第15話 優先順位
気が付いた時には、白鴉が後方に大きく吹き飛ばされていた。
「——えっ?」
音を立てて風を切り、物凄い速さで長屋の窓に突っ込む白い身体を、遅れて目で追う。
元居た場所から約一〇メートル後方の長屋。その無惨に割れた硝子窓の向こう側で、白鴉が仰向けに倒れていた。
「白鴉……!」
怪我どころか、即死でもおかしくない程の勢いで人の身体が飛んで行ったのを見た私は、強い不安に襲われる。
すぐに無事を確認する為に自販機から下りようとするが、視界の下方で再び地面に潜るそれの姿が見え、思い留まった。
その黒色の肉体を視線だけで追うと、白鴉を難無く吹き飛ばした正体である、尻尾が大きく波打った。
それは、鰐と呼ぶにはあまりに長い尾を持っていた。
例えるなら、長さは充分に成熟した一本の竹。しかしその尾の付け根は人間が両腕で抱え込んでも足りない程に太く、しなやかで、黒い。
上半身は確かに鰐に似たゴツゴツとした分厚い皮膚で覆われているが、それ以外は黒色粘土のようなのっぺりとした表皮がほとんどを占めていた。腹部から尾の先端までが黒い泥のような質感で、月明かりを受けた今は、水をつけ過ぎた粘土のような、粘着質な光沢を放っている。
下半身の皮膚が粘土を被せたような見た目の、尾の長い鰐。これが未知の生物なのか、動く粘土細工なのかは分からない。ただ事実としてあるのは、これは尾だけでも瞬く間に人体を吹っ飛ばす程の力を持っていると言う事だ。
白鴉を弾き飛ばした鰐に似たそれは、長尾を宙で揺蕩わせると再びするすると尾を地面の下に隠した。それから地面を、まるで水中の如く悠々と泳いで見せる。指と指の間にある水掻きを使い、硬い筈のコンクリートの下を蛇行する。水を掻く度に周囲だけが一時的に液状化しているのだろうか、長尾の敵が過ぎ去ったコンクリートには、それまでにはなかった波状の歪みが生じ、その状態のまま再度硬化されているようだった。
「痛ってえな、畜生!」
その時、こちらの心配と反し白鴉が濁声で悪態を吐いたのが耳に入る。はっとして見ると、起き上がって来た白鴉が、破損した窓枠に片腕で凭れ掛かかるようにして顔を出した。どうやら彼はよっぽど丈夫らしい。私は安堵の息を吐く。しかし良く見ると、白鴉の額からは鮮血が流れ出ていた。
勢い良く跳ね起きた白鴉は、こちらを見るや否や声を張り上げた。
「ヨルてめえ、鰐じゃねえじゃねえか!」
「すまない白鴉、僕の早とちりだった。どちらかと言えば、蛇か蜥蜴だったな」
ヨルがさらりと謝る。別にヨルが悪い訳ではないが、白鴉が可哀想に思えたので私は何も言わないでおく。
その時、どぷん、と言う水音が聞こえた。地面に視線を戻すと、コンクリートの地面の下で長い背中が白鴉の方のいる方に向け、潜行し始めていた。
「白鴉! 鰐——えっと蛇? じゃなくて蜥蜴……? とにかく、敵がそっち行ってる! とりあえず高い所! 高い所に移動して!」
白鴉は舌打ちで答えると、すぐに屋内にあった階段を上り始めたのか、視界から消えた。素直に聞いてくれたのだろう。一時凌ぎでしかないが、高所なら少しは時間が稼げる筈だ。
ふと、昔のモンスターパニック映画のワンシーンを思い出した。あの映画の中では、地面から襲って来る敵から逃げる為に、登場人物達が順繰りに岩から岩へ、棒を使って移動していた。死人が出ている中での棒高跳びはなかなかくだらないシーンだったが、私は好きだ。
なら私も長い棒を使って棒高跳び選手よろしくどこかへ移動すべきかと一瞬考えるが、そんな都合の良い棒が自販機の上に転がっている訳も無いので、残念ながら再現はできない。それ以前に、棒高跳びなどやった事も無い。私は早々に妄想を脳の外へと追い返した。
「白鴉、一人で大丈夫かな?」
「流石にやられはしないだろう。それより、この間に僕達は引きずり込まれた人間を探そう」
ヨルの予想外の言葉に、私はぎょっとして目を瞠った。
「え? 白鴉を放っとくの? どうして……」
見捨てるような発言に当惑するが、自分とヨルが居たところで大して役に立たないのは事実であった。それどころかただの邪魔になる可能性もあり得る。先程の白鴉ではないが、囮くらいでしか自分の使い道は無いだろう。その事に気付いて言い淀んだ。
ヨルは、まるで心配などしていなさそうにこうも言った。
「早くここに引き込まれた人間の無事を確認した方が良い。人命救助が最優先だ。それに、やられはしないとは言ったが、白鴉も本来、戦いの場に出されるタイプではない。この状況を長引かせる方が酷になる。役割分担をして早めに終わらせた方が、彼も楽だ」
「……え。馬鹿力で短気なのに、戦うタイプではない……?」
「あの馬鹿力は、白鴉と言う存在のおまけのようなものだ。短気はその通りだが」
馬鹿力で短気なのに戦闘向きではないのかと、場違いな上に失礼な事を真剣に考え始めたその時、白鴉が居る長屋から、がしゃあんと言う破壊音が聞こえた。
見ると白鴉が二階の窓を蹴破り、空いた木枠に指先を引っ掛けて、屋根の上に飛び移ろうとしていた。
破壊された窓硝子の断片が、けたたましい音を立てて地面に降り注ぐ。重力に誘われるままコンクリートにぶつかった硝子片は砕かれ、そのほとんどは凍った雨粒が散ったように細かくなった。
「白鴉」
名前を呼ぶと、屋根の上に移動した白鴉と目が合う。
「あんたらは人間を探せ! どこかに隠れてる筈だ」
白鴉はそう叫ぶと、何故かせっかく上った安全圏である屋根から、一息に飛び降りてしまった。そのまま地面に両足で着地をすると、衝撃で地面が低く唸る。
「何して——」敵が肉薄する中で、大胆に地面に下りた白鴉に愕然とする。だが白鴉は間髪入れず、今度は更に煽るように、片足で幾度か地面を踏み鳴らした。
「俺は、この鰐だか蛇だか蜥蜴だかを、ここから引き離す」
「でもそれだと、白鴉がやばいんじゃ……」
「おい舐めんな。あんたらが邪魔だから言ってんだよ、くそ役立たずAとB」
「言い方……」
「その代わり、言った通りさっさと人間を探してこい。まだ死ぬ予定じゃない人間を五体満足で保護するのがこっちの勝利条件なんだよ、このゲームは。絶対に優先順位を間違えんじゃねえ。特にヒナてめえは絶対だ。人間の事は死ぬ気で守れ。あんたは人間なんだからな」
その言葉の意味は一瞬分からなかったが、白鴉の分かり難い優しさから出たものだと後から気付いて、私は頷いて答えた。
「うん、分かった」
直後、何かを察知した白鴉が素早く跳躍した。その足元の地面から、顎が外れんばかりに大口を開けた敵が現れる。間一髪避け、そのまま空中で一回転した白鴉は、その鼻先を蹴り飛ばした。
白鴉が蹴った衝撃で、長尾の敵の顔を覆っていた鱗が幾つか弾け飛ぶ。露出した部分には下半身と同じ黒い粘土があった。鰐に似た表皮はただ、張りぼての鱗が付いていただけだ。つまり、この生き物は、身体のほとんどが粘土らしき素材でできていると言う事だろう。明らかに、昨日出会った怪物とは質が違う。
蹴り上げた後、体操選手のように軽やかに着地をした白鴉は、絶妙な距離を保ったまま、今度は相手を誘うように走り出した。きっとこの飲食店街から連れ出すつもりなのだろう。
案の定、敵は自身を蹴り上げた白鴉の背中を追うように再び地中を泳ぎ始めた。
遠くなる白鴉の背中に「白鴉、ごめん! お願い!」と言えば、彼は走りながら片手をひらりと振って返した。
白鴉は飲食店街から、緑道の方に真っ直ぐ走って行った。近辺の地形が元の世界と同じならば、この先を突っ切っていくと大通りがある筈だ。きっと白鴉はここよりも視界が広く動き易いそちらに誘っているのだろう。
白鴉が見えなくなってから、私は足を伸ばし両腕で体重を支えながら、ずりずりと自販機から身体を下ろした。側から見れば情けない格好になっているだろうが、今は格好つけている時間は無い。ただただ、音を立てないように慎重に地面に下りる。
敵が白鴉を追っている今、複製世界に囚われている人を探し出す。それが私とヨルの役目だ。
「引きずり込まれた人も、もしかすると私達みたいに高い所に移動してるかもしれないね。次は二階とかもちゃんと見てみようか」
これだけ店が密集している場所で静かに移動していれば、まだ無事でいる可能性は充分ある。希望を込めてそう提案すると、ヨルも肯定するように『ああ』と頷いた。〝頷いた〟と言っても、彼の姿は見えないので、その動作は私の幻覚なのだが、声色的に肯定の意味なのはほぼ間違いないだろう。
「だがあくまで静かに、冷静に捜索するんだ。あれが、こっちの動きを察知して戻って来るとまずい。きっと白鴉はその点も考え派手に動いてくれているだろうが……気を付けるべきだ」
「分かってるよ。その辺は死ぬ程映画で観たから。まあ……映画だと絶対に誰かが悲鳴上げたりして駄目になっちゃうけど」
あの怪物は見た限り、目が退化していた。頼れるのは基本的には音だけの筈だ。
白鴉が引きつけてくれている間は、こちらがわざと目立つような行動をしなければすぐに戻って来る事は無いだろう。
私はなるべく足音を立てないよう、間違って小石を蹴ったりなどしないよう、気を配りながら慎重に路地を進んだ。焦らず、しかし迅速に。
改めて考えても、普通の人間が白鴉のように屋根に乗れるとは考え難い。単純に逃げたのなら、まず探すべきは屋内だろう。かと言って、この長屋を一軒一軒見て周ったのでは時間が掛かり過ぎる。
「二手に別れて、扉が開いてたりとか、ぱっと見た時に入りやすそうとか、階段がある所を優先的に探そうか——いや、ヨルがどこを見てるのか私には分からないんだから、結局は近くに居た方が効率的、か……」
「そうだな。何かあれば逐一報告は入れるが、僕自身が何かに触れられる訳ではないし、君の安全の為にも傍に居よう。僕は身体は無くとも、危険探知機くらいにはなれるからな」
そうだ、ヨルは助言はできても、物理的に手助けができる訳ではない。
反対に私はヨル程、危険に敏感ではないが、物理的に扉を開けたり物をどけたりするくらいの事はできる。
役立たずAとB。白鴉の仏頂面が思い起こされた。
「じゃあ、私が一階を見てる間に、ヨルは二階を見れる?」
最終的には自分が一階を、ヨルには二階の様子を見てもらいながら一つずつ潰して行くのが良いだろうと思った。時間短縮になるし、こちらの体力的にもかなり助かる。
「分かった。人間を見つけたら報せる」
「ありがと。行こう」
もしヨルが階段で疲れる事があれば途中で交代してあげよう、などと思っていた私であったが、その心配は必要無かったかもしれない。今のヨルは体力などあまり関係無いようだ。移動で息を切らすどころか、こちらが一階を半分しか見ていないのにヨルは二階の確認を終わらせて、結局一階のもう半分もほとんど彼が見てしまうと言う事例が多発してしまった。
これでは、ヨルが一人で周った方が早いかもしれない。
一番の役立たずは自分だったと気付き、焦りと同時に少し落ち込んだ。
二人であちこち建物の中も見つつ、長屋と長屋の間に伸びる細い路地も歩いて確認した。路地裏に階段のある店舗や、手を掛け易い扉があれば、その都度開けて中を確認していった。
室外機を避けるように身体を捻りながら路地を進むと、最初自分達が居た緑道に繋がる道の反対側に出てきた。
と言っても、長屋の集合地と言う特徴のせいで、景色自体に大きな変わりはない。外に出ている看板の文字や色が違うくらいである。
「この道で最後、かな……」
飲食店街の格子状に巡る道の端。その角に、比較的目に留まり易い明るい色の扉を見つけた。
ペンキで塗られた淡い水色の扉に、四角い硝子張りの小窓がはめ込まれている。
中がどうなっているのか、背伸びをして小窓から屋内の様子を覗いてみるが、暗くて人が居るのかさえ分からない。
私は確認しようと、自然とドアノブに手を掛けた。
その時、覗いていた扉の小窓に派手な音を立てて、何かが飛び込んで来た。
バン、と言う学校の窓に鳥が勢い良く当たった時に聞いたような、鈍い音だった。当たった衝撃で小窓の硝子が振動し、扉が突風に吹かれた時のような音を立てた。
心臓が止まってしまいそうなくらいに喫驚した私は腰が抜け、臀部から後ろに転んだ。
咄嗟に手を離した扉はそのまま中途半端に開くと、華奢な人間がどうにか一人通れるくらいの暗闇が生まれた。
暗闇の中には、塗装の剥がれた内装の床が僅かに顔を出している。それ以上の視覚的情報は得られない。
一度吸った息を次の言葉にするまで、随分掛かった。脳が酸欠を訴える直前になって、漸く私はひっくり返った声で呟いた。
「い……今の、何?」
言いながら、何かがぶつかった小窓を改めて見上げた。
瞬間、足先から顔の産毛までもが一気に逆立ち、悲鳴を上げそうになるのを、自身の掌で必死に堪える。
——血だ。
何故か私はそう確信した。
小窓にはびっしりと、赤黒い血が付着していた。




