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第八章 あなたの隣の、深緑

 館へ来た日には、三ヶ月は長いと思っていた。


 ところが、ひと月が過ぎてみると、まだ覚えたいことも、見たい場所もたくさんあった。


 商会では、送り状を書く手が早くなった。搬入口で誰に声をかければよいかも、少しずつ分かってきた。


 館へ戻れば、ブランが迎えてくれる。


 夕食で侯爵と顔を合わせ、時間が合えば、お茶を囲む。


 彼が空いたカップを差し出すと、ニナは自然にポットへ手を伸ばした。好みの濃さを、尋ね直す必要もなくなっていた。


 そんな夕方のことだった。


「閣下。こちらのご返答は、明後日までとなっております」


 リュシアンが卓へ置いたのは、厚い紙で作られた招待状だった。


 金色の縁取りの中に、舞踏会の文字が見える。


 侯爵は表紙へ指を置いた。


「……分かっている」


「ご出席でよろしいでしょうか」


「その予定だ」


「では、同伴者のお名前は」


 指先が止まった。


 ニナは、カップを静かに置いた。侯爵が舞踏会へ出席することは、少し前に耳にしていた。けれど、詳しい話を聞くのは初めてだった。


「……同伴者、か」


 彼は椅子の背へ身を預けた。


「俺の隣に立ち、あの長い挨拶の列を乗り切れる者など、そう多くはないからな」


「お決まりでなければ、お一人でご出席とお返事を」


「待て」


 即座に声が飛んだ。


 ニナまで背筋を伸ばすと、侯爵はこちらを見た。


 一度、目が逸らされる。


 それから、また戻ってきた。


「……ニナ」


「はい」


「お前は、この街で商売を学びに来たのだったな」


「はい。おかげさまで、毎日いろいろと勉強させていただいております」


「ならば、商会の中だけでは分からぬことを知る機会も、必要だろう」


 彼は招待状を持ち上げた。


「二週間後の舞踏会には、各地の貴族や、商会と関わりのある者も集まる。挨拶を交わしておけば、今後、役に立つこともあるはずだ」


「……私も、伺ってよろしいのですか?」


「俺の同伴者であれば、問題はない」


 そこで一度、言葉が止まった。


 侯爵は紙へ目を落とし、改めてニナを見る。


「……どうだ。俺と、行くか」


 自分が、侯爵の隣に立つ。


 いつもの食卓でも、庭でもない。大勢の人が集まる、華やかな場所で。


 胸が、小さく跳ねた。


「お誘いいただけて、とても嬉しいです。でも……男爵家の娘の私がご一緒して、侯爵様のご迷惑にはなりませんか?」


「ならん」


 今度の返事には、間がなかった。


「同伴者として招いて差し支えないことは、確かめてある。お前が礼儀を知らぬ娘でないことも、俺は知っている」


 彼は卓へ招待状を戻した。


「俺から誘っておいて、お前を迷惑だなどと言うはずがなかろう」


 ニナは、膝の上で重ねていた手を緩めた。


「……よかったです」


 ほっとして微笑むと、侯爵はまた少し黙った。


「では、ぜひご一緒させてください。作法も、改めて確かめておきたいです。侯爵様のお隣で、慌てずにご挨拶できるように」


「……ああ。必要なことは、リュシアンに確認しろ」


 彼は頷き、喉を鳴らした。


「衣装についても、手配する。もっとも、好みも聞かずに決めるつもりはないが」


「閣下。候補としてお選びになった三点の絵図は、仕立屋へ渡しておきましょうか」


「リュシアン」


「好みをお伺いするための、候補でございますね」


「……そう言っている」


 ニナは思わず笑った。


 衣装のことまで、考えてくれていたらしい。


「ありがとうございます。拝見するのを、楽しみにしております」


「礼は、当日が無事に終わってからでいい」


 けれど、ニナが部屋を出るときには、呼び止める声がした。


「……ニナ」


 振り返ると、彼は招待状を手にしていた。


「二週間後だ。ほかの予定は、入れるなよ」


「はい。覚えております」


 忘れるはずもなかった。


 部屋へ戻る廊下で、ニナは一人、もう一度微笑んだ。


     *


 扉が閉まっても、ヴァレンティンは、しばらくそちらを見ていた。


 リュシアンは返書の用意を始めたが、主からの指示は、なかなか下りてこなかった。


「……喜んでいたな」


「ええ」


「無理に返事をさせたわけでは、ないだろうな」


「ご心配でしたら、昨夜お考えになっていた通りにお尋ねになればよかったのでは。『俺と一緒に来てくれるか』と」


 ヴァレンティンが振り向いた。


「……聞こえていたのか」


「書類をお届けに上がった際に、少々」


「忘れろ」


「承知いたしました」


 リュシアンは便箋へ日付を記した。


「ニナ様が心配されていたのは、ご自分が同伴してよいかということでしょう。閣下とご一緒することを、ためらっていらしたのではないと思います」


 ヴァレンティンは何も答えなかった。


 ただ、招待状を卓へ置く手つきが、先ほどよりも穏やかになった。


「……仕立屋には、歩きやすいものをと伝えておけ。裾で転ぶようでは困る」


「その点は、すでに三度伺っております」


「ならば、間違いなく伝わっているな」


「ええ。十分に」


 リュシアンは返書へ目を戻した。


 主の口元が緩んでいることには、何も言わなかった。


     *


 数日後、館へ仕立屋がやって来た。


 客間には見本の衣装と生地が運び込まれ、窓辺に大きな鏡が据えられた。


 候補として広げられたのは、三つの色だった。


 柔らかなクリーム色。


 春の若葉を思わせる、淡い緑。


 そして、森の木陰のような、深い緑。


 好みのものを試してから、寸法や細部を調整するのだという。


 侯爵は少し離れた場所で、腕を組んでいた。


「気に入らなければ、ほかにも生地はある。これで決めねばならぬということはない」


「どれも、とても綺麗です」


 ニナは深緑の生地へ手を伸ばした。


 光を受けると、濃い色の中に滑らかな艶が現れる。見本の衣装に添えられた刺繍は、小さな葉を重ねたものだった。


「こちらは、普段も好きで着る色なので、落ち着きます」


 侯爵が頷く。


「……そうだろうな」


「試着してみても、よろしいでしょうか」


「もちろんです。どうぞ、こちらへ」


 仕立屋に促され、ニナは隣室へ向かった。


 扉の手前で、声が追いかけてくる。


「苦しければ、すぐに言え。立っているときだけ似合っても意味はない。座れて、歩けるものにしろ」


 仕立屋は慣れた様子で一礼した。


「承っております、侯爵様」


 ニナは胸のあたりが温かくなるのを感じながら、扉の向こうへ入った。


 衣装を着せてもらい、身体に合わせて生地を仮留めしてもらう。


 鏡の中に、見慣れた自分がいた。


 けれど、いつもとは少し違う。


 肩から腰へ沿った生地に触れ、それから、裾を持って歩いてみた。深緑が、静かに揺れる。


「お加減はいかがですか」


「はい。苦しくありません」


 椅子へ座り、立ち上がって、もう一度鏡を見た。


 侯爵様には、どう見えるだろう。


 そのことを考えると、先ほどまで気にならなかった襟元を、そっと確かめたくなった。


     *


 扉が開くと、侯爵はすぐに顔を上げた。


「お待たせいたしました」


 客間へ戻っても、返事はなかった。


 彼は椅子の肘掛けへ手を置いたまま、ニナを見ている。


 ニナは数歩進み、足を止めた。


「……いかがでしょうか」


 ようやく、彼の指が動いた。


「その色で、正解だな」


「本当ですか?」


「ああ。瞳の色も、よく映える」


 思いがけず、率直な言葉だった。


 ニナが頬を緩めると、侯爵は姿勢を正した。


「当然、候補に入れた時点で分かっていたことだがな。生地の艶も、刺繍の加減も……」


 視線が、ニナの顔へ戻る。


 そこで、説明が止まった。


「……非常に、よく似合っている」


 小さな声だったが、はっきり聞こえた。


 ニナは、生地を摘まんでいた指を緩めた。


 鏡で見たときより、ずっと、この衣装が好きになった。


「ありがとうございます。私、こちらがいいです」


 侯爵が頷く。


 その顔を見ているうちに、ニナはふと、確かめたくなった。


「あの。お隣に、並んでみてもよろしいでしょうか」


「……隣に?」


「はい。当日、どんなふうに見えるのか、拝見したくて」


 彼は一度リュシアンを見た。


 側近は、別の衣装掛けへ手を伸ばしていた。


「閣下の礼装も、お持ちしております」


「……用意がいいことだ」


「仕立屋がお越しですので」


 黒い上着の襟と袖には、深紅の刺繍が施されていた。


 侯爵が羽織ると、普段よりも肩の線が際立って見えた。


 今度は、ニナが少しの間、黙ってしまった。


「……どうした」


「とても、お似合いです」


「そうか」


 それだけ答えた彼の耳が、わずかに赤かった。


 侯爵は鏡の前へ立ち、右腕を差し出した。


「来い。当日の確認だ」


 ニナは隣へ進み、その腕へ指を添えた。


 鏡の中で、黒と深紅の隣に、深緑が並ぶ。


 見上げると、鏡越しに目が合った。


「……綺麗ですね」


 侯爵も鏡を見て、小さく頷いた。


「悪くない」


 腕に添えた手へ、反対の手がそっと重なった。


「緊張しているのか」


「……はい。少し」


「まだ、会場にも着いていないぞ」


「そうなのですが……」


 言いかけて、口を閉じた。


 鏡の中の自分が、彼の隣で、嬉しそうな顔をしている。


 それを本人にも見られていると思うと、急に恥ずかしくなった。


「……当日も、このくらい近くにいて、よろしいですか」


 侯爵の手が、一瞬止まった。


「ああ」


 返事は、先ほどより低かった。


「お前が困ったときに、すぐ気づけるところにいる」


 ニナは鏡から目を離し、彼を見上げた。


「……心強いです」


「ならば、いい」


 彼はニナを見下ろしていたが、やがて、重ねていた手を離した。


「その前に、裾の長さを確かめねばな。歩いてみろ。俺も合わせる」


 鏡の前から、窓辺まで。


 ニナが一歩進むと、彼も一緒に歩き出した。


 足を急がせる必要はなかった。


     *


 仕立屋が裾へ印をつけている間に、ダンスの話になった。


「作法は習いましたが、人の多い場所で踊るのは、久しぶりなんです」


 ニナが言うと、侯爵はあっさり頷いた。


「ならば、練習すればよい」


「お付き合いいただけますか?」


「俺と出席するのだろう。ほかの誰と練習するつもりだ」


 その言い方に、ニナは笑った。


「では、お願いいたします。足を踏まないように、頑張ります」


「万一踏んでも、慌てて足元を見るな。余計に合わなくなる」


「……踏むこと自体は、よろしいのですか?」


「よくはないが、立ち止まって転ぶよりはいい」


 侯爵は真面目に答えた。


 衣装の調整を終え、普段の服へ着替えて戻ると、客間の中央には、もう場所が空けられていた。


 リュシアンが椅子を一脚、脇へ寄せる。


「まずは音楽なしで、足運びを確かめられてはいかがでしょう。拍子は私が取ります」


 侯爵が、ニナへ手を差し出した。


 自分の手を重ねると、彼が一歩近づく。


 背に、もう片方の手が添えられた。


「ここで構わんか」


「……はい」


 リュシアンの数える声に合わせ、二人はゆっくり動き始めた。


 初めの数歩は、習った順を思い出すので精一杯だった。


 けれど、彼の手が進む方向を教えてくれる。急がずに待ってくれるので、次の一歩も落ち着いて踏み出せた。


「下を見すぎるな」


「はい」


 顔を上げると、すぐ近くに彼がいた。


 今度は、順番を忘れそうになる。


「……難しいか」


「いえ。大丈夫です」


 答えた声が、自分でも少し頼りなかった。


 侯爵は口元を緩め、いったん足を揃えた。


「ならば、同じところをもう一度だ」


 踏み出して、向きを変える。


 次は、先ほどより滑らかに動けた。


 ニナが息をつくと、彼も頷いた。


「できている」


「侯爵様が、合わせてくださるので」


「二人で踊るのだから、当然だろう」


 何でもないことのように言われて、ニナは繋いだ手を見そうになった。


 けれど、今度は下を向かなかった。


 目の前の彼へ微笑む。


「当日が、楽しみです」


 足運びが、ほんのわずか乱れた。


 彼もすぐに歩調を整えたが、リュシアンの拍子だけは、少しも変わらなかった。


「……楽しみにしていろ」


 侯爵は言った。


「最初の一曲は、俺が相手をする」


「はい」


 ニナは、少し考えてから尋ねた。


「では、最後の一曲も、お願いしてよろしいでしょうか」


 彼の目が、まっすぐこちらへ向いた。


 今度は、足を止めなかった。


「……ああ。約束しよう」


 その答えを聞くと、知らない広間を少しだけ、思い浮かべられた。


 大勢の人がいて、音楽があって、深緑の裾が揺れる。


 そこでも、今と同じ手を取れる。


 ニナは、次の一歩を踏み出した。


 深緑のドレスを着る日が、待ち遠しかった。

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