第14話 新たな怪物
境内には、嫌な沈黙が流れていた。
空気はひんやりと冷え切っていて、僅かに湿度も高い。もしかするとこれらは全て私の勘違いかもしれないが、温度や湿度さえも敏感に捉えようと身体が躍起になるのは、きっと仕方の無い事であろう。
ここは全て作り物の、偽物の世界なのだから。
「……二人は、攫った犯人がどこに居るか分かるの?」
静寂の中、声を潜めながらそう問うと白鴉が答えた。
「何となくな。つっても詳しい場所まではすぐには分からねえ。今の時点で言えるのは、そいつはもう神社の敷地内には居ないって事だけだ。……ヨルの身体はどんな具合だ?」
白鴉が私の方に、正確には私の背後に向かって声を掛けると、左耳に装着した通信機から「やはりまだ、店主の複製世界でないと、僕の身体は形成し難いようだ」と返答が聞こえた。ここで言う彼の言う店主とは、猫の目々の店主の事である。
すると白鴉が忌々しげに舌打ちをした。
「ったく、面倒臭えな」
「予想だが、僕が複製世界で身体を得るには〝その空間の主に歓迎されているかどうか〟と言うのが、案外重要なのかもしれないな」
「あークソ、ヨルが戦えるくらい戻ったら多少は楽だってのになあ」
溜め息混じりに言った白鴉の言葉に、私は「えっ」と声を上げた。
「ヨルって、戦えるの? 強い?」
彼に対しては、誰かと取っ組み合いをするどころか、激しく動き回るイメージすら全く湧かなかったので興味津々に訊くと、ヨルはさらりと「戦った事が無いから分からない」と言った。途端に、前のめりになった自分の身体から、思わず肩の力が抜ける。
「なあんだ」
残念がると、白鴉は口を尖らせながら鼻で笑って「けど実体が無いよりは、ちゃんと身体がある方がやっぱ役に立つだろ。囮とかよ」と宣った。
「白鴉ちゃんったら最低」
「おいコラぶち殴るぞ」
白鴉が冗談を言ったのでこちらも少しふざけただけなのだが、ちゃん付けで呼ばれたのが癪に触ったのか、物騒な言葉と一緒に真顔で返された。外見が幼いと言えど、美形の真顔は怖い。それに、もし白鴉がキレて本当に私が殴られた場合、自分の胴体と頭が離れ離れになってしまう未来が容易に想像できたので、私はこれ以上余計な事を言わないように唇をきゅっと締めた。何なら殴らずとも、あの怪力なら人差し指一本で私の口を二度と開かないようにできるかもしれない。
しかし当然と言うべきか、貧弱な私に向かって物理的危害を加える事など無く、おもむろに白鴉は拝殿の方に向かって大股で歩き始めた。遅れて私もその後を追う。
それから恐らく傍らに居るであろうヨルに、最初の疑問の続きを投げ掛けた。
「それで、二人はどうやって怪物を見つけるの? ヨルは昨日、気配とか匂いって言ってたけど白鴉は違うの?」
「白鴉は、視力が良いんだ。数キロ先でも犬くらいの大きさがあれば明確に捉える事ができるらしい。だから何かを探す時は、とにかく視界に入れれば良い。一方で僕の場合は……何となく見つける、としか言えない。空気の流れや気配を感じて『変だな』と思ったり、気になる所があれば、昨日のようなモノが居るか確認するんだ」
猫さんから譲り受けた通信機は性能が良い。今のヨルの説明も、喫茶室で聞いたのと同じように耳に入ってくるので、一言一句聞き逃す事が無い。快適に会話ができる。
「じゃあ、探す手段は人に——と言うか、死神によって違うの?」
「そうだ。皆、様々な特性や、それに伴う役割がある」
「役割か……死神にとって、役割って大事なものなんだね」
「そう。大事だ。個人の意思よりも、任された役割の方が重要だ」
役割の方が重要だと、まるで当然の事のように言ったヨルに、私は言葉に詰まる。
きっと、だからこそヨルは今のような状況に追い込まれてしまったのだろう。そしてその事を、ヨル自身は仕方のない事だと認識している。それが普通だと。
私は彼等の口から少し話を聞いただけだが、今頭の中で形成されつつある死神のイメージは、堅苦しく冷酷だ。
しかもその冷酷さは人間に対してではなく、身内である筈の死神に対して発揮されている。だがそれも恐らくは、役割を全うする為に敷かれた決まりをただ守っているだけで、人間に対して好意的だからと言う理由ではないだろう。人間に名前を付けられた死神が出てきた途端に抹消するような社会だ。少なくとも人と死神が対等と考えられていないのは確実と言える。どちらが上でどちらが下と思っているのかは分からないが。
「お、あったぞ。砂利の上を走った人間の足跡だ」
白鴉が指差した先には確かに砂利を踏んだように見える箇所があった。と言っても私の目には、そう言われれば足跡にも見えるかもしれないへこみ、と言う程度で、はっきりとは認識できない。直前までそこに鳩が座って休んでいたからへこんでいるだけだと言われても納得するだろう。
ヨルも近くで砂利のへこみを見ているのか、小さく唸る声が聞こえた。
「ふむ。どうやら追われて境内の外に逃げたようだな」
「こっちだ。ついて来い」
白鴉の一言を皮切りに、私も一緒になって地面にあった痕跡を辿り始めた。
足跡は神社の拝殿の裏側にある、石階段がある出入り口に続いていた。神社の階段を降りると、目の前にアーチが現れる。この土地の通称を書いた古い看板を見て、私は昔聞いた話を思い出した。
ここは観光地にもなっている、新宿屈指の有名な飲食店街だ。
飲食店街と言っても、現在は飲み屋がほとんどを占めている。広くはない敷地の中にレゴブロックを並べたように店舗が連なっており、傍目からは小さな店がびっちりと建てられた、ただ窮屈なだけの場所に見える。だが一歩踏み込めば、そこには無限の梯子酒と、郷愁、そして見知らぬ他者との出会いに溢れている。
聞くところによると、戦後に闇市が移転してできた場所らしく、風情漂う木造長屋建ては、最近の建築では見ない独特な趣がある。飲食店街の全体も、長方形を横に六分割したような規則的な形をしており、それはどこか京都の街並みを彷彿とさせた。
全体的に肌に吸い付くようなじっとりと湿った雰囲気を湛え、気を抜けば暗闇から青白い女の腕が出てきて屋内に引き込まれるような——かと思えば次の瞬間には呑気に騒ぐ酔客の嬌声が聞こえて、そんな幻めいた杞憂も雲散してしまう——そんな独特な土地らしい。
当然、未成年である私はこれらを自分の目や肌で確かめた事実は無い。なら何故知っているのかと言えば、祖父が歴史と地理に詳しく、時折思い出したかのように教えてくれる機会に恵まれていたからだ。
ちなみにこの祖父は私と共に住んでいた方、つまりは私がヨルと初めて会った日に亡くなった、祖母の夫である。
祖父は祖母が亡くなった後も元気に七年生きたが、ある日突然、風呂場でぽっくりと死んだ。歳の割にずっと元気だったと言うのに、別れは本当に突然だった。おかげでと言っては何だが、祖父との思い出は楽しいものばかりである。
これ以上家族が病気で苦しむ姿を見なくて済んだのは、子供の私からすると有難い事だった。本当に、子供と言うのはどうしようもなく勝手である。
「くそ、狭い上に無駄に店が多くて探し難いったらねえな」
白鴉が悪態を吐きながらずんずん路地を進んで行く。私は前進しながら目に付いた扉を幾つか開けたり、人が一人通れるくらいの裏道があれば覗いたりしたが、人間の影も形も見当たらず、自分達の足音だけが反響して聞こえるだけだった。
「お姉さんは……捕まった人はもう、遠くに逃げたのかな」
もし逃げ切れているのであれば、とりあえずは安心である。
しかし今の状況は、何だか気味が悪い。昨日は怪物が近くに居れば奇妙な音が聞こえていたのが、この複製世界に来てからは無音だ。これが、危険は近くに無いと言う意味ならば安心もできるが、そうとは言い切れないのが現状だ。
今日の敵は昨日と同じではなく、どんな特徴で、どれ程凶悪か分からない。今この時にも虎視眈々と無音で近付いて来ていても、何ら不思議ではない。
「退がれ」
はっとしたようにヨルが放ったその一言は、咄嗟に私の身を一歩退かせた。
すると、今自分の手で閉めたばかりの、飲み屋の扉の下部分が突然、音を立てて粉々に砕け散った。
「うわっ!」
驚愕し倒れそうになる私の身体を、白鴉が襟を引っ張って立たせてくれた。しかし怪力に引っ張られたので、がくんと視界が揺れる。
「おい、地面に何か居やがるぞ」
「地面? どう言うゔぐぅッ」
言葉を吐き切る前に襟首を掴まれたまま、足が着かない位置まで上に吊り上げられ、色気の欠片も無い声が自分の喉から飛び出た。
もっと優しく助けて欲しい。しかしそんな淡い願いは自分の身体が空中で振り回された瞬間に捨てた。ここで真っ先に文句を言ったら最悪、足手纏いの私を助ける事すら白鴉に辞退される恐れがあるので、子供に振り回されるクマのぬいぐるみの気持ちになって必死に堪える。
「どぅえッ」
すると不意に、白鴉が私を持ち上げたまま近くの自販機の上に、ぴょんと飛び乗った。人間の私を片手に持ったまま、まるで鳥が一休みでもするかのような身軽さで、自販機の天板の上に立つ。
「ごほっ、げほっ」
襟が開放され、漸く振り回されるぬいぐるみ状態から脱した私は、喉元を抑えながら自販機の上に両手を着いた。咳込みながらも、どうして急に扉が壊れたのかさえ理解できなかった私は、半泣きで下を覗く。
だが下を見てもそこにあるのは、汚れた自販機の足元と投げ捨てられたペットボトル、コンクリートの地面、あとは砕かれた扉の残骸が転がっているだけだった。
「い、今の何? 扉が、思いっきり壊れたけど。地面に何が居たの?」
当惑して問うと、真っ先に異変に気付いたヨルが、通信機越しに答えた。
「僕に見えたのは——鰐、のような奴だった」
「鰐……? 東京のど真ん中で?」
ここは水辺ではなく、そもそも現代の日本に野生の鰐は居ない。と言う事は少なくとも、扉を砕いたのは私の知っている鰐ではないと言う事になる。
自販機の周りを見てみるが、鰐らしい頭は見えない。あまりの静けさに、本当に鰐など居たのだろうかと一瞬懐疑心を抱くが、ほんの数秒前に破壊されたばかりの扉の金属片がそこらに飛び散っているので、私達以外の何かが足元に居たのは間違いないだろう。
「どこに行ったの?」
「恐らく地面の下だ」ヨルが応える。
「地面の下? コンクリだよ? コンクリの下なんてどうするの?」
「うし、誘き出して頭出した所を叩くか」
言いながら白鴉が拳を握った。確かに白鴉の腕力なら、鰐一匹くらいどうにでもできそうだ。
それが本当にただの鰐ならば、と言う話ではあるが。
「なら……何か落としてみようか」
私はおもむろに、自販機の上にあった空き缶を片手に持つと、少し離れた地面に放った。空き缶がコンクリートに跳ね返される。路地にかあんと言う間の抜けた音が響いた。
敵が何に反応しているのかは明確には分からないが、これが映画なら大体は音に反応すると相場が決まっている。モンスター映画なら、定番中の定番設定だ。
「……来た」
缶を投げてから数秒後、ヨルが呟いた。
生物らしき足音や呼吸音は聞こえない。しかし、ヨルの探知方法は空気の流れや気配だ。
息を呑む。
直後、地面から硬い鱗の塊が顔を出した。
がばりと口を開き、不揃いに並んだ獰猛な牙を光らせると、私が投げ捨てた空き缶を一瞬の内に口内に飲み込む。
その姿は、確かに鰐のような風貌ではあったが、瞳は退化しているのか上下の瞼は不恰好に膨張しており、その肉の隙間から微かに窺える琥珀色の瞳には、白濁色の薄い膜のようなものが掛かっていた。
やはり、視覚的にこちらを捉えている訳ではないのだろう。
あれがこの複製世界の主なのだろうか。それにしては、昨日の怪物と比べると不気味さがあまり無いと言うか、自我を感じられない。脳内のどこかでそんな印象を受ける。
地面の中から、鰐らしき物体が再び上顎と下顎を大きく広げる。次こそ食べ物が入って来るのを心待ちにしているかのように赤黒い口内が律動するのを見て、私は自販機の上でまた一歩退いた。
「白鴉——」
「言われなくとも、ぶち殴ってやるッ」
白鴉は昂然と言い放ち自販機から飛び降りると、地面から顔を覗かせた相手の鼻頭に向けて、その剛腕を勢い良く振りかぶった。




