなその話題を避けていたんだ。私も思い出したくなかったし……でも、なぜか自分を責めてしまうパトリシアにだけは言ってもいいかな?」
「何かしら?」
ごくっと唾を飲み込んで、私は聞く。
「私は、公爵夫人から襲われたことは今でも忘れないし、何度も、何人も女性関係を持っても悪夢として襲ってくる。でも、もっとショックだったのは、それを隠されたことだったんだ」
私は、同じことを感じていたので頷いた。
「そうよね。誰もミレーは悪くないって、嫌だったねって苦しいねってあなたに伝えてないわ」
うん、やっぱりパトリシアが僕の気持ちをわかってくれるんだねといい、ミレーは私の頭を撫でた。
「そう、私はそう言って欲しかった。公爵夫人に襲われたと伝えたのにそれを隠そうとした母も、それを女の数は勲章だと思えと言った父も……最初こそ自分を責めていたが、だんだん私は二人に怒りが湧いて、心の底から軽蔑していた。」
ミレーは冷たくフッと笑って、私の涙を拭い続けた。
「だから、セラフィーヌに惹かれたというのはあったけど、純粋にそれだけじゃなかったと思う。二人が嫌がる事をすると、どこか心が満たされる気持ちがあったように思うんだ。そして、二人が反対したからこそ、余計にセラフィーヌと結ばれたいとより思った」
ミレーは、自嘲気味に自身のことを笑うように話す。
私は、首を横に振った。
「結果は……セラフィーヌ様は、貴方を騙していたかもしれないけど、でもその恋は本当の純粋なミレーの気持ちだわ。だから、思い出をそんな風に思わなくていいの」
ミレーは私を気遣って、セラフィーヌ様との思い出も穢そうとしている気がした。
だから、慌てて止めようとしたが、今度はミレーは首を振った。
「いや、君はお金のために私と結婚して、私に対して不誠実だったと言った。それなら、私は父母の理想の結婚の形を裏切るために、関係ない君を利用しようとしたんだ。私はもっと不誠実だよ。でも、君は私とは違った。思い通りに行かなくても、私みたいに逃げなかったし、はつらつと働いていた」
「それは……お金のことがあったから……」
私は、本当に何もしていないのに、ただ支援を受けることを申し訳なく思ったのだ。自己満足のようなものだ。
「そうだよね。でも、君は、両親や周囲の期待になんとか応えようと、未来を捨てて、私と結婚した被害者だよ。君が作った借金でもないし、君一人がここで、私やみんなの犠牲になる必要もなかったはずだ」
ミレーはきっぱりと言い、だから君は汚れてないし不誠実じゃないよと、私の額に口付けをする。
「私はセラフィーヌと別れる決意をした時に気づいたんだ。君は私ととても似た境遇にいた。そして、君は過去の私と似ているんだってね。では、今の自分はどうだ?そう思った時、私は、あんなに軽蔑した公爵夫妻や父母と同じ人種になっていると気づきゾッとした」
「ミレーが?」
どこをどうしたら、ミレーがそんな酷い人種になるのだろう?
過去のミレーと私の行動を考えるが、自分はそんな嫌な思いをした記憶がない。
「弱い立場の君に、侯爵の権力と金をちらつかせた。そして、セラフィーヌに君の名前を偽らせ、何度も社交界から君の存在を消そうとした。私は、いつのまにか、自分さえ良ければ良いと思う化け物になっていた。でも、君のその手が、私の目を覚まさせてくれたんだよ」
「手?そういえば、労働者の手だといってましたね」
私は、あの頃よりは綺麗になり、整えられた爪になった自分の手を見た。ミレーはその手に大切そうに触れて、自身の口元に持っていく。
「そう、働き者の手。置かれた環境から逃げなかった手だ。もう一度、誠実な自分に戻りたいと思わせてくれた手だよ。それにね……君は無意識に何度も私を助けている」
ミレーは、私の荒れた手の上にも口付けした。
「君が、私の過去を非難しなかったことだ。セラフィーヌのこともね……何度も騙されていたんだと感じる場面はあったんだよ。君がいたから、そんな過去も笑い話に出来た」
「刺繍のことですね……」
あれから、新しい刺繍を作ってはミレーにプレゼントしている。
ミレーはたくさん作ってあげないと、大切にしすぎて、毎日同じものを使うから、大変なのだ。
贈ってあげた全てのものに洗い替えが必要だ。
「そうそう、刺繍、も、だね。ただ、あれは作られた恋愛のきっかけという意味で決定的だっただけだよ。その後の肝心の交際の中身が、もうおかしかった……」
私はあれ?と思う。
「まず、この家に連れてきてから、セラフィーヌは、君に多くの冤罪を被せようとしていた。私は例の件から、影がついているからね。それが嘘であることを感じていた」
たしかに……
紅茶をかけられたとか、刃物で怪我をさせられたとか……
そうか、ミレーは分かっていたから、私を咎めなかったんだ。
普通なら、いや、普通じゃないんだろうけど、愛人を庇うものだと思っていたから、あの時は意外だった。
「あと、セラフィーヌと結婚、もしくはそれに近い関係になりたいという気持ちに突き動かされたのは、孤児院の院長や出入りする神官から、体を不必要に触れられる恐怖を訴えられたからだ。私は、自分の過去と重なって、早くセラフィーヌを助けなければと思っていた」
「あ……」
私は、お義母様から聞かされた話を思い出し、気まずくなり下を向いた。
「セラフィーヌと結ばれた頃は、経験のある女性しか知らず、逆に初めての女性を知らなかった。
セラフィーヌに、痛くて辛い顔をされて、破瓜の血がなくてもそういう人もいるらしいと聞いたことがあったから、騙されているなんて思いもしなかった」
本当に初めてのパトリシアと夜伽をした時は、あまりに様子が違って焦ったと笑う。
「君の初めてをもらった時、セラフィーヌに騙されたことを知ったわけだけど、それ以上に、君の初めての男性になれたことと、君が私に身も心も委ねてくれる幸せが上回ったよ。だから、また騙されてたんだなと思うぐらいで済んだ」
そこまで言うと、ミレーは私の両手を握り、ミレーの胸の前に当てた。
「好きになったパトリシアが、想いを返してくれた。私の過去をそのまま受け入れて、それでも好きだと言ってくれた。だから、私も、どんなに汚れた過去があっても、君に正直に優しく誠実でいたいと思っている。君は、私の唯一の宝物だよ」
「ミレー……私も貴方が大好きよ。今の貴方も、過去の貴方も大好きだわ」
私とミレーは、唇を重ね、深くお互いに触れ合いながら、お互いの想いを噛み締めあう。
ふと、ミレーがその唇から離れ、笑いを堪えるように肩を振るわせる。
「ところで……着飾ったパトリシアは素敵だけど、涙で目はなかなかなメイクになっているし、先ほどの私の濃厚な口付けで、唇も裂けた女性に変身している。」
「へっ!」
私は慌てて鏡を見る。
ぎゃああああああっ!
なんてこと!
口裂け女が、目から黒い涙を流しているわ!
「そして、このままなし崩しにいきたい雰囲気なんだけど、君、珍しくコルセットをぎゅうぎゅうに詰めてるし……一度お風呂に入る?たまには一緒に入るのもいいよね」
ミレーは、にっこり笑っていうが……
だめだめ、このコルセットを外した瞬間、胸に大量に挟み込んだものがボトボト落ちるじゃないの!
世の中には、誠実に正直に伝えない方が良いものもあるわ。
「ひ、一人で……ゆっくり入りたい……です」
二人お風呂は楽しそうだけど、今日はダメ!
思わず私は後退りして、胸の前を両手でクロスする。
それを見て、ミレーはぶっと笑う。
「ね、そうやって思わず胸を隠しちゃうあたりが、パトリシアが正直なところなんだよね。君に悪女は無理だよ」
そう言って、優しく破顔した。
◇
「セラフィーヌ様ぁ!パトリシアです、こんにちは」
あれから、不安定だったミレーはすっかり憑き物が落ちたように落ち着いた。
あれだけ、セラフィーヌの本当の姿のことを聞いても行くんだ?
向こうのお家に迷惑かけないようにするんだよ
と顔を曇らせたミレーに送り出された私は、セラフィーヌと会わなければならない理由がある。
「んがあああああっ!あんた!何?また来たの?」
セラフィーヌが露骨に嫌な顔をするのはお約束。
「ええ、今日はセラフィーヌ様に弟子入りしたくて参りましたの」
「は?なに?愛され方でも学びたいの?ミレーに飽きられたのかしら?」
にやっとセラフィーヌの唇がほころぶ。
私は、それを見てため息をつく。
「そんなわけないじゃないですか。私たちは暑苦しいほどに、今日もラブラブです。本当は、ミレーったら私を心配して、私もついていこうかって言うんですけど、でもそれはセラフィーヌ様の旦那様に悪いのでお断りしたぐらいなんですから」
「へぇーっ、ミレーが私に会いたがって、あんたをダシにしているとは思わないの?」
「全く?だって、ミレーが愛しているのは私ですもの」
私はきょとんとする。
何が楽しくて、愛する妻の私の目の前で、過去の愛人に会いたいと思うのかしら?
セラフィーヌ様の考えはよくわからないわ。
でも、そんなことはどうでもいいのだ。
「そんなことよりも……私、皆さんの話を聞いて思いましたの。セラフィーヌ様は、私の知っている中で大概な悪女ですわ。私、毒を持って毒で制したい女がいるんです。セラフィーヌ様、私を悪女にしていただけませんこと?」
私は、セラフィーヌの知恵を借りて、公爵たちにざまあする方法を伝授してもらおうと考えたのだった。




