第21話:開戦前夜
それは、夏の盛りのある日だった。
ルミナス要塞の観測所から報告が上がったのは、昼下がりのこと。
「南方街道の地平線に、旗が見える!」
兵たちがざわめき、塹壕の中を伝令が駆け抜けた。
オレが高台に登ると、霞む陽炎の向こう、山岳の切れ目から幾重もの旗がゆらめいているのが見えた。
黄金の双頭鷲——ムナリス王国の軍旗だった。
老いた国が、ようやく牙を剥いた。
もっと早く来ると誰もが思っていた。
だが、派兵の決定は遅れに遅れた。宮廷では老齢の貴族たちが権益を巡って争い、討伐軍を率いる将軍の任命ですら揉め続けていたのだろう。
「どうせ辺境の反乱など大軍を送らずとも鎮圧できる」
そんな油断が、さらに遅延を招いたとも既に噂で聞こえている。
だからこそ、この日まで人々は待ち続け、祈り、備えを固めることができた。
——オレ達は遂に間に合ったのだ。
だが、軍旗を翻して現れた彼らは、すぐには攻めてこなかった。
幾千の兵が道を埋め尽くしているのが見える。槍の列、盾の光、後方には砲列と思しき荷車も連なっていた。
しかし彼らは街道を進軍しつつも、要塞の手前で野営を始めたのだ。
「……なぜ止まる?」
兵たちがざわめく。
観測所から伝令が走り、報告がもたらされた。
「敵軍、要塞手前三里で陣を敷いております! 進撃の気配なし!」
その光景は、かえって人々の胸を締め付けた。
要塞の砦門の内側では、農夫上がりの兵士が小銃を握り締め、歯を鳴らしていた。
「来るのか……来ないのか……」
傭兵たちでさえ、緊張を隠せなかった。
「ちっ……奴ら、俺たちを焦らしてやがる」
リオナは医療壕の前に立ち、胸に手を当てていた。
「戦いが始まるよりも、この緊張の方が人を壊す……」
彼女の呟きは痛切だった。
オレはアリシアと共に、要塞の観測塔に立った。
遠方に広がる野営の焚き火の列は、夜になると赤い帯となって街道を埋め尽くした。
まるで炎の川がこちらに迫っているかのようだった。
「ムナリスは、侮っているんだ」
オレは低く呟いた。
「要塞なんて旧い戦術、ゆっくり攻めかかれば早晩降伏すると……そう思っている」
アリシアは頷き、しかしその横顔は静かだった。
「でも、だからこそ機会になる。彼らは油断している。その慢心が、きっと勝敗を分ける」
夜風が強く吹き、要塞の旗がはためいた。
兵たちは塹壕で眠れぬまま夜を明かし、耳を澄ませては遠くの馬の嘶きや鼓音に怯えた。
子供を抱いた女たちも、焚き火の影で祈りを捧げていた。
——開戦はまだ訪れない。
だが、その緊張はすでに戦の始まりと同じだった。
ルミナス要塞にとって、この夜こそが「開戦前夜」だったのである。




