第一話 潮の匂い
私が最後に見たのは、夜明け前の港の色だった。
十一月の廿日市の漁港は、墨を流したような海面に、桟橋の水銀灯がぽつぽつと浮いているだけで、どこが水でどこが岸か判じがたい。
冷えた潮の匂いが、車を降りた私の襟首に忍び込んだ。腕時計は午前四時十分を指している。前の晩に家へ帰ったのは日付が変わってからで、風呂にも入らず三時間眠った。それを三年続けていた。
食品卸の営業を十四年やった。扱うのは牡蠣、穴子、煮干し、塩。売り先は広島市内の飲食店とスーパーで、仕入れ先は島々の漁師や、瀬戸内の小さな塩屋だった。会社の上は数字を見る。数字は売り先の値引きを求め、仕入れ値の引き下げを求める。その間に挟まれる者がいる。挟まれて潰れるのは、いつも仕入れ先の、いちばん声の小さい者だった。
私の仕事は、突きつめれば、その潰れる手前で支払いを止めないことだった。月末の支払いを一日でも延ばしたがる上司の机に頭を下げに行き、漁師の家の盆と正月の物入りを指折り数え、「今月は少し待ってくれ」と言う相手には、現金を鞄に入れて直に出向いた。損な役回りだと同僚は笑った。私は、これ以外のやり方を知らなかった。
「修ちゃん、早うに悪いのう」
桟橋の端で、七十を越えた漁師の源さんが木箱を提げて待っていた。顔は潮と陽に焼けて、皺の一本一本が、干した鰺の筋のようだった。箱の中で、夜明け前に揚がった穴子が銀色の腹を鈍く光らせている。
「ええ穴子が揚がったんじゃ。市場に出す前に、あんたに見せとうてな」
「ありがとう、源さん。全部もらうよ。値はいつもどおり、うちで持つ」
「値のことは、ええ。あんたが来るまで、わしらは魚を捨て値で叩かれても、文句も言えんかった。あんたが来てから、ちゃんと値がつくようになった。それだけじゃ」
私は笑って頭を下げた。そのとき、胸の左側に釘を打ち込まれたような痛みが走った。
(ああ、これは)
そう思った。思っただけで、膝が折れた。コンクリートの岸壁は、驚くほど冷たかった。源さんが何か叫んでいる。その声が水に沈むように遠ざかり、代わりに、潮の匂いだけが濃くなった。
生臭くて、冷たくて、しかしどこか懐かしい匂いだった。
(明日の納品、誰に頼んだっけ)
それが、三十七年の最後の考え事になった。
天文二十三年(一五五四)、安芸国。
安芸の北、中国山地が南へ裾を落とす手前に、吉田という盆地がある。三方を山に囲まれ、川が三筋、盆地の底で寄り合って流れている。冬は雪が深く、夏は風が止まる。米の穫れ高は知れていて、海は遠い。そういう土地であった。
毛利という家は、その盆地の国人である。国人とは、土地に根を張った小領主の呼び名で、守護大名のように国ひとつを束ねる力はない。
西には周防の大内、北には出雲の尼子という大きな牙が二つあり、毛利はその間で、あるときは大内に付き、あるときは尼子に付き、膝を屈しては生き延びてきた。当主の元就は五十八歳。その膝の屈めかたの巧みさで、安芸の小領主から身を起こした男である。
今年の五月、その元就が、主筋にあたる大内家の実権を握る陶晴賢と手を切った。主君を殺して家を乗っ取った男に、もはや膝は屈しないと決めたのである。
街道沿いの城がいくつか、寝返りと攻め合いで落ち、あるいは持ち替えられた。吉田の城下では、米の値がじわりと動き、塩の入りが細り始めている。戦は、まだ誰の目にも見えぬところで、すでに民の腹に触れていた。
吉田郡山城は、山ひとつをまるごと城にしたような大きな城である。頂に本丸を置き、尾根筋にいくつもの曲輪を連ね、斜面のあちこちに家臣の屋敷や局が貼り付いている。その中腹、日当たりのよくない北向きの一角に、乃美大方の局があった。
縁側に、数えで四つの男の子が座っていた。幼名は、といいたいところだが、確かな名は伝わっていない。屋敷の者は皆、「四郎様」と呼ぶ。毛利元就の四男であるから、四郎。それだけのことである。ここでもそう呼んでおく。
四男、と書いたが、これには断りが要る。
四郎には三人の兄がいる。嫡男の隆元、次男の元春、三男の隆景。この三人は、すでに世を去った正室、妙玖の子である。元春は吉川家に、隆景は小早川家に、それぞれ養子として入っているが、それは父が両家を毛利の内に取り込むための策であって、兄たちの値打ちを損なうものではない。
四郎の母、乃美大方は、その後に迎えられた人である。継室と呼ぶ者もあれば、側室と呼ぶ者もある。呼び名が定まらぬこと自体が、この人の立ち位置を物語っていた。
正室の子と、そうでない子。この差は、現代の我々が思うよりはるかに深い。同じ父を持っていても、あちらは「殿」と呼ばれ、こちらは「四郎」と呼ばれる。兄と呼ぶ相手が、そのまま主君筋になる。血のつながりは、家の秩序の前では、ほとんど意味を持たなかった。四郎自身は、その深さをまだ知らない。
ただ、見ていた。
その日の夕刻、坂の下を一行が通った。先頭の侍が槍を立て、後ろに十人ほどの供が従う。真ん中を歩く男は、三十を過ぎた顔に疲れを溜めている。嫡男の隆元である。父に代わって城の政務を見、家臣の不平と、父の突飛な策との間で、胃の腑を痛めているという噂だった。
坂道の両側にいた下男下女が、地面に額を擦りつけた。乳母が、四郎の後ろ頭を掌で押さえた。
「頭を下げなされ、四郎様。お殿様のお通りです」
「あにうえ、じゃないのか」
「お殿様、でございます」
乳母の声は低く、固かった。四郎は縁板に額をつけた。杉の板は昼の熱をまだ持っていて、生ぬるかった。
足音が近づいてくる。草履が砂利を踏む拍子が、一瞬だけ乱れた。
(止まったのか)
そう思ったが、顔は上げられない。砂利の音はやがて規則正しさを取り戻し、遠ざかっていった。頭を上げると、坂の下に、行列の背中が小さくなっている。兄の背には、誰も触れてはならぬものが、薄い膜のように張りついて見えた。
夜、母が髪を梳いてくれた。乃美の血を引く大方には、海辺で暮らす縁者がいる。その縁者から届く塩を、いつも手元に置いているせいか、着物の袖に、うっすらと潮の匂いが残っていると、侍女たちは陰で噂した。
「かあさま、うみって、なに」
梳く手が止まった。
「どこで、その言葉を」
「ばあやが、塩が来ぬと言うておった」
大方は少し笑った。
「海はな、しょっぱい水が、見渡すかぎり続いておるところじゃ。向こう岸が見えぬ。荒れる日は、山よりも恐ろしい。じゃが、凪の日には、船に乗れば、どこへでも行ける」
「どこへでも?」
「どこへでも」
四郎は、その言葉を舌の上で転がした。吉田の山に囲まれ、一歩も外へ出たことのない子供には、「どこへでも」という響きが、不思議に甘かった。
母はふと手を止め、声を落とした。
「四郎。おまえは、あのお方たちとは違うのじゃ。それを覚えておきなされ」
「ちがう?」
「正しい家の子では、ない。そのかわり、背負うものも少ない。そう思うて生きなされ。それは、悪いことばかりではない」
母の指先は冷たかった。四郎は、その冷たさと、潮の匂いと、「違う」という言葉の重さを、ひとまとめにして覚えた。意味は分からぬまま、胸の底に沈めた。
その夜から、四郎は熱を出した。
初めは額が熱く、次に背が冷え、やがて全身が燃えるように疼いた。乳母が代わる代わる汗を拭い、薬師が呼ばれ、蚊遣りの煙が部屋に満ちた。夏の夜は蒸し暑く、長かった。
三日目の夜、四郎は水の底にいた。
声が遠い。誰かが「四郎様、四郎様」と呼んでいる。その呼びかけの向こうで、もうひとつ、別の声が聞こえた。
「修ちゃん」
その声に、四郎の胸が、ことりと鳴った。
熱の底で、四郎は潮の匂いを嗅いだ。まだ一度も見たことのない、海の匂いだった。
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