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夜に爆ぜ朝を食い尽くせ  作者: 蜂月ヒル彦
第一章 新宿編
17/18

17話 とある死神:夏の記憶と対話

⚠️ この話には、自死の匂わせや死神が人間を食べる等、残酷な表現が含まれております。恐れ入りますが十五歳未満の方、グロ表現が苦手な方は閲覧をご遠慮下さいませ。


※2026年の加筆修正で以前より文字数増えております。

 (せみ)が鳴いていた。


 今にも俺の耳を(つんざ)かんばかりにジリジリとけたたましく鳴く、あの声はアブラゼミだ。


 確か——日本に広く分布してはいるが、沖縄には居ないとか言うやつ。全国的に分布しているにも関わらず何故、沖縄には居ないのだろう。

 まあ俺はただの下級死神で、昆虫博士でも何でもないので原因など分かる筈も無いが、やはり通年の暑さに問題があるのだろうか。


 そう言えばヒートアイランド現象とか言う言葉が取り沙汰されるより以前から、俺の耳には蝉の鳴き声は減少していたように思う。人間同様、蝉も気温によって生き易さが変わるのかもしれない。


 そう考えると、多少気温が上がろうとも日々労働し、繁殖し続けている人間はやはり逞ましいの一言に尽きる。下級死神(おれたち)が必要になる程、数が増えたのも納得がいく。


 いや、全ては仮定だし、そもそも突き詰めたいと思う程の興味がある訳でも無い。

 興味も無いのに俺がこうして思考の風呂敷を広げてしまっているのは、単純に死神と言うやつが全般的に長生きなせいで、どれだけ興味が無くとも大体の事を大雑把に憶えてしまうから、と言うだけの話だ。これぞ広く浅くと言う、やつ——。


 不意に、暫く大人しかった蝉が俺の考えを遮るように、一際大きな音で鳴いた。近くに居るのはコンリートの壁にひっ付いている一匹だけだと思うのだが、その音量は合唱団に耳元で歌われているのと同じくらい煩く、無意識に眉間に皺が寄る。


 やめろ、そんなに騒ぐな。

 まあ、だが、確かにお前の言う通りだ。呑気にこんな事を考えている場合ではないよな。

 俺は俺の仕事をしなければならない。生まれた瞬間から決まってる仕事だ。毎日毎日やってる、やつ。


 俺は、ビルの上から落ちて来たばかりの、女の肉体を見下ろした。いや。ずっと見下ろしていた。


 女はビルとビルの間の細い路地の途中で、灼熱のコンクリートの上に不自然な形で折れ曲がり、倒れていた。


 失敗した折り紙。フライパンの上でじゅうじゅう焼かれる卵。咲いてすぐ踏まれた月見草。


 俺が例えるならそんな感じだ。

 いずれにせよ、命の鼓動は感じない。

 

 死亡予定通り息絶えた、うら若く華奢な女。

 そして外からは見えないが、人の拳くらいの大きさの子供が、腹の中に居るのを俺は知っている。そう書いてあったからだ。

 

 俺のような底辺には、死ぬ人間の事情まで知らされる事は基本的に無い、が——若い身体に赤子が宿った状態で死んでいるのだ。俺がどれだけ人間の機微に疎くても、何となくの事情は察せてしまう。察したところで俺には関係無いが、人間はどうして繁殖の機会を得ても、それを自ら壊すような真似をする奴が居るのかと少し不思議には思う。何があったにせよ、生物としての倫理に反しているだろう?


 ああ、こんな事を滔々(とうとう)と考えている場合ではない。早くしないと、他の人間が来てしまう。


 また鳴いている。アブラゼミ。

 分かってる。分かってる。


 人間は死と言う自然現象に大袈裟に反応する。死への異常な恐怖も、奴等の本能的生存戦略の一つだし、今更否定するつもりは無い。だが死を目の当たりにした人間の反応は、蝉の鳴き声なんかよりもずっと喧しい。

 だから俺は、いつも、手早く魂を回収すると言う仕事を済ませて、さっさと帰る。


 そう、いつもは。


 ジリジリジリジリ、いつまでも鳴くのを止めないこのアブラゼミが、俺を嘲笑う。

 煩い。分かってる。分かってるんだ。

 この場から、早く、一刻も早く去らなければいけない事は、分かってる。この女の魂を肉体から完全に分離してさっさと去りたい。そう思っている、俺だって。

 

 なのに、今日は身体が、この場から動かせない。


 否、動かせないのではない。いつもと同じくお喋りで忙しない脳内に反して、視線が、逸らせなかったのだ。

 女のひしゃげた肢体(したい)から、割れた肌から流れる血から、瞬きもできない虚ろな眼から、逸らす事が。

 

 ——ぽた。


 不意に何かが、自分の顎から地面に落ちて、咄嗟に腕で拭く。

 汗と混ざった大量の唾液で、袖が、濡れていた。


「何で?」


 たったそれだけの、しかし重大な疑問が口から零れた。


(いて)っ」


 突然、脳味噌が(ねずみ)か何かに一口齧られたような痛みが、ちくりと走った。すると(せき)を切ったように耳鳴りが俺を襲う。蝉の声が遠退き、自分がまともに立てているのかどうかすら分からなくなる。


「煩せえな! 分かってるよッ!」


 遠退いた筈の蝉の声に、気付くと俺はそう叫んでいた。もしかすると、この時の俺は別の声が聞こえていたのかもしれない。


 動悸と耳鳴りに押し潰されるように、俺は地面に膝と手を着いた。


 そのまま倒れ込みそうになったが、死んだ女の顔が先程より近くに見えると、瞬間的に痛みが去る。

 同時に、己の全身が脈打つように震えた。

 俺は絶え間なく流れ出る唾液を拭う事もできず、口から溢れたそれが、女の髪を濡らす。一瞬だけ忘却した痛みが再び俺を襲うが、初めの噛まれたような痛みはもう無かった。


 自身の身体に異常が起こっている。俺はそう確信した。


 これが小さな異常なら、別におかしな事はひとつも無い。何故なら上級死神と違い、完璧な下級死神など一人として居ないからだ。多少欠陥がある方が正常とも言える。ましてや頭痛など、異常とは呼べない。

 だが明らかな異常がひとつ、絶対に無視できない明確な異常が、現時点でひとつだけあった。


 『下級の死神である自分が、自身で制御できない渇望を抱いている』


 これは多少の欠陥どころではない。仮に商品として考えるなら即廃棄レベルの欠陥だ。


 死神はその業務を行う上で、不都合な欲は持てないよう設計されている。俺のような底辺の存在は特に、その精神的抑圧が強固だ。おかげで人間と違い、食事や性交渉も必要無い。睡眠は多少必要だが、それも人間と比べれば必要量は少なく、数日寝ないからと言って倒れる訳でもない。くだらない自我の発露に時間を浪費する事も無い。

 特に物欲などは皆無に等しく、欲しい物を訊かれても数日考えてひとつ出るか出ないかで、その漸く出てきたひとつも、別に心底欲しいとは思っていない場合がほとんどだ。


 だから、唾液を垂れ流して懇願する程の欲は、自分には持てる筈が無い。

 今この瞬間の俺の身体は、間違い無く異常。絶対に有り得ない。

 有り得ないんだ。こんな。


 死んだ人間の女の身体に、()()()()()を感じるなど。


 その時、頭痛の引いてきたぼんやりと甘く痺れる頭の中で。

 俺か、蝉か、もしくは誰かが、呟いた気がした。


 『これもきっと、全て、暑さのせいだ』


 そう——そうだ、今日はあまりにも暑い。

 そのせいで街の人影もいつもより少ないくらいだ。だから俺の食欲も、暑さにやられて盛大にぶっ壊れてしまった。何かしらの大きな理由が無ければ、こんな気持ちにはならないだろう。なら原因は火の中にいるような、この馬鹿馬鹿しい蒸し暑さのせいだ。そうだろう。


 だから。

 だから、これから起こる事は全て暑さのせいで、決して俺のせいじゃない。仕方がない事なんだ。


 誰よりも自分自身にそう強く言い聞かせて、俺は緩慢と上体を持ち上げると、こちらを見る女の瞳に向かって指を伸ばし、おもむろにその眼球を抉り、口に放った。


 これは、俺のせいじゃない。


 湿ったままの舌を抜き取り、しゃぶって飲み込んだ。

 

 これも俺のせいじゃない。


 潰れた胸を開き、心臓を抜き出した。


 こんなの俺のせいじゃない。


 腹を抉り、子宮を取り出して産まれる事ができなかった哀れな肉塊を噛みちぎった。


 女の割れた頭蓋骨をべりべりと剥がして脳を啜った。太腿に噛み付いて骨ごと砕いた。脊髄を分解して軟骨を食んだ。噛んで、しゃぶって、咀嚼して、啜って、飲んで、食べて、食べて、食べて。食べて。食べて。


 俺のせいじゃない。

 俺のせいじゃない。

 俺のせいじゃない。

 俺の——。


 ふと足元を見ると、微かに藍色に光る小さな点々が、血溜まりの中で俺の靴先にくっ付いて(うごめ)いているのが見えた気がした。だがそれが何かを確認するよりも、俺は目の前の食事に夢中だった。


 いつの間にか、蝉の声は止んでいた。








 それから毎日毎日、俺はひたすら腹が空いていた。


 何か口に入れたい。何でも良い。この枯渇した舌を潤せるなら。いや、かと言って水では駄目だ。肉だ。血の通った新鮮な肉が欲しい。死にたてで、且つ死神が仕事を終えた後の人間の肉体が良い。だがそんな都合の良い死体など、簡単に巡り会えるものではない。


 道を往き交う露出した肌。炎昼の太陽で炙られ上気する、その内側を流れる香ばしい血液で味付けされた脂肪の塊を、視線だけで追う。


 照りつける太陽光に導かれるまま、薄着でふらふらと皆どこかに向かって歩いている。男も女も、一枚剥いでしまえば、その全貌を覗けてしまえそうな服ばかりだ。

 頭の中で、厚さ五ミリも無いあれらの皮膚を、そっと爪の先端で開く光景を想像する。


 生きている人間を、食う——そんな考えが過った。


 いや駄目だ。そもそも死人の肉を食ったのさえ、とんでもない過ちなのだ。

 決してやってはいけない事だった。


 分かっている。俺は全て、きちんと理解している。俺は大丈夫だ。

 しかし何故だ。

 無性に人間の肌を、汗を、目を、その内部を欲して仕方がない。


 いったい俺はどうしてしまったのだろう。今までそんな事は思わなかったじゃないか。あくまで人間は俺達の。


 ——あれ?


 俺達の……俺達、俺達の。俺達の、——何だっけ?


 思い出せない。

 そもそも俺は何を、思い出そうと——。


 ジリジリジリジリ、蝉の声がする。あの声はアブラゼミだ。


 反射的に思い起こされる、あの女と小さな肉塊の味、舌触り、喉ごし。

 

 俺は無意識に口を開き空気を取り込み、嚥下した。


 

 





 人間の肉体だと、どんな奴でも脳が一番美味い事が分かった。

 次に内臓。特に心臓が美味い。やはり人体の重要な役割を担う部分は旨味が詰まっているらしい。ちなみに目玉はおやつに丁度良い。抜きたてはつるんとして、一口で食えるのが手軽だ。ただ人体の中でも骨は至極邪魔だ。

 脳味噌を穿りたい時だって、頭蓋骨が想像以上に分厚くて、脳を傷付けずに開くのが難しくて何度も脳を潰してしまった。台無し。だから骨は嫌いだ。


 ああまた腹が減ってきた。

 食べても食べても、食欲が収まらない。


 

 





 わざわざ俺に会いに、死神が来た。顔も知らない奴だ。いや、いつかは知っていたのかもしれないが、とにかく今は知らない奴だ。


 用件は良く聞こえなかった。何かを必死に訴えていたのは分かったが、最近どうも耳鳴りが多いから上手く言葉が聞こえない。


 多分、その死神は俺の事を良く思っていなかった。表情に殺意めいたものを感じた。

 だから、この機会に、せっかくだし試しに食べてみようか、何て事を思った。

 これはただの好奇心だ。


 その場で頭から食ってみたが、正直、美味しくはなかった。

 何より血が不味い。とかく不味い。まるで泥水を啜っているみたいだった。もう二度と食べない。

 酷い目に遭った。今度似たような奴が現れたらバラバラに刻んでその辺に捨ててやる。








 最近、耳鳴りが更に酷くなった。

 その上、全身の感覚が鈍く、動かなくなってきた。頭痛も酷い。腰も首も痛いし、吐き気もする。

 だと言うのに腹だけはやたらと空く。

 体調が悪い。人間を食い過ぎたのかもしれない。食当たりか?

 それでも、やっぱり腹が減ったな。


 なあーんて。








 体調が悪化。ついに井戸の横で動けなくなった。


 食べたいのに食べられない日が続いて、何日か経つと意識が朦朧としてきた。口から吐いても何も出ないのに、何度も嘔吐(えず)いた。目もピンボケした写真みたいに良く見えない。


 俺はこのまま消えるのかもしれない。ならせめて腹を満たした状態で消えたい。

 そんな事を思っていた矢先——目の前に黒っぽい蛇が現れた。


 実際、あれが蛇かどうかは分からない。良く見えないが何となく全身が細長かったから蛇だろうと言う適当な当たりをつけた。角度によっては手足があるようにも見えたから、もしかすると蜥蜴(とかげ)かもしれない。

 蛇は、死神ではないが、生きている蛇でも無かった。だから初めは俺の幻覚かとも思ったが、少し話をするとどうやら俺の飯となる人間を、こいつが連れて来てくれるらしい。悪くない。拒否する理由も無い俺は二つ返事で承諾した。


 安心したら何だか眠くなってきた。

 少し眠るか。

 腹が減り過ぎて、頭が満足に働かない。








 飯だ! 人間だ人間だ人間だ人間だ!

 しかもこれは、女だな? 女の方が脂肪が多いから、柔らかくて好きだ。


 蛇は、俺に飯を届けるとどこかに消えてしまった。あいつはいつも、どこから現れてどこへ消えて行くのだろう。


 とにかく飯だ。念願の人間だ。これで何人目だろうか。不思議と記憶が曖昧だが、五人目くらいだったような気がする。いや、六人目だったかな。まあ、良いや。


 あれ。


 食べようと思ったら、扉の前に誰かが居る。いや勘違いかもしれない。今の俺はまともに物の輪郭も見れず、耳もフィルターを何重にも被せたように音が篭って聞こえている。


 ……いや違う。勘違いではない。

 中に入って来た。


 しかも、これも人間! 


 蛇の奴、飯を二人も連れて来たんだ。微かに聞こえる声で判断するに、まだ若い女だ。想像するだけで涎が出る。きっと皮を剥いだら肉がぷりぷり踊り出すぞ。


 ああ何て最高の相棒なんだ。これは後で蛇に何か褒美をあげないといけないなあ。

 あ、今の俺は動けないんだった。はははははははは。


 おい人間、もっとこっちに、奥に来い。入口の方だと逃してしまうかもしれないからな。俺は慎重にやるぞ。

 もう、俺は本当に腹が減って腹が減って、人間みたく死んでしまいそうなんだ。


「返して」


 不意に女の声が、耳に被さったフィルターを突き抜けて、俺に届いた。


 『——あ?』


 俺は答えた。


 『何だ?』


 女は怯える様子も無く、こう続ける。


「お姉さんを、返して」

『何なんだ、お前。飯の癖に話し掛けてくるなよ。鬱陶しいな』

「私はヒナ。私もお姉さんも、貴方の飯じゃない」

『だから……いや、そもそも何で今、お前の声がはっきり聞こえるんだ? さっきまで、ほとんど聞こえてなかったのに。お前は何だ?』

「貴方こそ、いったい何なの? 肉の床の化け物だと思ったら、私と普通に話してる。でも、昨日の声とは全く違う」

『俺が化け物? そんな訳が無いだろう。俺はただの、……——?』


 ——俺は、誰だ?


 頭の中に柔らかい布を詰められたみたいに、明確な思考が何もできない。

 何故、何も思い出せない。いつから。いつから俺は何も考えられなくなった。

 俺は、いつから、今の俺だった?


「……貴方も、自分が誰だか分からないの?」

『そんな、そんな訳。俺が俺の事を分からない? そんな不条理があってたまるか。俺は俺だ。俺は。俺で。俺が……』

「記憶が無いんだね」

『違うッ! ここ数日の事は憶えてる。とにかく腹が減って、何かを食べたくてしょうがなくて、あとは——そう! あの馬鹿みたいに暑い日! 女を食べたあの日の事は何となく憶えてる。だから俺は大丈夫。大丈夫なんだ』

「その前の記憶は?」


 ……前?


 人間を食べる、暑いあの日の、その前。

 俺に、そんな時間があったのか? 俺は最初からずっと腹が減っていたのではなかったのか? いや、なら数日分の記憶しかないのは何故だ。


 もしかして、ずっと同じ俺だった訳では、ない、のか。


「貴方は、本当に、人間を食べたかったの?」

『そうだ。……いや、分から、ない……分からない。とにかく俺は、腹が減っていたと言う事しか、それしか俺には思い出せない。食べなきゃいいけなかった。食べなきゃいけなかったんだよ。だって、腹が減ったんだ! それの何が悪い? 俺は悪くない! あの日だって——、暑かったから。暑かったから、仕方なかったんだ!』


 俺の言葉に、女の瞳が冷たく細められるのが見えた。その瞳に何故か、俺のぐちゃぐちゃになった身体が、少しばかり縮んだような気がした。


「……そう。私、もう帰らなきゃ」


 ——帰る?

 俺を置いて?

 お前も、俺を一人にするのか?


『待て、行くな……俺を、……俺を置いて行くな』


 俺は片手を伸ばして女を止めようとした。

 だが、自分にはその腕が残っていない事を思い出して、言葉が詰まった。


 女は「どうして?」とこちらを見る。その視線はひんやりとしていたが、完全に突き放すようなものではなかった。そうでなければ、きっとこのヒナと言う女はすでに、溶けた氷のように俺の目の前から居なくなっていただろう。


『……頼む、俺が、……誰なのか、教えてくれ。何で俺は、人間を食べなきゃいけなかった?』

「ここに居ても、きっと分からないよ」

『俺は、ここから動けないんだよ。手足も無いんだ。答えをくれよ』

「ここにも私にも、答えは無いよ。だから、答えが欲しいなら、ヨルと一緒に来て」

『ヨル?』

「そう。そして、自分がした事を償って。外に出て、償うの」


 そう告げる目の前のヒナと言う人間が、想像よりも若い見た目をしていた事に、俺は漸く気付いた。


 俺は、いつの間にか目が見えるようになっていた。


 同時に、ドロドロに融解した自分の身体の中で、不思議と過去の感覚が蘇る。

 過去の俺の姿を、思い出した。


 黒い髪、黒い一つの瞳、穴の空いた黒い服。


 俺は、きっと人間の事が少しだけ嫌いだった。目を二つ持つ人間が気持ち悪かった。

 ジリジリと喧しい蝉と同じか、もしくはそれ以上に。

 いや、嫌いと言うより、俺は人間を、心のどこかで妬んでいたのだろう。欲があったのだ。その事に自分が気付かなかっただけで。


 『ああ——』


 過去の自分をひと時だけ思い出しても、その記憶は瞬く間に砂粒のように崩れ、暗闇の底に落ちてゆく。

 霞み、消える、俺と言う存在。もう二度と訪れない、名も無き俺と言う忌々しき端役の出番。

 端役であるが故の、笑ってしまうような安寧の日々、その全てが余す事無く零れ落ちる。

 だがきっとこれで良い。

 ——でも、あわよくば、その最後の一粒だけでも、誰かと。


『……俺の()()を、持って行け。お前と、お前と一緒に居る、俺と同じ忌々しき安寧を送る死神にくれてやる。どうせこんなもの……何の役にも立ちやしないだろうが』

「どうかな、扱い方次第じゃない?」


 女はそう、あっけらかんと言った。

 大人と子供の中間くらいの見た目の女だが、佇まいは凛と涼やかで、内面は正義感で満ち溢れていた。


 その輝きは、あの吐き気がする程に蒸し暑い、最初に人間を食べたあの夏の太陽を彷彿とさせた。

 

 そして、ふつふつと気泡の如く浮き上がってきた記憶の中で、最後、微かに俺は思い出す。


 脂肪や内蔵を口に頬張り飲み込み、一瞬だけ女の死体から視線を逸らした先にちらついたもの。

 俺の足元に集っていた、米粒くらいに小さな小さな紺碧色(こんぺきいろ)の、蠢くそれが、何か。


 あれは——……(あり)

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