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夜に爆ぜ朝を食い尽くせ  作者: 蜂月ヒル彦
第一章 新宿編
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第16話 その赤は誰のもの

 扉の小窓を凝視したまま数秒の間、私は座り込んだまま、動く事ができなかった。

 しかしそんな身体に対して脳内は忙しなく、熱を持ちそうな程の速さで思考を行い、視界はやけに明瞭に小窓を埋めたそれを認識していた。

 

 赤い。真っ赤だ。いや、良く見れば茶色く()()()()()部分もある。これは、血だ。

 

 鉄っぽい刺激臭が、息をひとつ吸う毎に鼻の奥に入り込んでくる。その臭いで小窓の内側にへばりついたこの赤が何であるか、説明するには充分であった。

 そして褐色部分があると言う事は、これらが少し酸化していると言う事も示していた。空気に触れてから、時間が経っている。だが、それが何を意味するかまでは分からない。


 しかしどうして突然、大量の血液が小窓にぶつかった? そもそも、『ぶつかった』と表現するのが正しいかどうかも分からない。自分には本当に突然、大きな音と同時に血がぶつかって来たようにしか見えなかった。


 小窓に残された血の付着の形も不可解で、馬の尻尾に大量の血液を含ませてそのまま力任せに打ち付けたような、太く強い流線だった。


 そしてもう一つ問題なのは、鉄の臭いと混ざりながらも扉の隙間から確実に漏れ出て来ているこの臭いだ。

 頭の内側から誰かに少しずつ頭蓋骨を押し広げられているような、鈍痛に似た、不快な臭い。これは。


 これは——腐臭?


「——何か居る」


 ヨルが耳元で囁いた。何となく、すぐ後ろにヨルが居て、倒れた私の肩を持ってくれているような気がした。いや、これは不安が生み出した都合の良い解釈に過ぎないだろう。しかしそんな取るに足りない錯覚が、ぐらぐらと覚束無い自分の意識を、ほんの少しだけ正常に引き戻してくれた。


 私は僅かな間を置いてから、錯覚だと理解しつつも半ば後ろを振り向いた。


「何か、って……? 中に誰か……何か居るの?」

「具体的にはまだ分からない。だが、この血は()()()()()()()()()。臭いが違う」


 人間めいた鉄臭い血の臭い、自分ではそう思ったが、鼻の良いヨルには違う臭いとして認識されたらしい。そしてそれは、きっと私よりも正しい。私がそう思いたいだけでもあるが、ひとまずほっと息を吐く。


 しかし安堵したところで当然、疑問は残る。

 仮に本当にこの血が人のものでないのなら、いったい誰の、何の血なのか。


「確かめるか」

「え?」


 こちらの思考を覗いていのたかと疑いたくなるタイミングで、ヨルがそう言った。

 初めから私達は中を確かめようとあちこち見ていたのだ。彼は何も変な事を言っていない。しかし気付けば私は予想だにしなかった事実を突然言われた時のような、間抜けな声で返事をしていた。

 ヨルはこちらの反応に呆れるでもなく、淡々と続ける。


「血の臭いとは別に、中から微かに人間の気配もする。だから確認しなければ」

「……そっか。分かった」


 漸く、腰を抜かしている場合ではないと理解した私は、未だ力が入りきらない脚を立たせ緩慢と立ち上がった。扉の小窓越しに血を見ただけだと言うのに、今にも逃げ出したい気持ちがこびり着いた汚れのように残る。


 その時、扉の内側から音が聞こえた。

 何か、重い物を引きずるような音。ずっ、ずっ、ずっ、ずっ、と言う音が断続的に空気を揺らしている。


「何——」


 ずるり。


 突然、半端に開いていた扉の隙間から、赤黒い塊が湿っぽい音を立てて地面に落ちた。

 それは新鮮なレバーのようにぷるぷるとした肉塊で、肉の中には、黒い、刺繍糸に似た繊維が幾つも浮いて見えている。

 大きさは人間の片脚一本分くらい。骨は少ないのか、もしくは完全に無いのか分からないが、動きは芋虫のようだ。身を縮めるその際に、肉同士が押し合って深い皺を作っている。


 黒い繊維は血管の如く肉の内側を巡っているが、表面を破り外側に飛び出した分は、ただ垂れる訳でもなく一本一本が周囲を探るようにうぞうぞと動いていた。触覚としての役割があるのかもしれない。

 それらが吟味するように這った扉の角や地面には、小窓に付着した血液と恐らく同じ血痕が残された。


 恐らくこの肉と黒い繊維の塊は、誰かが扉が開けた事に気付いて外へ出て来たのだろう。

 だが肉塊には目らしき器官は見受けられない。周囲の確認は黒い糸で行うしかないようだ。証拠に、目の前に立っている自分に向かって飛び掛かって来る様子も無く、未だに扉と扉の周囲を丹念に黒い糸の束でまさぐっている。


「動くな」


 ヨルも私と同じように推察したのだろう。無駄に動かずじっとして、素知らぬ振りをしてやり過ごせと言う事だった。私は大きく息を吸うと、首だけで頷く。あれに聴覚があるのかは分からないので、声は出さない。


 指先すら動かさず様子を見ていると、伸びた黒い繊維の先が私の靴の爪先まで、あと数センチの所に迫った。私は触れてしまわないように(かかと)を地に着けたまま爪先だけを浮かせ、静かに外側に捻って避ける。

 浅い呼吸を繰り返しながらひたすら扉の中に帰ってくれる事を祈っていると、刺繍糸で縫われたような気味の悪い肉塊は、おもむろにその身を後退させ始めた。潮が引くようにゆっくりと、地面に長い血の爪痕を残しながら、暗がりに溶けてゆく。


 最後に黒い糸の一本も見えなくなったのを充分に確認してから、私は声を出さないまま、肺の空気をありったけ吐き出した。


 それから、赤黒くじっとりと濡れた地面と扉を見つめる。

 鉄臭さは途切れる事無く鼻腔を刺激していた。心なしか肉塊が外に出て来てからは、腐臭も強くなっている気がする。


「……正直言うと、とっても入りたくない」


 吐き気と眩暈に悩まされながら、私は低い声で呻くように言った。


「帰るのか?」

「いや、帰らないけど、それは勿論」

「どっちなんだ」

「入らないと、助け出せないじゃない。分かってるよ。ここまで来たら絶対助けるよ」


 鼻を抑えながら心底忌々しげに宣言してみせると、ヨルが小さく笑ったような吐息が聞こえた。


「僕が先に入って、様子を見てこよう」

「うん、お願い。気を付けて」


 ヨルは相槌を打つとすぐに中に入ったようだ。一〇秒と経たない内に「暗いが、中は狭そうだ」と通信機越しに聞こえた。


「近くに人間の気配はするが、ここは月明かりも入らないせいで良く見えない。白鴉(はくあ)なら夜目も利くのだが……。とりあえず、人間の気配がすると言う事は、生きてはいる。そこは安心して良いだろう」

「良かった。さっきの、は……居る?」

「いや、居ない」

「居ない? もうどこかに移動したって事?」


 地面を這う動きは、早くなかった。むしろ遅い部類だ。それがすでに一階に居ない。もしや外に出る時だけ慎重なだけで、実は素早く階段を上るくらいの身体能力は持ち合わせていたと言う事なのだろうか。


「どうやって消えたのかは分からない。ただ僕には人間と人間じゃない気配、どちらも比較的近くに感じるが一階には居ない。二階かもしれないな」

「分かった。私も入ってみる。電気点けてみよう」


 中途半端に開いたままだった扉の隙間に、身体を横に滑り込ませるようにして中に入った。

 硬い床板の感触を靴の裏に感じる。確かにヨルが言っていた通り、暗いせいで視界はほとんど無い。私は入ってすぐ壁に手を伸ばした。電気のスイッチを探そうと片手を壁に着けたまま、横這いに進む。


 何度か途中で濡れている部分に手が触れ、その度に声を上げそうになる。触れたのが血かもしれないと考えると、せっかく引っ込めた吐き気を再び催しそうになった。血かどうかはできるだけ考えないようにして、今はスイッチの場所を探る。


 左側の壁を伝い、七、八歩進んだところで多少目が慣れてきたのか、少し先に白いスイッチが二つあるのを発見した。一気に押してみると、何度か点滅してから、天井の白熱灯が点灯した。


 白熱灯に晒され現れたのは、小さなバーだった。床に放置された脚の長い丸椅子が一脚と、奥に空の酒瓶が並んだ棚と、古い小さな冷蔵庫、後は敷地の三分の一を占拠するバーカウンターがある。

 恐らくここは現在運営されている店舗ではないのだろう。埃の量から考えるに数ヶ月前に以前の契約者が出て行って、それっきりになっている感じだ。


 塗装が所々剥がれ落ちた壁と天井を見る。やはり赤黒い液体が至る所にべったりと付着していた。恐る恐る自分の掌も見ると、スイッチを探していた際に付着したであろうものが掌どころか肘まで汚していた。まるで自分が誰かを殺めたかのような錯覚に、目が眩みそうになる。

 それと至る所から発せられる苦い鉄臭がその内に鼻の奥で錆のように固まって、取れなくなりそうな不快感。ここに数分居るだけで、体調を壊しそうだ。


「何、ここ? ……血だらけ」


 せめてこれ以上臭いを嗅がないように、袖で鼻を押さながらヨルに訊いた。しかし、ヨルは応えなかった。

 不審に思い、もう一度名前を呼ぶと漸く返事が聞こえた。その声はどこか上の空で、彼は「そうか……」とだけ零した。


「どうしたの、ヨル? 何か分かったの?」


 血だらけの部屋でどうしたもこうしたも無い。だが今まで冷静だったヨルの落胆にも近い声色に、私は別の理由を感じずにはいられなかった。


 ヨルは言うのを若干躊躇うかのような沈黙の後、小さく息を吐いた。


「……あまり、良くない情報だ」

「良いから、教えて。何かのヒントになるかもしれないし」

「——……すでに、何人か……食われていた可能性がある」

「……食われていた?」


 ——人が?


 私の脳裏に、朝出会ったばかりの女性の顔が過ぎる。


 重い重い沈黙が、私とヨルの間に横たわった。


 頭が熱いような、冷たいような、心臓の鼓動が速いような遅いような、全ての感覚が愚鈍になった気がした。彼の言葉を受け入れたくないと、自分の心が拒絶しているせいだった。


 今すぐ大声を上げて泣き出したくなる気持ちを、無理矢理抑える。

 内側では不安と恐怖の芽が急激に伸び、心臓を絡め取ろうとしていた。


 けれど、今ここでそれに屈して泣いたり、しゃがみ込んだりすれば、自分は立ち上がれなくなってしまう。


 私は残った理性で、感情を抑制するのに懸命に努めた。そのおかげか、次の自分の言葉は喚き声ではなく、震えてはいたものの、きちんと言葉の形を保っていた。


「……何で、分かるの?」

「奥の......キッチンがある方だ。その一帯に古い人間の血が、多くはないが、混ざっている。最低二人分だ。二人以上は、食われて時間が経っているのだろう」


 奥。キッチン。

 私は言われた単語を頭の中で反芻し、それらしき方向にふらつく足を向けた。ヨルは続ける。


「あるのは血液だけだ。それ以外は、何も無い。何も。全て、食ったんだろう」


 傷が目立つ黒いカウンターの裏に、薄汚れた銀色のシンクがあるのが見えた。

 ゆっくりとカウンターの中に入り、酒瓶が置いてある棚と、電源の抜けた埃を被った冷蔵庫の前を過ぎる。


 それから視線を、下に向けた。 


 ヨルの言った通り、一面に血液だけが広がっていた。


 その床の色が本来何色であったか、もはや見ただけでは見当もつかない。

 赤と茶と黒の液体が、混ざり合っていた。

 床だけでなく壁に飛び散り溝に入り込んだまま凝固した血痕は、乾燥した墨のように黒く粉末状になっている。


 この狭いキッチンの中で、()()が行われていたのは誰が見ても明らかだった。


 ふと、自身の靴先が血の海の一部に入り込んでいた事に気付き、慌てて足を引いた。

 スニーカーのオフホワイトの布地に、じわりと赤い小さな滲みが広がる。


 人の血が。


 その時、遅れて逆流した胃酸が喉を焼いた。そのまま吐いてしまいそうになるのを無理矢理、抑える。喉に力を入れ過ぎて筋肉が攣った。激痛が走るが、それでも迫り上がって来たものを押し戻す。

 すでに人の形は無いと言っても、他人の血の上に吐瀉物を被せる事はできない。

 喉が痛い。攣った部分もだが、酸っぱいような苦いような不快な味が、喉から舌先までを痺れさせてくる。


「すまない」


 静かな、呟くようなヨルの謝罪が聞こえた。

 私に対しての謝罪か、それとも助けられなかった人達に向けての謝罪なのかは分からなかった。私には、それを確かめる気力も無かった。冷たい自身の手を強く握り、食い込む爪の痛みで悲嘆する心の声を覆い隠すので精一杯だった。


「……ヨル、まだ、生きてる人の気配はあるんだよね?」

「ある。近くに居る筈なのだが、姿が見えない」

「分かった。とりあえず、まだ見てない二階に行ってみよう。一階に居ないならきっと——」


 そう言った矢先、足元に違和感が。

 言葉を取り止めた私に、ヨルが「どうした」と短く問う。


「……いや、何か、今」


 ただの床板だった足元が一瞬、揺らいだような感覚があった。

 しかし違和感はその一度だけで、待てども再び同じ感覚がやって来る気配は無い。


 怪訝に思う私に、ヨルがまた何か言おうとした時だった。


 固い木の床板が、まるで大きな綿のように突然柔らかくなり、私の身体は膝上まで一気に沈んだ。初めは床が抜け落ちたのかと思ったが、下半身に何かが纏わり付く感覚にそれは違うとすぐに気付く。

 地面が、ぐにょぐにょとした柔らかい肉の床へと変貌していた。

 咄嗟に天井に向かって手を伸ばすが無論届く訳もなく、


「あっ——」


 たったそれだけが、喉から零れ落ちた。


 底無し沼は踏み込むまで、どの程度の深さかは分からない。この肉の床も同じように、呑み込まれていく身体は柔らかな圧力を感じるだけで、足先に固い地面の感触など微塵も無い。底があるのかさえも分からない。


 逃げられない。


 自分でも意外な程、冷静に悟った。踏ん張る場所が無ければ片足さえ抜け出せない。今は床一面が赤黒い泥濘(ぬかるみ)になっている。上半身だけでも浮上しようと試みても、掴まる場所さえ無い。自分が暴れても暴れなくても、ただじわじわと沈み続ける。


 肉の床には、血に浸った赤黒い繊維が張り巡らされていた。そしてそれらは、意思を持って私の身体を下へ下へと引きずり込もうとしていた。床から一際強い悪臭が立ち込め、血管に似た糸が、私を逃すまいときつく締め上げる。


 通信機からヨルが、私の名前を呼ぶ声が何度も聞こえる。だが彼には身体が無いのだから当然、私を肉の床から引き上げる事はおろか、指先に触れる事さえできない。


 その時視界の端に、自分と同じ血と肉と繊維にまみれ、静かに瞼を閉じている人間の顔が見えた。身体は完全に埋まってしまっているのか、顎から上しか見えなかったが、私は一時的に恐怖も痛みも忘れ、ただそちらへ片手を伸ばした。


 あれは。

 今朝知り合ったばかりの、桃色の財布を持ったあの女性だ。


 気配はあるのに見えなかった理由が分かった。彼女はずっと私達の足元に、地下に居たのだ。

 だがせっかく見つけたと言うのに、その瞼は堅く閉じられ、身体のほとんどが床に呑み込まれている。女性は完全に脱力しており、生きているのか、そもそも首から下が無事なのかも分からない。


 私の手は、どんなに必死に伸ばしても彼女に届いてくれない。自分の身体も彼女と同じように肉の床に呑まれている。助けに来た筈なのに、気付けば自分も助けが必要な状況になっていた。


 自身の不甲斐無さを感じる余裕も無い私の唇は、ただただ祈るように動いた。


「お姉さん……起きて、お姉さん。お願い起きて。起きて」


 しかし、彼女が応える事は無い。瞼は閉ざされたままだ。

 彼女に伸ばした自身の腕すら容赦無く呑み込まれ、首も、口も、鼻も、最後には視界の全てが赤く、黒く、塗り潰されていく。


 ——そう言えば。


 昨日も、同じように黒い怪物に呑み込まれていたな。

 昨日の、私はどうしたんだっけ。

 誰かと、話した気がする。

 あれは、ヨルでも白鴉でもなかった。


 あれは、誰だっけ?

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