〈23〉我が世の春が終わるとき
〈どうしてこうなってしまったのだろう……〉
悪も初めは悪ではなかったのかもしれない。
砂田もはじめは、ただ自分勝手な振る舞いをしただけだった。
しかし、長嶺はその自分勝手な振る舞いに屈してしまったばかりに、わがままは増長し、傲慢になった。
そして砂田に異を唱える夏樹を煙たがり、執拗に姑息な手を使って夏樹をいじめ始めた。
わがままを許容したばかりに悪へと変わってしまったのだ。
そうなるともういくらエリアの長である長嶺でも砂田を抑えることは出来ない。抑えるどころか砂田に迎合し傀儡になり、夏樹をいじめる片棒を担ぐ羽目になった。
長嶺は権力を砂田に委譲してしまったのだ。
エリアSの人々はもう砂田に異を唱えはしない。
そもそもエリアで働く人々は日々の生活が出来ればそれでいい。究極の日和見主義の集まり。気骨のある者などいない。
故に人々は夏樹の二の舞にならないように、ただただ砂田に迎合し、追従した。
ほんと、はじめはわがままをただ注意しただけだった。それに対して砂田は大人げなくシカトすることしか出来なかった。
ほんと、あまりにも小さく大人げないことだった。
その大人げないシカトに大人として毅然とした態度でしっ責し、辞めさせればそれで終わっただけのことだったのに……。
社会は秩序と規律で出来ている。
そこにわがままが持ち込まれ、そのわがままを許容したとき、秩序と規律に綻びが生じる。
しかし、自浄能力があるのなら綻びを直すことも出来るが、自浄能力がなければそのままなし崩し的に綻びは大きくなり、社会は秩序と規律を失い、腐敗し、そして、瓦解する。
そう、過ちに対して、ただ、毅然とした態度をとり断固として許さないという気概をもって対処すれば、こんな大事にはならなかった。
悪が、まだ悪にならぬわがままのうちにその芽を摘んで置けば、なんてことはなかった。
こうしてエリアSは死んだ。
エリアSは砂田が生きやすい世界となり、砂田は今、まさに我が世の春を謳歌していた。
しかし、季節は移り変わっていくもの。
どんな春にも終わりはある。
その砂田の春の終わりを告げるかの如く、いや、砂田の我が世の春を追い払うために黒塗りの高級セダンが一台、エリアセンターの入り口に止まった。助手席に座っている黒いスーツを着た男が後部座席に座っている白いスーツを着た男に向かって言った。
「飯塚様、着きました」
飯塚と言われた男は腕組をし、閉じていた目を静かに開けた。飯塚はセダンの後部座席から外に出た。日差しに目を細めるも鋭い目でエリアセンターを見た。
飯塚健吾、三十五歳。
人を威圧するようなオーラを纏っている。
季節は移り変わる。
春が終われば初夏が来る。
しかし、飯塚という男ほど初夏という形容が似合わない男はいない。飯塚はまさに肌を焼き付け、命が危険に晒される。そんな危ない夏。それがこの男を形容するのには相応しい。
飯塚は運転していた一人の部下を従えてエリアセンターの中に入った。
部下が事務所のドアをノックもせず開けた。
すると事務所の中にいた長嶺と英子がびっくりした顔でドアを見た。
長嶺は事務所に入ってきた一人の黒いスーツを着た男に向かって言った。
「なんですか、急に! ノックもせず、誰なんですか!」
すると、事務所の中に遅れて飯塚がゆっくり入ってきた。
飯塚は事務所を見回した。
デスクには長嶺と英子が座っている。砂田のデスクには誰も座ってはいない。
英子は見知らぬ侵入者に畏怖の念を抱いた。
飯塚は一通り事務所を舐めるように見渡してからゆっくりと、そして高圧的に長嶺をねめつけながら言った。
「砂田って奴はお前か?」
長嶺は飯塚が纏うオーラに圧倒され、丁寧に答えた。
「いえ、違います」
「なら、お前は誰だ?」
「エリアマネージャーをしている長嶺です」
「お前が長嶺か」
「は、はい」
「なら、砂田はどこだ!」
「砂田さんは今、ここにはいません」
「仕事中、どこにいるんだ?」
「あ、いえ」長嶺は口籠った。
なぜなら砂田は倉持と吉岡と一緒にサウナの仕上げと称してサウナ小屋に行っている。砂田から「サウナはある程度使い込まないと、味わいが出ない」と言いくるめられていた。
「どこにいるんだ? 言えよ」
「あ、サウナです」
「サウナ? サウナってなんだ?」
「砂田さんが、このエリアの福利厚生の場として建てたものです」
「福利厚生の場?」
「そうです。それと来賓があった際に、来客に楽しんで頂こうと」
「ほぉ、なら、俺にサウナを楽しめって言うのか?」
「いえ⁉」
飯塚は、部下に尋ねた。
「おい、サウナを建てるっていうのは聞いているか?」
部下はタブレットを操作した。
「いえ、そのような報告は受けておりません」
「ほう、そうか。それはお前が建てると言ったのか?」飯塚は長嶺に尋ねた。
「いえ、砂田さんの発案です。でも、エリアには自主性があるということでしたので、お金もかからず作れるということだったので許可しました」
「ほう、タダで作ったのか? それを仕事中にか?」
「はい」長嶺は小声で言った。
「ほう。サウナ作りなんていう仕事を創出するぐらい、ここは暇なのか? 随分余裕だな。なら隣に立てている建物はなんだ? 随分立派なモノを建ててるように見えるが、あれはなんだ?」
「あれは新公邸です」
「新公邸? おい、そんな話、聞いてるか?」飯塚は部下に尋ねた。
部下がタブレットを見てから答えた。
「はい、報告は受けています。現在使っている公邸の老朽化に伴い、新公邸を建てるという届け出は出てます」
「そうか。なら、今、お前が使っている公邸はどこだ? どこにあるんだ?」
その問いに対して長嶺ではなく、部下が飯塚に答えた。
「ここに来る途中にあった洋館が、現在、公邸として使用しているものです」
「ああ、あのちょっとこじゃれた洋館か。ならそこでこのエリアで起こっている不正を暴くことにするか。お前も砂田を連れてそこに来い」
「不正ですか⁉」長嶺は寝耳に水のような顔をした。
英子は心当たりがあるのか動揺し、目を飯塚から逸らし俯いた。
「なんだ? なんか文句でもあるのか?」
長嶺は聞きずらそうに尋ねた。
「いえ、あの、あなた様は?」
飯塚は鼻で笑った。
「俺か? エリアマネージャーが俺のことを知らないのか? 俺も随分甘く見られたもんだ」
すると部下が飯塚の紹介をした。
「このお方は全国のエリアを統括しているエリア統括本部長だ」
「失礼いたしました!」長嶺はその場で立ち上がり、直立不動になって深々とお辞儀をした。
「砂田を屋敷に連れてこい。もっともお前も取り調べ対象の一人だからな。わかったな」
「は、はい、わかりました!」
長嶺の額から脂汗が流れた。
砂田は事務所にエリア統括本部長の飯塚が来訪したことを知らず、サウナの仕上げと称して、いつものように倉持と吉岡と一緒にサウナを楽しみ、サウナで火照った体を川で冷やし、バーベキュー場で肉を焼き、ビールで流し込んで遊んでいた。
倉持が言った。
「これで若い女の子がいたら最高なんですけどね」
砂田が微笑みながら言った。
「来るよ。これからここはどんどん変わる。いずれは最先端の施設やテーマパークを誘致して、若い女の子がここで働きたくなるようなエリアに変えて行くつもりだ」
「いいですね!」倉持は喜んだ。
吉岡が口を挟んだ。
「そんなことして、大丈夫ですか?」
「砂田さんが言うんだから大丈夫に決まってるだろ!」
「でも、長嶺さんが」
「砂田さんは長嶺さんのお目付け役だぞ。このエリアSは砂田さんでもっているんだ。そうですよね」
「そこまで言うなよ。それじゃ嶺ちゃんの立つ瀬がないだろ。そう思っても本人の前で言うんじゃないぞ」
「わかってます」倉持はニヤニヤしながら返事をした。
「これからここはどんどん面白くなるぞ!」
「期待してます!」倉持が相槌を打った。
するとそこに自転車に乗って長嶺が息を切らせてやってきた。
「砂田さん!」
「お、嶺ちゃん。どうした、ひと汗かきに来たか」
砂田は笑顔で長嶺に言うも、長嶺は顔を強張らせていた。
長嶺は腰にタオルを巻いて上半身裸の砂田たちを見て慌てた。
「砂田さん、すぐ戻ってください!」
「なんだよ。今、いいとこなのに」砂田は不機嫌そうに答えた。
「大変です! エリア統括本部長がここに来ました!」
「はぁ⁉」砂田は何のことか意味が分からなかった。
「兎に角、早く来てください! マズいです! 非常にマズいですよ! 早く着替えて戻ってください!」
砂田は長嶺の言っている意味が分からなかったが、長嶺の慌てぶりから急いで着替えた。
飯塚の来訪はエリアSで働く全ての人々の耳にも届いた。そして、砂田が罰せられるのでは、という憶測が飛んだ。
「一体、誰が砂田さんのことを密告したんだ?」
「中原君じゃないの? 中原君、砂田さんにいじめられていたし、密告して出て行ったんじゃない?」
「あり得るね」
「中原君をいじめた人は、たぶん全員、罰せられるんじゃない」
「俺、いじめてないよ! 何もしてないよ!」
「私も、そんな、中原君の事、いじめてないわよ!」
砂田に迎合し、夏樹を無視し、疎外した者たちは動揺しながらも、口々に責任逃れを言い始めた。
そして最後にはお互いに「俺たちは大丈夫だ。関係ないよ」と庇い合い保身に走った。
それを端から見ていた佐野はどこか楽しそうにニヤリと笑っていた。
洋館の執務室で飯塚はデスクの椅子の背もたれによりかかり、両足をデスクの上に乗せて組んでいた。部下はタブレットを手に持ち、デスクの横で立った。
飯塚はデスクの上にある写真立てを手に取った。
その写真立てには、長嶺と雅の結婚披露宴の写真が入っている。
飯塚はその写真をマジマジと眺めた。
「いい女だな。こんなド田舎にも、いい女はいるもんなんだなぁ」
そこへノックの音が聞こえた。
部下が声をあげた。
「どうぞ」
「失礼します」
長嶺が入ってきた。それに続いて雅も入り、最後に砂田が入ってきた。
砂田は額に汗を浮かべ、動揺のあまり目が落ち着きなく泳いでいた。
その姿は今までエリアで横暴に振舞ってきた暴君の姿はなかった。
長嶺が飯塚の前に立ち、その後ろに雅と砂田が立った。
砂田は長嶺の背に隠れるように立っていた。
飯塚は長嶺を見た。
「随分遅かったな。ちゃんと連れてきたんだな」
「はい」
「砂田という奴は、お前の後ろに隠れている奴の事か」
長嶺は後ろを振り返り、砂田を見た。砂田は長嶺の背に隠れるように立っている。瞳は動揺のあまり落ち着きなく泳いでいるのが一目でわかる。
「そいつを俺の前に出せ」
長嶺は砂田に囁くように言った。
「砂田さん、飯塚様の前に出てください」
砂田は聞こえないふりをして、その場から動こうとしない。
「砂田さん!」と長嶺が即し、砂田の腕を掴むと、砂田は反射的に掴まれた腕を払い、前に出まいとそれとなく抵抗した。
「砂田さん!」
砂田は気もそぞろ。駄々をこねることしか出来ない。
そもそも砂田はシカトしたり、人に嫌な役をやらせたり、人の影に隠れて陰湿なことをすることしか出来ないただの小心者。そんな小心者が飯塚の前に立つ勇気などあるわけがない。
それを見ていた飯塚がらちが明かないと思い、面倒くさそうに部下に命じた。
「おい、俺の前に引きずり出せ」
部下は力づくで砂田を掴み飯塚の前に引きづり出した。
引きずり出された砂田は座っている飯塚と目が合うと、飯塚の鋭い眼光に射抜かれたのか身動きが取れなくなりその場で固まった。
「お前が砂田か?」
砂田は無言だった。声が出なかったのだ。
飯塚から漂う威圧感を感じ、動くことさえ出来なかった。
砂田はまさに蛇に睨まれたカエルそのもの。
勿論、蛇は飯塚。しかもただの蛇ではない。毒蛇だ。
しかし、この蛇は獲物を仕留めるのに毒は使わない。屈強な体を獲物に巻き付け、締め上げ、獲物の骨が軋み、砕けちる音を聞いて悦に入る。そんな男だ。
飯塚は俯き、玉のような汗を額に浮かべている砂田に向かって静かにしゃべり始めた。
「たかが事務官の分際で、我が物顔して威張り散らしていたのはお前か? エリアマネージャーを傀儡にして好き勝手してきたのはお前か? 働きもせず、不正に給料を得ていたのはお前か?」
飯塚は俯く砂田を睨み続けた。
砂田は終始俯き、無言のまま唇をワナワナ震わせていた。
「それだけじゃないぞ。俺が問題にしているのは。お前が作物を横流しして、小遣い稼ぎをしていることもわかってるんだよ」
そういって飯塚はデスクに砂田の横領が書いてある上申書を砂田の前に叩きつけた。
砂田は飯塚がデスクに置いた上申書を一瞥した。
砂田は訳アリ作物を横流ししていることがばれていることに驚き、激しく動揺した。
一層、汗が噴き出し、目が泳いだ。
飯塚は完全に獲物を手中に収め、ニヤリと微笑んだ。
「俺がなぜ白いスーツを着ているか、わかるか?」
「……」砂田はとても口が利ける状態ではない。
「薄汚いところが一つもない、俺は常に清廉潔白ということだ。お前のような薄汚い奴とは違うんだよ」
「……」砂田は額から脂汗を流すことしか出来ない。
飯塚は砂田に、いや、この部屋にいる者、全てに向かって説き始めた。
「農業は国の要だ。食料自給率はその国の生命線だ。他国に依存するようでは災害や飢饉が起こったとき人々は飢える。食料を他国に依存するというのは他人に命を委ねるようなものだ。その命をこともあろうに貴様は横領した。まさに国家に対する背信行為。看過することは出来ない」
飯塚はまるで蛇のように感情が見えない冷ややかな目で砂田をねめつけ、蛇のように砂田に体を巻き付け、締め上げ始めた。
砂田は小刻みに震えながらその場から動くことも逃げ出すことも出来ず、ずっと俯いていた。
するといきなり、飯塚はデスクに乗せた足の踵でデスクを強く叩いた。
「こっちを見ろ!」
砂田はビクッとして飯塚を見た。
飯塚は砂田を射抜くような眼差しで砂田を睨んでいる。
砂田はその眼差しに怯えた。
「国家を欺き背信行為は働いた者を俺は決して見逃しはしない。お前には俺が特別に仕事を用意してやる。お前の意志に関わりなく、朝から晩までクタクタのぼろ雑巾になるまで働き、夜は泥のように眠れる仕事をな。逃げられるとは思うなよ。俺はお前を逃がしはしない」
飯塚は確実に獲物に体を巻き付け、締め上げてた。
「お前を裁くのに小細工はいらない。事実だけで十分なんだよ」
砂田はもう逃げることはできないと我が身の絶望を悟り、生まれたての小鹿のように足を震わせ、その場に失禁した。
砂田のズボンの股間がみるみる濡れ広がっていく。
その姿を見た部下が、「ああ」と声を上げた。
「おい、どうした?」飯塚が部下に聞くと、部下は砂田の股間に目を向けた。
飯塚は面倒くさそうにデスクに乗せていた足を降ろし、身を起こして砂田の股間を見た。
失禁のあとが見える。
「あ~あ」飯塚は呆れ、部下に命令した。
「おい、その小便たれ、ここから出せ。もうお前に用はない」
砂田にはもう生気はない。砂田は終わった、と誰の目にもわかる。
飯塚は抜け殻になった砂田の背に向かって言った。
「農業、舐めるな!」
砂田は飯塚の部下に引っ張られ、部屋から出された。
飯塚は前にいる長嶺を見た。
「おい、そのションベン、拭け。俺は今日、一晩ここで過ごすんだ。ションベン臭くちゃたまらんからな」
「はい」長嶺はそういって緊張な面持ちで部屋を出た。暫くすると雑巾をもって部屋に入ってきた。長嶺は床に膝をついて、砂田が床のカーペットの上に漏らした小便を必死になって拭いていた。
飯塚はその姿を見てしゃべり始めた。
「エリアは統制システムによって管理されている。エリアマネージャーはシステムでは管理できないことをやるのがマネージャーの仕事だ。それは労働者を管理することだ。わがままな人間を戒め、好き勝手させないことだ。それをお前は怠った。お前は不正を働く者に屈した。エリアに蔓延っていたいじめを戒めることも出来なかった。お前は人としておしまいなんだよ。そんな人間に人の上に立つ資格はない。こんなエリア一つまとめられないようでは使い物にならん。たとえお前がエリートでも人間なんて履いて捨てるほどいる。お前も例外ではない」
長嶺はカーペットを拭いている手を止めて飯塚の言葉を聞いていた。
飯塚は冷めた目で長嶺を見ていた。
長嶺もまた砂田と同様、蛇に睨まれたカエル。
長嶺の未来は飯塚に握られている。
「だが、安心しろ。お前でも働ける場所を用意してやる。ションベンを拭くことは出来るんだろ? なら、ここよりもずっとド田舎の辺境の国立公園の便所掃除に回してやる。人を管理することが出来なくても便器を管理するぐらいは出来るだろ?」
「……」長嶺は飯塚の言葉を呆然と聞いた。
「自分の職責も全うできないお前にはうってつけの仕事だ」
長嶺は何も言い返せなかった。飯塚に役立たずの烙印を押されたのだ。
「なぁに、どんな場所も住めば都だ。ここよりずっとのんびり暮らせるぞ」飯塚は微笑んだ。
飯塚の長嶺への審判が下り、長嶺の表情は失意に満ち溢れ、腑抜けになった。
そして、その審判を表情を強張らせて聞いていた者がこの部屋にもう一人いた。
雅である。
雅の心中は穏やかではなかった。憤りを抑えるのに必死だった。
〈冗談じゃない!〉
将来が約束されている者と結婚しろという父の言う通り、未来あるエリートと結婚したのに、希望に満ち溢れた未来が待っていると思っていたのに、待っていたのはここより更にド田舎で便所掃除をする亭主の妻の座。雅には到底受け入れらるものではなかった。
一通り、取り調べが終わり、飯塚は一人執務室でデスクに足を乗せたまま、くつろいでいた。視線を書棚に向けるとワインが置いてあるのが目に入った。
飯塚はデスクの上に乗せた足を降ろし、立ち上がって書棚に向かいワインを手に取り、ラベルを見た。
「ほぉ、これは。随分いいモノ持ってるじゃないか」
そのワインは披露宴のときに長嶺が忍からもらったワインだった。
飯塚はグラスをもってソファに腰かけワインを開けてグラスに注いだ。ワイングラスを回し、ゆっくりワインの香りを嗅いでから口に含んだ。
「うまい。このワインがここで飲めるとはな」
飯塚はワインを堪能しながら一人愚痴た。
「ったく、こんなくだらん事、やらせやがって」そういって、グラスに入っているワインを飲み干し、またワインをグラスに注いだ。
飯塚は初めからエリア統括本部長ではない。飯塚もまた国家上級試験を合格したエリート官僚だった。
七年前、飯塚は犬飼猛堂が掲げたヒューマンイノベーションに参画していた。そして猛堂に通信が発展した今、民意がダイレクトに反映する行政を提案した。首相と国民の対話型政治体制も提案し、猛堂に気に入られた。
しかし、飯塚は猛堂の息子で代議士の犬飼勇人に嵌められ尊敬する猛堂が失脚する原因を、ヒューマンイノベーションが瓦解する原因を作ってしまった。
そう、嵌められた若い官僚とは飯塚のことだ。
その後、飯塚も左遷され、生活向上庁のエリア統制本部の本部長という閑職に回された。
国営農場エリアは生活弱者や生活保護を必要とする人の厚生施設として耕作放棄地を使い誰も損せず無理なく出来る。それに生活弱者救済という大義は政府の評判に一役買う。誰の腹も傷まないことからヒューマンイノベーションの政策で唯一実現した政策であった。
「そのエリアの本部長になるのだから、本望だろう」と飯塚は自分を陥れた代議士、犬飼勇人に言われた。
日本を変えると血気盛んだった若き日の飯塚はヒューマンイノベーションと共に、猛堂共々、葬られた。
飯塚は一人で酒を飲むとあの時のことを思い出す。
「こんなところで終わるつもりは毛頭ない。必ず、あの野郎を潰してやる」
飯塚は高級ワインをやけ酒にした。猛堂がこの地に住んでいたことを飯塚は知る由もなかった。
ドアをノックする音が聞こえた。
「どうぞ」飯塚は素っ気ない口調で言った。
雅がドアを開けて入ってきた。
飯塚は少し驚いた。
「これはこれは、奥方でらっしゃいますね?」
「お邪魔ではありませんか?」
「いえいえ、暇を持て余していたところです」
雅は飯塚が座っているソファの傍まで来た。
「何か、御用ですか?」飯塚はフランクに雅に尋ねた。
「正直申しまして、夫はどうなるのでしょうか?」
「ああ、旦那さんのことですか。それなら心配には及びません。彼にでもちゃんと務まるところへ配属しますから」
「それは、田舎のトイレ掃除ですか?」
飯塚は笑った。
「心の弱い者は不正に屈する。いくら頭が良くても使い物にはならない。そういう奴は人の上に立つ資格はない。そういうことですよ奥さん」飯塚はワインを飲んだ。
「それは困ります」
「困るって言われてもねぇ」
「だって、遠くへ飛ばされたら、飯塚様に会えないじゃありませんか」
「会えないって、誰が?」
「私がです」
「いやいや」飯塚の顔から笑みが零れた。
「飯塚様と離れるなんて、なんだかとても寂しいわ」雅は飯塚が座っているソファの隣に腰掛け、飯塚の太ももに手を置いた。
飯塚は太ももに置かれた雅の手に視線を落とした。
「夫をぜひあなたの傍に置いてくださりませんか?」
「旦那さんを?」
「ええ、いろいろ教えてあげてほしいんです。飯塚様のお役に立てるように傍に置いて、色々手ほどきをしてほしいんです。飯塚様のような強い男にして欲しいんです。そして、私も飯塚様に色々教えてほしいわ。飯塚様のお役に立てるように、ぜひ」
雅は飯塚に顔を寄せて唇に唇を重ねた。
飯塚は眉一つ動かさず至って平静に受け止めた。
雅は飯塚から唇を離して、飯塚の目を見て言った。
「全身全霊、夫ともども、この身を飯塚様に捧げますわ」
飯塚は思った。
〈確かに、こんなところで埋もれさせておくにはもったいない女だ……〉
雅が飯塚から離れようとすると、飯塚は雅の腕を掴んだ。
雅は振り返り、飯塚を見た。
飯塚の気持ちを察したのか、雅は微笑み、飯塚の隣に座った。
飯塚は雅の体に腕を回し、強く抱きしめた。
さっきよりも熱い口づけを交わした。
突然、ドアをノックする音が聞こえた。
二人は顔を離した。
雅はソファから立ち上がり、飯塚から離れた。それを見て、飯塚は「どうぞ」と言った。
「失礼します」ドアを開けて入ってきたのは佐野だった。
飯塚は、雅を見た。
「君の申し出はよくわかった。まぁ、良いように取り計らっておこう」
「ありがとうございます」雅は飯塚にお辞儀をした。
「では、私はこれで」
「ああ」
雅は佐野とすれ違うも、佐野には目もくれず堂々と執務室から出て行った。
変わって佐野が飯塚の前に立った。飯塚の唇に赤い口紅が付いているのが目に入った。
〈あの女、この短時間で腹括ったか……。怖いね、女は〉
佐野はニヤリと微笑んだ。
雅は執務室から出て廊下を歩きながら一人思った。
〈こんなところで潰されるわけにはいかない。そのためにあんな男と結婚したんじゃない。私は必ず東京に行く。何もかも踏み台にしてでも東京で輝いて魅せる〉
雅はどこか覚悟を決めたのか、目が据わっている。その瞳の奥底に秘めた想いを滾らせていた。
それは忍への愛? それとも野心……。
執務室では、佐野が飯塚の前に立っていた。
「お前は?」
「私は、ここの不正をエリア統括部に報告させて頂いた者です」
そう、佐野は砂田の不正を全て察知していた。それは佐野の経験から人を嗅ぎ分ける嗅覚が研ぎ澄まされているのか、初めから砂田を疑っていた。そして、砂田が早朝に横領品を積み込んでいることもそれとなく確認し、夜は誰もいない事務所に忍び込み、英子のパソコンから横領の帳簿をUSBにコピーした。佐野にとって事務所に忍び込むことなど朝飯前のことだった。それと共にエリアSの腐敗も暴露したのだ。
飯塚は佐野を見上げた。
「そうか、お前か。こんなつまらん仕事を俺にやらせたのは」
「お手を煩わせてしまい、申し訳ございません」と言うも佐野に卑屈なところはない。
「まぁ、いい。それにしても随分若いな」
「二十です」
「そうか、二十の割に知ったようなことを書いていたな」飯塚はデスクを指さした。
佐野はデスクに向かい、自分が送った上申書を手に取り、ソファに座っている飯塚に渡した。
飯塚は上申書を手に取り、読み上げた。
「組織は秩序と規律で出来ている。ああ、それにこれが面白かった。正しき者に背を向け、不正を働く者に媚びる。随分、知ったようなことを言うじゃないか」飯塚は笑った。
「……」佐野は黙った。なぜならその言葉は夏樹の受け売り。
「まぁ、どこの世界にも似たようなことはあるってことか」
「そうなんですか?」
飯塚は佐野を一瞥するだけで、その問いには答えなかった。
「俺は、明日帰るが、近日中に、後任のエリアマネージャーをよこす。それまでここをうまくまとめといてくれ。やり方はお前に一任する」
「いいんですか?」
「構わん。お前の好きな秩序と規律をもって正せ。出来るか?」
「ご期待に沿えるよう努力します」
「なら、やれ」
「かしこまりました」
佐野は深々と頭を下げるも口元に笑みを湛えていた。
翌朝、飯塚とその部下は砂田を連れて、エリアSを後にした。
長嶺マネージャーは解任され、次の沙汰があるまで雅と共に自宅待機を余儀なくされた。
しかし、雅は長嶺にも何も言わず、人知れずエリアから消えた。
雅が何処に行ったのか、エリアの人々は知る由もなかった。




