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シカト  作者: 東京卑弥呼
23/25

〈22〉夏樹、エリアSを去る

夏樹は心の拠り所、心の充足をあの二人から得た。

エリアで受ける嫌がらせやストレスがあの二人の存在によって浄化される。夏樹は二人に会うことがたまらなく楽しくなっていた。

美和子も夏樹が日に日に明るくなる姿を見ると嬉しくてたまらなかった。

「私もみをりさんに、ぜひ会ってみたいわ」

「今度連れてくるよ。ほんと気取ったところがなく、素直で正直で、まさに天然少女という感じの人だから会うと気持ちが癒される。きっと母さんも好きになるよ」

そうみをりのことを楽しそうに話す夏樹を見るだけで美和子は嬉しかった。

しかし、悲しみは時を選ばずやってくる。

朝、夏樹は美和子と顔を合わせることなく、家を出た。

いつもなら美和子と挨拶を交わし、二言三言話すのだが、この日に限っては美和子は部屋から出てこなかった。

夏樹はまだ美和子が寝ているのだろうと思い、音を立てることなく静かに家を出た。

夏樹は、自分の働き場所である開拓地でいつものようにつるはしを手に持ち、切り株の周りを掘り起こしていた。

そうこうしているうちに正午近くになったので昼食を食べに家に戻った。

家に入るといつもなら、美和子が台所に居たり、居間に居たりするのだが、今日に限っては美和子の姿はおろか、人の気配がしなかった。

夏樹はそれとなく美和子の部屋に行った。

「母さん?」

返事はない。

夏樹はは襖を開けた。

する美和子は布団の中で寝ていた。布団は寝返りで崩れた様子もなく、真っすぐで動いた形跡もない。夏樹は寝ている美和子に静かに近寄った。

美和子の寝顔は穏やかだった。

「母さん?」

夏樹は囁くように呼び掛けた。

何の反応はない。

夏樹は美和子の顔をマジマジと見た。

寝息が聞こえない。

夏樹は布団の上から美和子の体を軽く揺すりながら、「お母さん?」と呼んだ。

美和子はずっと目を閉じたまま微動だにしなかった。

夏樹は布団をめくり、美和子の手首を握った。

冷たかった。

脈もうってなかった。

夏樹は布団の上から大きく美和子の体を揺すった。

「お母さん!」

動かない。

夏樹の目に涙が溢れた。

「お母さん!」

美和子は眠ったまま、そのまま逝ったのだ。

夏樹はただただ涙を流しながら、美和子の顔を見続けた。

昨夜、美和子は安心した。

美和子は夏樹がエリアでいじめられているのではないかと薄々感じていた。

エリアマネージャーの長嶺がわざわざ家まで夏樹に会いに来て、耕地開拓の仕事を告げたとき、美和子はそれを立ち聞きしてしまった。

美和子は夏樹に内緒で荒れ地を一人で耕す夏樹の姿を見たとき、不安は確信へと変わった。

〈私の子供がエリアの人々にいじめられている……〉

美和子は深く心を痛めた。

なんの力にもなれず、それどころか自分が足手まといになっていることが苦しかった。

それでも夏樹は自分の前では気丈に明るく振舞って見せる。そんな息子の姿を目の当たりにすると美和子は胸が張り裂ける思いでいっぱいになった。

このままでは死んでも死にきれない。

それが、みをりと出会い、また昔の明るく屈託のない夏樹に戻りつつある。美和子にとってこれ以上の喜びはなかった。

美和子は、その夜、みをりの存在をありがたく想い、感謝し、安らかな気持ちのまま永遠の眠りについた。

こうして美和子は死んだ。


夏樹は美和子の死をエリアSの人々には知らせなかった。いや、知られたくなかった。

そういうときだけいかにも憐れでいます、というような顔など見たくもなかった。

それにエリアの人々に自分の泣き顔なんて見られたくなかった。

しかし、田舎というものは広いようで狭く、美和子の死はエリアSの人々が知るところとなった。

それは長嶺の耳にも入り、そのことを砂田に相談した。

「そんなの嶺ちゃんに連絡してこないだから、こっちも知らなかったで通せばいいよ。変に行くといちいち面倒くさくなる」

長嶺もエリアの人々も誰も弔問にいかないこととなった。

夏樹は一人、美和子の葬儀をあげた。

夜遅く、一人だけ弔問に訪れた人がいた。

雅である。

それは夏樹が腰を痛めてから、初めての再会だった。

雅は美和子とは仲が良かったため自分の判断で一人でやってきたのだ。

「わざわざ来てくれてありがとう。きっと母さんも喜んでるよ」

「そんなに悪かったの?」

「いや、ここ最近は落ち着いてたから。ほんと突然だった。死因は心不全。寝ている間に亡くなった。布団は乱れてなかったからほんと苦しまずにすんだのが幸いかな」

「本当はもっと早く来たかったんだけど、なんかね」

「別にいいよ。俺も知らせなかったし、正直、見られたくなかったから」

「……」雅は黙って俯いた。

突然夏樹が穏やかな口調で言った。

「結婚、おめでとう」

雅は顔をあげて夏樹を見た。

夏樹は穏やかな顔をしていた。そのまま穏やかで優しさのこもった口調で言った。

「いい旦那さんを見つけたと思うよ。ほんと、うん。幸せにね」

それは嫌味のない友人の幸せを心から祝う言葉だった。

雅は軽く頷いた。


〈もう僕には何もない。もうここに留まる理由はなくなった……〉

夏樹はそう思うと、自然と夏樹の脳裏にみをりの姿が浮かんだ。みをりのことを思うと心が熱くなった。

〈俺は彼女と居たい。彼女と共に生きていきたい〉

翌朝、夏樹はみをりと猛堂が暮らす家を訪ねた。

みをりと猛堂が朝食を食べている最中に夏樹がやってきた。

みをりは夏樹の突然の訪問に驚いた。

「どうしたの⁉ こんな朝から。仕事は?」

「もういいんだ。それより大事な話がある」

「大事な話?」

みをりは夏樹のいつもと違う堂々とした態度に少したじろいだ。

みをりの隣で朝食を食べていた猛堂はパンを食べながら微笑んだ。どうやら夏樹の語気からみをりに会いに来た真意を察したらしい。

「僕は君と出会い、はじめて真心というものを感じた。人間は真心で生きていくんだということを君とお祖父さんに教えられた。貧しくとも清く正しく、決して虚勢を張らず、飾らず、ありのままに生きる。人間とはこうあるべきなんだと。これが人間なんだとつくづく痛感した。そして思ったんだ。僕はここで君を放したら一生後悔する。だから、君を放したくない! 君と離れたくない! 僕と一緒に暮らしてくれ! この地を離れ、三人で新しい場所で暮そう!」

夏樹は心にある想いをさらけ出して切願した。

みをりは夏樹のプロポーズにも似たストレートな想いを聞き、顔を真っ赤にした。

「そんな⁉ ちょっと美化しすぎよ」

「そんなことはない。僕は君と居たいんだ!」

みをりの顔はますます赤くなった。

「僕と一緒になっても決して豊かにはなれないかもしれない。貧しいかもしれない。けど、決して悲しい思いをさせはしない。雨も風も僕が壁になって君を守る。だから、一緒に暮らそう。新しい場所で三人で暮そう」

「いや、急にそんなこと言われても⁉」

みをりはどうすればいいのか困惑するだけだった。

「僕と一緒じゃダメか?」

「え、いやぁ、あまりにも唐突すぎて何て言えばいいのか」

みをりは終始戸惑っていると猛堂が口を挟んだ。

「一緒に暮らすと言えばいいじゃないか」

「お祖父ちゃん⁉」

「いいじゃないか。これぞまさに天啓。いい機会だ」

「お祖父ちゃん⁉」

「俺はみをりをここにつき合わせていることにずっと気が咎めていたんだ。このまま若い時分をこんな年寄りと一緒に隠遁生活を送らせてることにずっと気を病んでいた。それをよく言ってくれた!」

猛堂を見えにくくなっている目を夏樹の方に向けた。

「みをり。この人は思いの丈を正直に話してくれたんだ。この人はお前のことをよくわかっている。俺は気に入ったぞ! みをりが惚れなくても俺は惚れた! こいつはいい男だ!」猛堂は豪快に笑った。

「お祖父ちゃん!」みをりは困惑しっぱなし。

「いや、今日は良い日だ! 実に良い。そして、面白い! こんなに清々しい気分になったのは久しぶりだ。とても気持ちがいい!」猛堂はまた笑った。

みをりは終始困惑の顔だが、夏樹は猛堂が賛成してくれたことに一先ず安堵した。

みをりはその日は返事はしなかったが、次の日、みをりは夏樹の想いを受け入れた。

その理由としてみをりは猛堂と話したが猛堂が夏樹を強く推したのだ。

「みをりがついていかなくても俺はこの人についていく」と訳の分からないことを言う始末。

 返答するのに時間をかければ何かが変わるわけでもなく、猛堂に夏樹と共に行くのか行かないのか即決しろ、と言われた。

結局、みをりはどこか猛堂に押し切られたように感じたが、みをり自身、夏樹には好感をもっていたので、これも何かの縁と不思議と開き直ることが出来、決めることが出来た。

そうと決まるとみをりは三人で新しい場所で生きていくということに期待に胸を膨らませた。


夏樹はみをりの了承を得て、家に帰る道すがら、開墾していた開拓地に寄った。

夏樹はつるはしが置いてある切り株に座り、荒れ地を一望した。

「新しい場所に行っても豊かになれないかもしれない。貧しくて慎ましい生活しか送れないかもしれない。けど嘘はない。人は謙遜し、譲り合い、歩み寄り、他人の気持ちを慮る。だから人間なんだ。見栄や虚栄心、欺瞞が蔓延するこんな小汚い世界とはおさらばだ。あんなぞんざいで、姑息で、よこしまな連中とはもう終わりだ」

夏樹は歯を食いしばり悔し涙を流しながら強引に微笑んだ。

それから間もなく、夏樹はこの地を去った。

みをりと猛堂と共に新しい場所へ。

夢と希望だけを持って。


夏樹がこの地から消えたことは、やがてエリアSの人々の知る処となった。

それを知った砂田は気が楽になったのか、自然と笑みが零れた。なぜなら、たとえエリアのみんなにハブにされ、エリアの隅に追いやられても、自分に反目する唯一の相手だっただけに気にはしていた。

しかし、その相手が自らこのエリアSを出て行ったのだ。

それを改めて倉持から聞くと「そうか」と一言だけ、気のないふりをするも内心は嬉しくてたまらなかった。

その喜びを代弁するように倉持がしゃべった。

「なんだよ! 結局、耕地開拓を放棄して逃げたのかよ! やっぱあいつは、ほんと自分勝手で無責任なガキですよ」

そういって倉持が夏樹をなじると砂田は嬉しくなるも平静を保ちながらポーカーフェイスで言った。

「俺は初めからわかっていたよ。あいつはそういう奴だってね。だが、もう考える必要はない。もう終わったことだ」

「そうですね。頭痛の種が消えたんだからいいんですかね」

「そうだよ。これからこのエリアSはどんどん変わっていくんだから」

「楽しみですね」

「これからも手伝ってくれよ、な」

「はい」倉持は元気よく返事をした。

「じゃ、とりあえず、サウナで身も心もさっぱりするか!」

「お、いいですね!」

「お前たちも行くか?」砂田がそこにいる吉岡と佐野に言った。

「行きます」と吉岡は言うも佐野はちょっと用事があるといって断った。

それに倉持が噛みついてきた。

「用事ってなんだよ」

「いや、ちょっと野暮用です」佐野は苦笑してその場を誤魔化した。

砂田、倉持、吉岡はサウナ小屋に行った。

佐野は退社してから自転車に乗って夏樹の家に行った。

夏樹の家に着くと佐野は念のため家の呼び鈴を鳴らした。

返事はない。

倉持の言う通り誰もない。

玄関前に自転車が二台置いてあった。佐野はそのまま開拓地に向かった。

誰もいない切り株だらけの荒れた土地。

佐野は無造作に置いてあるつるはしを手に取り、眺めてからつるはしを振り上げ、木の根っこに振り下ろした。

つるはしは木の根に刺さった。

「これをやり続けるのは、結構、きついな……」

佐野は切り株に腰かけて荒れ地を眺めた。

夕陽で荒れ地が橙色に染まっていく。

すると何か妙案が浮かんだのか、佐野はニヤリと微笑んだ。

「全く、俺って奴は……」

そういって口を閉じたまま声を殺して微笑んだ。

奇しくも佐野が不敵に微笑んだ場所は夏樹が悔し涙を流しながら強がって笑った場所だった。



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