第七章 話したいことが、増えていく
台本の続きを聞けたのは、翌日の夕食のあとだった。
使者が主人の待つ国へ帰るところまで読み終えると、侯爵は本を閉じた。
「次は、この男の真価が問われる場面だ」
ニナが楽しみにしていると答えると、彼は満足そうに頷いた。
けれど、その次の晩は、隣領から訪れた役人との会食があった。
翌日は、街道の補修をめぐる打ち合わせが長引いた。
ニナも商会で任される仕事が増え、帰る時間が遅くなる日があった。朝食で顔を合わせても、侯爵が先に席を立つ。夕食を待つ間には、リュシアンを通して「今日は先に食べろ」という伝言が届いた。
同じ館に住んでいても、ゆっくり話せない日が続く。
そういうこともあるのだと、ニナは初めて知った。
「今日は、送り状を一人で書かせていただいたんですよ」
食後、足元へ来たブランに話しかける。
ブランは尾を床に打ちつけ、ニナが膝に置いた手の下へ鼻先を差し込んだ。
「……撫でてほしいですよね」
耳の後ろを掻くと、大きな頭が膝へ載った。
ニナは笑い、その重みを受け止めた。
温かくて、柔らかい。
しばらく撫でているうちに、ブランの目は細くなった。
「少し、時間がかかってしまったんですけれど……」
続けかけて、言葉を止めた。
ブランはもう、うとうとしていた。
ニナは起こさないように手を動かしながら、食堂の扉へ一度、目を向けた。
*
数日後、商会からの帰り道で、ニナは東通りへ足を向けた。
フォルベック菓子店の窓には、蜂蜜のタルトと、小さな焼き菓子が並んでいた。
扉を開けると、香ばしい匂いに包まれる。
丸い菓子には、砕いた木の実が混ぜ込まれていた。甘すぎず、濃いお茶によく合うという。
侯爵は、こういうものがお好きだろうか。
そう考えてから、ニナは棚の前で少し立ち止まった。
値段も、日持ちも気になる。運ぶ間に崩れないか、実家の店で扱うとしたらどうか。いつもなら、そうしたことから確かめただろう。
けれど、今日は、菓子を勧められたときに浮かんだ顔があった。
「こちらを、三人でいただけるくらいお願いします」
選んだものを包んでもらう間、もう一度棚を見る。
ジンジャークッキーは、館でもリュシアンが食べているのを見かけたことがあった。
「それから、こちらも少し」
包みを受け取り、店を出た。
木の実の菓子を勧められたこと。
商会で、新しい仕事を任されたこと。
少し失敗して、教え直してもらったこと。
坂道を上りながら、話したい順番を考えた。
今日は、お茶をご一緒できるだろうか。
丘の上に館の屋根が見えると、ニナの足取りは、自然と早くなった。
*
「……まだか」
執務室で、ヴァレンティンは窓の外を見た。
「街道整備の見積書でしたら、ただいま閣下のお手元に」
「それは分かっている」
リュシアンは机の端の時計へ目を向けたが、何も言わなかった。
ヴァレンティンは見積書に視線を戻す。
石材を運ぶ日数と、迂回路を確保する期間。その二つが合わない箇所へ印をつけ、確認を求める書き込みを添えた。
一枚片付けてから、また窓を見る。
「ニナは、戻ったか」
「ええ。先ほどお戻りになりました」
「……そうか」
羽ペンが置かれた。
「何か、小さな包みをお持ちでしたよ」
「包み?」
「菓子店のものに見えましたが」
ヴァレンティンは咳払いをした。
「ならば、茶が必要だろう」
「お誘いしてまいりましょうか」
「……仕事は一段落ついたと伝えろ。暇だから呼んだのではないぞ」
「承知いたしました」
リュシアンが扉に手をかけたところで、背後から声がした。
「疲れているなら、無理に連れてくるな。明日でもいい」
「そのようにお伝えいたします」
扉が閉まる。
ヴァレンティンは客用の卓に残っていた書類を片付けた。
二つの椅子の間隔を見て、片方を少し動かし、思い直して戻す。
窓ガラスに映る自分の襟を確かめてから、机へ戻った。
足音が近づいてきたときには、すでに確認を終えた書類を、もう一度手に取っていた。
*
「お仕事、お疲れさまです。お邪魔してもよろしいでしょうか」
「入れ。今は、ちょうど区切りがついたところだ」
執務室へ入ると、侯爵は書類を置いて顔を上げた。
ニナは、その顔を見ただけで微笑んでいた。
「それは何だ」
彼の視線が、抱えた包みへ落ちる。
「帰りに、フォルベック菓子店へ寄ったんです。侯爵様がお好きそうだと思って」
「……俺に?」
「はい。ご一緒にいただけたら、嬉しいなと思いまして。リュシアンさんの分もございます」
「お気遣い、ありがとうございます」
茶器を整えていたリュシアンが一礼した。
ジンジャークッキーの包みを渡すと、薄紫の瞳が、わずかに和らぐ。
「こちらは、責任を持ってお預かりいたします」
「今ここで食べればよかろう」
「ええ。ですので、私の席へ置かせていただきます」
小さな皿が、一枚だけ脇へ寄せられた。
ニナが笑うと、侯爵も口元を緩めかけ、それから、わざと重々しく頷いた。
「よかろう。まずは俺が毒見してやる」
「では、お茶もご一緒にお願いします。お店の方が、濃いお茶に合うと仰っていましたので」
「……いつの間に、毒見に注文をつけるようになった」
そう言いながら、彼はすでに卓の方へ歩いていた。
焼き菓子を皿へ移し、お茶が注がれる。
ニナは、向かいの椅子へ座ろうとした。
「おい。こちらだ」
侯爵が、自分の隣の椅子を軽く叩いた。
「報告があるのだろう。聞いてやる」
「……はい」
図書室でも、隣に座ったことはある。
けれど、今日の椅子には、一緒に覗き込む本がなかった。
腰を下ろすと、彼がこちらを向く。
「この数日、退屈だったか」
「退屈、というより……」
ニナはカップの持ち手へ指を添えた。
仕事は忙しかった。初めて知ることも多くて、毎日はあっという間に終わっていた。
それでも、食後には、話しそびれたことを思い返していた。
「いつもお話ししていたので、おしゃべりできなくて、寂しかったです」
隣で、菓子を持ち上げかけた手が止まった。
「……寂しい?」
「はい。でも、今こうしてお話ができて、本当に嬉しいです」
ニナは笑って、皿へ目を向けた。
「お菓子も、お渡しするだけより、一緒にいただきたかったので」
侯爵はしばらく黙っていた。
それから、持っていた焼き菓子を、一口かじった。
「……よい選択だ」
「お口に合いましたか?」
「菓子も、だ」
ニナが首を傾げると、彼は紅茶を一口飲んだ。
「話が、溜まっているのだろう。順に聞かせろ」
「はい。まずは、送り状のお話なんですが……」
*
任されたのは、宿へ納める品の送り状を書く仕事だった。
品名と数、届け先、日付。
初めて一人で書いたとき、ニナは内容を確かめたあと、宛名にも時間をかけた。実家で礼状を書くときのように、少し飾りをつけた文字で。
「そうしたら、全部書き終わる前に、次の荷が来てしまいまして」
先輩からは、誰が受け取ってもすぐ読めることと、荷を待たせないこと。その二つも、送り状には大切なのだと教わった。
「ですから今日は、字を飾らず、欄を揃えて書いたんです。書き終わってから、数と宛先をもう一度確かめました。そうしたら、前より早くお渡しできました」
「読みやすさは?」
「先輩にも見ていただきました。こちらの方が見やすい、と」
侯爵は頷いた。
「ならば、丁寧さを捨てたわけではないな。何を丁寧にするべきか、変えたのだ」
ニナは、少し目を開いた。
「……そう考えても、よろしいでしょうか」
「見直して、次に使える形へ直したのだろう。胸を張れ」
低い声が、すぐ隣から聞こえる。
「よくやった」
大きな手が、そっと頭へ触れた。
ほんの一度、軽く。
ニナが顔を上げるより早く、その手は離れていた。
「……失敗と成功が一つになった報告か。なかなか、効率的だな」
彼は何事もなかったように言った。
ニナは、頷こうとして、少し遅れた。
うまくできなかった仕事を、直せたことが嬉しかった。
その話を、最後まで聞いてもらえたことも。
けれど今は、頭に触れた手の感触ばかりが残っていた。
「……ありがとうございます」
声が小さくなる。
聞き取りにくかったのか、侯爵が身を寄せた。
「どうした。ほかにもあるのだろう?」
「はい。あの、ほかには……」
顔を向けると、思っていたより近くに赤い瞳があった。
窓からの光が金色の髪に当たっている。昼間、外で見たときより、睫毛までよく見えた。
ニナは膝の上で指を重ねた。
「……少々、お待ちいただいてもよろしいでしょうか」
「何をだ」
「その、お話ししようと思っていたことを、思い出すまで……」
侯爵が眉を寄せる。
ニナは慌てて続けた。
「嫌だったわけではないんです。ただ、こうして近くでお話しすることに、あまり慣れていなくて」
口にすると、ますます頬が熱くなった。
彼の視線が、二人の間へ落ちる。
椅子が少し引かれた。
「……すまん。近すぎたか」
「いえ。その、少し、びっくりしただけで」
「このくらいなら、構わんか」
ニナは小さく頷いた。
彼はそれ以上、続きを促さなかった。
少し前まで、あんなに話したかったのに。
今は、こちらを待ってくれていることまで、恥ずかしい。
「……待つのも、強者の余裕だ」
侯爵はそう言って、カップを持ち上げた。
空になったカップだった。
彼は中を覗き込み、何も言わずに卓へ戻す。
「閣下。余裕のお供に、お代わりはいかがでしょう」
リュシアンが静かにポットを傾けた。
「……頼む」
その声があまりに真面目だったので、ニナは、こらえきれずに笑ってしまった。
侯爵も一度だけこちらを見て、それから、困ったように口元を緩めた。
*
話の続きは、少しずつ思い出せた。
荷札を束ねる紐の結び方を教わったこと。
昼食のパンを買う店で、顔を覚えてもらえたこと。
商会の窓辺へ来る猫が、今日は誰の椅子を占領していたか。
侯爵は、ときどき質問を挟みながら聞いていた。
ニナが順番を取り違えても、急かさなかった。少し前の話へ戻ると、あの店かと頷いてくれた。
やがて、話が途切れた。
「今日は、これで全部か」
「……たぶん。でも、また思い出すかもしれません」
「ならば、次に聞く」
ニナはカップを置いた。
「今度は、侯爵様のお話を伺ってもよろしいですか」
「俺の?」
「はい。街道の打ち合わせはいかがでしたか。先日、難しいところがあると仰っていましたので」
彼は、机の方へ一度目を向けた。
「……工事の順を変えることになった。すべて同時に塞いでは、近くの村から市場へ来られなくなる」
「では、通れる道を残しながら?」
「そうだ。ただ、その間は石材を遠回りさせねばならん。その費用の調整で、少々な」
初めは短かった説明が、少しずつ長くなった。
ニナは相槌を打ちながら、分からないところを尋ねた。
荷を運ぶ人と、市場へ来る人。同じ道を使うからこそ、工事の間だけ別の道へ回ってもらうことにも、支度が要る。
机に置かれていた紙の向こうに、街の人々の姿が見えてくるようだった。
「……この話は、退屈ではないか」
ふと、彼が尋ねた。
ニナは首を振る。
「いいえ。侯爵様が何を考えていらしたのか、分かるのが嬉しいです」
彼は少し黙った。
それから、机の端にあった紙を一枚取り、ニナにも見える向きへ置いた。
「ならば、ここだ。こちらの道から順に進めることになっている」
ニナは、その指の先へ目を向けた。
今度は、近くで同じ紙を見ていても、話を忘れずにいられた。
窓の外では、夕暮れが屋根を染め始めていた。
リュシアンが空になった菓子皿を下げ、お茶を注ぎ替えてくれる。
ニナは礼を言い、もう一つ、尋ねたかったことを口にした。
卓の向こうには、座るつもりだった椅子が、一つ残っている。
けれど、今からそちらへ戻ろうとは思わなかった。
明日も何か、この人に話せることがあるといい。
そして、彼の一日も聞いてみたい。
ニナは、隣で紙を指す声へ耳を傾けた。




