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シカト  作者: 東京卑弥呼
21/25

〈20〉山に住む謎の老人と少女

サウナ小屋が完成したが、その小屋を作るために木を伐り出した切り株だらけの荒れ地の整地は全く進んでいるようには見えなかった。

一つの切り株の周りにつるはしで掘られている跡はあるも、それだけだった。

木の切り株を掘り起こすことは容易なことではない。

それでもエリアSにとっては一向にかまわない。

そもそもこの耕地開拓という仕事は夏樹を除け者にするための名ばかりの仕事。

砂田たちのサウナ小屋作りという遊びの尻ぬぐい。

しかし、夏樹は十分だった。

母の看病をすることが出来る。給料は不当に減給されるも食べ物はエリアセンターに行けば訳アリ作物がもらえ、食うに困ることはない。

夏樹は生活出来ればそれでよかった。

それに最近、母の体調も良くなり、少し動けるようになったのも夏樹には嬉しかった。

エリアからは孤立しているが、ストレスは軽減され、母も良くなってきている。物事がいい方向へ進んでいるのではないのかと前向きに捉えることが出来、気分も良かった。

そんな気分のいい晴れ晴れとした日のことだった。

夏樹は母に何が食べたいか尋ねると魚が食べたいというので夏樹は渓流に釣竿を持ってマス釣りに行った。

天気も良く、渓流も水面が日差しでキラキラ光っている。

夏樹はいつもならさほど上流には行かないのだが、川のせせらぎにどこか心まで洗われたのか足取りも軽やかに自然と上流に向かっていった。

「こんなに気持ちのいい日、久しぶりに滝にでも行ってみるか」

夏樹は釣竿を垂らすことなく上流にある滝に向かって弾むように進んでいった。

渓流の上流にある滝は幅十メートル、高さ七メートルほどのそよ風になびくカーテンのように穏やかに流れ落ちる滝がある。その滝の下には浅瀬の溜まり場が広がっている。この地で最も美しい場所ではあるがエリアからはかなり離れていて、エリアの人々は地元ゆえにまず足を運ぶことはなかった。

夏樹も数えるほどしか行ったことがない。

しかし、今日は違った。

穏やかな陽光と川のせせらぎに誘われて、滝の下の溜まり場で釣りをしようと思った。

滝にたどり着くと既に先客がいた。

遠目から見ても明らかに少女とわかる。少女は長ズボンを膝までたくし上げ、Tシャツを着ている。

水面が陽光に照らされ、キラキラ輝きの中に少女はいた。

少女は右手に釣竿を持ち、頭上で釣竿をリズムよく前後に振っている。フライフィッシングである。

フライフィッシングとはラインという釣り糸より少し太く重さがある釣り糸のことをいい、ラインの次に透明な細い糸がついていてその先にフライと呼ばれる虫に似せた毛ばりという疑似餌が付いている。

釣り方は、釣竿を頭上で前後に振ると釣り糸より重さのあるラインが空中で前後に振られ、毛ばりを落としたいポイント、水面に落とす。するとその毛ばりを魚が虫と間違え、食いついてくる。そのフライフィッシングを少女はしていた。

輝く水面の中で釣竿を前後に振り、オレンジ色のラインを空中で操る仕草はとても様になっていてカッコ良かった。

少女は毛ばりをポイントに落とし、魚が食いつくのを待つもアタリはない。

少女はため息をつき、釣竿についてあるリールを回して、ラインを巻き取った。

その一連の所作を見ていた夏樹が少女に話しかけた。

「上手いですね」

少女は夏樹の方を振り向いた。

「上手くないです。今日はまだ一匹も釣れてませんから」

「いや、そのフライフィッシングの姿がなんとも堂に入ってて、遠目から見てもカッコいいです」

「カッコだけです」少女は微笑んだ。

少女も浅瀬から夏樹の方に向かって静かに歩き出した。

お互い会ったこともない初対面。

少女は華奢で髪が短く、顔にそばかすがあり、決して美少女ではない。

しかし、佇まいは堂々としていて、凛とした印象を受けた。

「釣りに来たのですか?」

「ええ」

「今日はダメです。魚影も見えませんから」

「あなたもここに、釣りに来たのですか?」

「はい」

夏樹は初対面の少女に伺うように尋ねた。

「初めて会うと思うのですが、ご両親はエリアで働いている人ですか?」

「いえ、違います」

少女は初対面の夏樹に物怖じすることなくはっきり答えた。

「じゃぁ、ここら辺の人ではないのですね?」

「いえ、ここら辺の人です」

「確か、二三年前かな。この山で自給自足しているお爺さんがいるって聞いたことあるんですけど、もしかしてそのお爺さんのご家族か何かですか?」夏樹は思い出したように言った。

「はい。そのご家族か何かです」少女は嫌味ではなく、屈託のない笑みを浮かべて答えた。

「あ、ごめん」

「いいですよ」

夏樹は少女の足元にある魚籠を見た。空っぽだった。

「ね、何も入ってないでしょ」

「でも、上手いよね」

「何が?」

「これ」夏樹は頭上で釣竿を前後させフライフィッシングの仕草をした。

「そうお」。

「そのフライフィッシング、僕にもやらせてくれる?」

「いいよ」

「コツとか、なんかあるの?」

「そうね。空中で鞭を振るようにこのオレンジの糸を絡ませないように三、四回前後に振って、ポイントめがけて毛ばりを落とす。そんな感じかな」少女は鞭を振る仕草を交えて夏樹に答えた。

「なるほど」

「自己流だから」少女は微笑んだ。

「ちょっとやってみるよ。せめて釣れないのなら今日はフライフィッシングを体験しよう」

「数投げれば、自然とコツがわかるよ」

夏樹は思い出したように言った。

「あ、僕は中原夏樹。よろしく」

「私は犬飼みをり。こちらこそよろしく」

夏樹はみをりからフライフィッシングの手ほどきを受けた。

夏樹は竿を持ち空中で前後させた。左手に弛むようにもったオレンジ色のラインを少しずつ手から離しながら、空中を舞うラインを伸ばし、水面めがけて毛ばりを落とした。

毛ばりを水面に漂わせていると、突然、毛ばりに魚が食いついた。

アタリが釣り糸に伝わり、手ごたえを感じた。

夏樹は「あっ」と思わず叫び声を上げた。

傍で見ていたみをりが夏樹に声をかけた。

「釣れたの⁉」

「そうみたい」夏樹はゆっくりリールを巻いた。

二十センチほどのヤマメが釣れた。

「釣れた!」夏樹は無邪気に喜んだ。

「ビギナーズラックね。それとも筋がいいのかな」

「先生がいいんだよ」

「そうお」みをりは満更でもない表情をした。

「でも、フライフィッシングって面白いね!」

「面白いよ。毛ばりだって落ちている鳥の羽を使って作ってるんだから。お手製だからね。自分で作った毛ばりで釣れると喜びもまたひとしおよ」

「そうだろうね。自分で作った毛ばりで釣れたら最高だろうね」

「でしょ!」みをりは屈託のない笑顔を見せた。

夏樹は自分でも気づかぬうちに、昔の人見知りしない社交的な性格が顔を出していた。それはみをりが人見知りしない性格だったからかもしれない。

それに呼応するように夏樹も自然と打ち解けることが出来た。

犬飼みをり、十八歳。


結局、この日は夏樹のビギナーズラックの一匹しか釣れなかった。

「結局、一匹しか釣れなかったね」

「でも、フライフィッシングは面白かったよ」

「家にマスの干したのあるから、あげようか?」

「いいよ」夏樹は断った。

「いいわ。あげる。ヤマメ一匹じゃ、夕べのおかずにもならないよ。寂しすぎる」

「いいの?」

「いいわ。うちには十分あるから。着いてきて」

「ここから近いの?」

「そんなに遠くない」

夏樹はみをりの後について歩いた。

二人は森の中に入って行った。

その道すがら夏樹はみをりとありがちな話をした。

「君はずっとここにいるの?」

「どうして?」

「だって十八でしょ。十八っていったら、みんな都会に行きたがる」

みをりは無邪気に声を上げて笑った。

夏樹はみをりを見た。

「可笑しい?」

「可笑しいよ」

「どうして?」

「だって、それはみんなであって私じゃないわ。私はここでいいの。それにお祖父さんもいるし」

「……」

「お祖父さんは昔、東京にいたことがあるの。そこで色々あったみたいで。それで人間関係に嫌気がさして、ここで隠遁するようになったの」

「みをりさんはそのお祖父さんについてきたんだ」

「ついてきたというか、自然とお祖父さんと暮らすようになったの」

「そうなんだ」

「それに、お祖父さん、最近、目が見えなくなってきているから心配だし。だから私はお祖父さんと一緒にいるの」

「目が見えにくいんじゃ大変だね。ならエリアで暮らせば? 少なくともエリアで暮せば最低限の生活は出来る」

「それも、どうも嫌みたいで。なんか人はもう沢山だって。お祖父さんが言うには目が見えにくくなったけど、その分、人の外見や外面に騙されることがなくなったって。人の本質が見えるようになったっていうの。心の目で人を見るようになったって。だから、ここで、エリアの人々と暮らして、もし嫌な思いをするようなことがあったら、人間関係が嫌になって東京から出てきたのに本末転倒でしょ。人の愚痴を言ったり、悪口を言ったりするようになるのはもう沢山だって。だから、国やエリアに頼らず、ここで静かに暮らすっていうの」

「じゃ、君はそのお祖父さんのためにここにいるんだ」

みをりは首を振った。

「そんなことないわ。お祖父さんは常々、私に都会に出るように勧めてくるわ。都会に出て見聞を広めて来いって。自分のことを心配する必要はないって。でも、私、そもそも都会に興味ないのよね」

「そうかな。行けばきっと楽しいと思うよ」

「いや。私なんかが都会にいっても、きっと馴染めないし、それにまず相手にされない」

「そんなことないよ」

「いやいや。私なんか別にこれといった取り柄もないし、それに可愛くもないから。都会に行っても粗末に扱われて疲れるだけだわ」みをりは微笑んだ。

「別に都会は美人が行くところじゃないよ」

「おい! それじゃ、私がブスだって言うの!」みをりは冗談っぽく言って夏樹の腕をぶった。

「いや、そんなこと言ってないよ」夏樹は取り繕った。

みをりは虚空を見て笑った。

「わかってる。でも、私には場違いなところよ」

「そんなに外見、気にしてるの? 外見って案外、本人が気にしてるほど人は気にしないよ。それにお化粧したり着飾ったりするれば十分変わるでしょ。都会の女性はみんな、そういう風に変えてるんじゃないかな。ここみたいに、すっぴんでは出歩いてないと思うよ」

「私、そんな見た目なんて気にしてないよ。そもそも都会の水が私には合わないってこと。きっと心が付いていかないと思う。だからこのままでいいの。それにもし都会に行ったら、きっと寂しい思いをする。だからいいの。私に都会は合わない。所詮、場違いな場所。お祖父さんと静かにここで暮らせればそれでいいの」

この何気ないみをりの言葉が夏樹の心に響いた。

夏樹の脳裏に一つの言葉が浮かび上がった。


〈謙遜〉


夏樹は、自分の脳裏に浮かんだその言葉に、自分自身、強い衝撃を受けた。そして悟った。

人は謙遜するものなんだと。

ここのエリアの人々には、その謙遜もなければ謙虚さもない。ただ幅を利かせる者に迎合し、付従うことしか出来ない日和見の集まり。平気で人を誹謗中傷し、いじめ、嘲笑うことも厭わない。見栄や驕り、慢心、虚栄心、そんなものばかりが蔓延している。厚顔無恥の集まり。

しかし、彼女は違う。

彼女の謙遜はおそらく本心。決して建前ではない。嘘のない真から出ているものだ。

これが人間だ。

人間のあるべき姿だ。

夏樹はただただ自分自身で気づいたことに衝撃を受けた。

本来なら、謙遜という行為自体、衝撃を受けるものではないのかもしれない。

普通のことなのかもしれない。

しかし、その普通がここにはない。

夏樹がいる場所は、正しき者に背を向け、不正を働く者に媚びる。そんな世界で生きていると至極当然のことでさえも崇高なものに感じてしまう。それほど夏樹の心は傷つき荒んでいた。

それだけにみをりの飾り気のない本心は夏樹の心を癒した。こんなに心が癒されたことは今までなかった。生まれて初めての経験なのかもしれない。

夏樹はこのまま、いつまでもみをりと話していたいと素直に思った。みをりのことがもっと知りたいと。

するとみをりが足を止めた。

「どうしたの?」

「ここで待ってて。お魚持ってくるから」

「別にいいのに」

「何言ってんの。ここまで来たんだから持って帰りなさいよ。ちょっと待ってて、取ってくるから」

そういってみをりは森の中を小走りに走っていった。

夏樹はその後姿を眺め続けた。


その日は、みをりから干したマスを貰い、美和子にみをりと出会ったことを話しながら食べた。

美和子は夏樹が明るく楽しそうに話す姿を久しぶりに見たのか、それが嬉しいのか終始笑顔で聞いた。


それから、夏樹とみをりは、滝のほとりで会うようになった。

お互い年が近い話し相手が欲しかったのもあったのかもしれないが、何より夏樹がみをりと会いたかった。

夏樹がエリアセンターから訳アリ作物をみをりたちの分まで持ってくるよ、と持ち掛けると、みをりはそれを断った。

どうやらみをりはエリアとは別に点在する農家と物々交換をして生計を立てているらしかった。

「なぜ、エリアには行かないの? エリアに行けばもっと沢山、いろんなものが手に入るよ」

「エリアには偉い人がいるから。それに家族で小さな農場を切り盛りしている人はみんな優しいから」

「そうだね。あのエリアには近づかない方がいいかもしれない」

「そうなの?」

「わからないけど、難癖付けられて、いいように丸め込まれて今の生活が奪われてしまうかもしれない」

「エリアで働いてるのに、随分ネガティブなこと言うのね」

「働いているっといっても、実は俺、一人でエリアとは離れた場所で働いているから」

「そうなの?」

「でも、一人で働いてる分、自分のペースで仕事ができるから気は楽だよ。そういう意味ではみをりちゃんたちと変わらないよ」

「じゃぁ、今度、物々交換しようよ」

「いや、物々交換するようなものは作ってないんだ」

「何作ってるの?」

「そうだなぁ。農地かな」

「農地?」

「そう、農地を一人で作ってる」

「ふ~ん」

「もし、その農地が出来たら、そこに花を植えるつもりだから、花と交換しよう」

「お、いいね」

「でも、随分先の話だから気長に待ってて」

「いいよ」みをりは微笑んだ。

耕地開拓という名の嫌がらせに、母の看病と気持ちは決して上がらない。

しかし、夏樹はみをりと会うことで、心の安らぎを感じるようになり、こんな生活でも楽しく過ごすことが出来た。


それから暫くたって大雨が降った翌日のことだった。

夏樹が一人、開拓地でつるはしで木の切り株と格闘していると、そこにみをりがやってきた。

「ほんとに、一人で働いてるんだ」

「働いてるといっても、ご覧の通り、お花畑には程遠い」

切り株だらけの荒れ地は、切り株を取り除くために所々、根に向かって穴が掘られていてとても耕地開拓をしているようには見えない。

「ほんと、一人で。しかも人力じゃ無理なんじゃない?」

「俺もそう思ったけど、昔の人は、人力で荒れ地を耕したと思えば、出来なくもないかなと思って」

「お、前向きだね」

「こうやってさ、木の根っこを分断してしまえば、いずれ、根も腐り、ボロボロになって、切り株も取りやすくなるんじゃないかなと思って」

「手伝おうか?」

「いいよ。女の子には酷な仕事だよ。それよりどうしたの? 何かあったの?」

「ちょっとお願いがあってね」

「お願い?」

「仕事が終わったらでいいの。でも日が暮れないうちに来てほしいんだけど」

「今行くよ」

「いいの?」

「いいよ。どうせ一人だし。あってないような仕事だから」夏樹は荒れ地を見た。

「じゃぁ、お願いしようかな。着いてきて」

夏樹はみをりに連れられていった。

渓流を上流に向かって歩き、途中から森の中へ入って行った。

「滑りやすいから気を付けて」

「わかった」

昨日の雨のせいで地面が緩く、滑りやすくなっている。

足元を気をつけながら進んでいくと少し開けた場所に出た。

そこに小さな家があった。

「こんなところに家があるなんて……」

「もとは東屋だったんだ。それをお祖父さんと私でなんとか住めるようにしたの」

その東屋はエリアで公邸として使われている洋館を建てた豪商がこの山奥に東屋を建てたものである。みをりたちが住むまで百年もの間、ずっと放置されていてた。

現在は、みをりたちがその東屋に雨風をしのぐために壁を作り小屋になっているが、あばら家に人が住んでいるという感じは否めないみすぼらしい家である。

みをりははにかみながら小声で呟いた。

「本当は、見られたくなかったんだ……」

「そんな卑下することないよ。僕の家だって、もとは空き家だから」

「昨日の大雨で屋根からの雨漏りが酷くて。それで一緒に雨漏りの修理を手伝ってほしいの」

「わかった」

みをりは家の中に入った。

続いて夏樹も入った。

「お邪魔します」

家の中に入ると時の豪商が建てただけあって、六角形とお洒落な作りになっていた。広さは八畳ほどだが広く感じる。

その部屋の真ん中に机があり、みをりのお祖父さんが椅子に腰かけ、蔓を束ねて紐を作っていた。

「お祖父ちゃん、助っ人連れてきたよ」

「あなたがみをりの友達かい?」

「中原夏樹といいます」

「今日はすまんね。よろしく頼むよ」

「はい」

夏樹はみをりのお祖父さんをジッと見た。

〈あれ、どこかで見たような気がする……〉

それもそのはず。

ニュースを見る人々ならほとんどの人が見たことのある老人……。



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