第九章 最初と最後の一曲
約束の日、ニナは鏡の前で、もう一度襟元を確かめた。
深緑のドレスには、試着のときよりも細やかな葉の刺繍が施されていた。裾は歩く邪魔にならない長さに整えられ、身体の向きを変えるたび、軽やかに揺れる。
亜麻色の髪には、小さな髪飾りを添えてもらった。
派手すぎないだろうか。
反対に、地味すぎないだろうか。
何度見ても、答えが変わる気がした。
「ニナ様。閣下がお待ちです」
扉の向こうから呼ばれ、ニナは息を吸った。
「はい。参ります」
階段の下に、黒と深紅の礼装が見えた。
侯爵はリュシアンと話していたが、すぐにこちらへ顔を上げた。
それきり、動かなくなった。
ニナは手すりに指を添え、一段ずつ下りる。
下まで来ても、彼は黙っていた。
「……お待たせいたしました。どこか、おかしなところはございませんか?」
侯爵は、一度だけ深く息をついた。
「ない」
ニナがほっとすると、彼は顔を背け、襟元を整えた。
「その問いは、仕立屋にもしたのだろう」
「はい。でも、侯爵様にも、見ていただきたくて」
「ならば、俺の答えを信じろ。何も直す必要はない」
向き直った彼が、腕を差し出す。
ニナが手を添えると、近くで小さな息が聞こえた。
「……よく似合っている」
思わず見上げたが、彼はもう玄関へ目を向けていた。
リュシアンが扉を開ける。
冷たい夜気の向こうで、馬車の灯りが揺れていた。
*
車輪が石畳を踏む音を、ニナは膝の上で指を重ねながら聞いていた。
向かいには侯爵が座っている。
「まだ、気になるところがあるのか」
「いえ。楽しみなのですが、少し緊張してしまって」
「挨拶は、俺と一緒にすればいい。名前を紹介されたら、習った通りに礼をしろ」
「はい」
「分からぬ話題に、分かったふりをする必要もない」
初めて商会へ行く朝にも、聞いた言葉だった。
ニナは顔を上げた。
「……侯爵様がご一緒だと、どこへでも伺えそうです」
「あまり、無茶な場所を選ぶなよ」
「はい。今日は、舞踏会だけで」
侯爵が、こらえきれなかったように笑った。
その顔を見たら、ニナの肩からも力が抜けた。
「……楽しんでこい。せっかくの衣装だ。会場の隅で縮こまっていることはない」
「侯爵様も、楽しんでくださいますか?」
彼は少し黙り、ニナの膝の上にある手へ目を落とした。
やがて、大きな手が差し出される。
ニナは、自分からその上へ手を置いた。
「……俺も、そのつもりで来た」
包まれた指先が温かくなる。
窓の外の灯りが、次第に増えていった。
会場へ続く馬車の列へ入る頃、侯爵はニナの手を一度だけ握った。
「さあ。今夜は、存分に咲き誇れ」
ニナは微笑んだ。
「では、お隣で」
彼が返事をするまでに、少しだけ間があった。
*
広間には、幾つもの燭台が輝いていた。
磨かれた床。高い天井。花を飾った卓。
人々の話し声の向こうから、弦の音が聞こえてくる。
侯爵の腕へ添えた指に、知らず力がこもった。
彼は歩調を緩める。
「……大丈夫か」
「はい。綺麗で、驚いてしまって」
「ならば、よく見ておけ。あとで菓子のことしか思い出せぬ、などと言うなよ」
「お菓子も、楽しみですが」
「知っている」
ニナは笑い、背筋を伸ばした。
挨拶は、思っていたより落ち着いてできた。
侯爵は相手に応じて言葉を選び、ニナの名と、商会で学んでいることを紹介してくれた。
誰かが家業について尋ねれば、すぐに代わって答えるのではなく、ニナへ顔を向ける。
そのたびに、ニナも口を開いた。
幾組かとの挨拶を終えたところで、一人の男性が近づいてきた。
「ローゼンヴァルト侯爵。お目にかかれて嬉しいですよ」
「公爵殿。こちらこそ、光栄に存じます」
侯爵の声が、少し改まった。
ニナも隣で礼をする。
公爵は穏やかに頷き、紹介されたニナへ微笑んだ。
「ベルネット商会。街道沿いの宿へ、品物を届けていらっしゃるところですね」
「はい。ご存じいただけて、光栄です」
「道中の宿で、お話を伺ったことがあります。定期的に必要な品が届くのは、ありがたいと。今は、リーヴェンで実務を?」
「はい。まだ、教えていただくことばかりですが」
「では、あなたからも、お仕事の話を伺いたいものです」
ニナが答える前に、楽団の音が変わった。
広間の中央へ、人々が動き始める。
「まずは、今夜をお楽しみください」
公爵が一礼して離れると、侯爵はその背を見送った。
ニナは腕から手を離した。
こちらを向いた彼へ、練習した通りに礼をする。
「侯爵様。私と、踊っていただけますか」
彼の目が、わずかに大きくなった。
それから、差し出した手が丁寧に取られた。
「……最初の一曲は、俺のものだったな」
「はい。約束です」
侯爵は微笑んだ。
今度は、目を逸らさなかった。
*
練習よりも、音が多かった。
楽団の旋律に、衣擦れと、人々の足音が重なる。
けれど、背に添えられた手も、握られた指の感触も覚えていた。
「下を見るな」
「……はい」
「ここだ」
顔を上げると、赤い瞳があった。
ニナは息を整え、一歩を踏み出す。
練習で迷ったところを、彼の手が教えてくれた。
進んで、向きを変える。深緑の裾が広がっても、足元を見ずにいられた。
「……できている」
ニナにだけ聞こえる声がした。
嬉しくて笑うと、侯爵も少し表情を和らげる。
「どうだ。怖いか」
「いいえ。練習より、楽しいです」
彼の指が、ほんの少し握り返してきた。
「……そうか」
回転すると、いくつもの灯りが視界の端を流れた。
その中で、彼の顔だけが、はっきり見えていた。
*
一曲を踊り終え、壁際で飲み物を受け取ったときだった。
「素晴らしい一曲でしたね」
公爵が、再び声をかけてきた。
ニナはグラスを持ち直して、礼をする。
「ありがとうございます」
「ベルネット令嬢。十分にお休みになったあとで構いません。よろしければ、私とも一曲、お相手いただけませんか」
ニナが顔を上げる。
その隣で、侯爵が動いた。
「公爵殿。今、踊り終えたばかりでして」
「ええ。ですので、休憩のあとにと」
公爵は穏やかに答えた。
侯爵が口を閉じる。
ニナは二人を見比べた。
少し休めば、また踊れそうだった。家の商会を知ってくれていた公爵とも、もう少し話してみたい。
けれど、侯爵の表情が気になった。
「何か、差し支えがございますか?」
「差し支え、というほどではないが……」
彼はニナを見た。
声が、少し低くなる。
「お前を、そう簡単に、ほかの男へ貸し出すわけには」
ニナは瞬きをした。
それから少し近づき、声を落とす。
「あの。私は、お貸しするものではございませんよ」
侯爵の言葉が止まった。
「……分かっている」
「公爵様のお話も、伺ってみたいんです。お返事は、私からいたしますね」
彼は、すぐには頷かなかった。
けれど、ニナから目を逸らすこともしなかった。
「……ああ。今の言い方は、よくなかった」
短い返事があった。
「誰と踊るかは、お前が決めろ」
ニナは頷き、公爵へ向き直った。
「少し休ませていただいたあとで、ぜひ。私でよろしければ、お相手させてください」
公爵は丁寧に一礼した。
「光栄です」
休憩の間も、侯爵はそばにいた。
けれど、いつものような言葉は、あまり出てこなかった。
次の曲に向けてニナがグラスを置くと、彼はこちらを見た。
「……最後の一曲は、忘れるなよ」
「もちろんです」
ニナは、まっすぐ答えた。
*
公爵のリードは、穏やかで分かりやすかった。
初めの一歩に迷っても、さりげなく合わせてくれる。
「侯爵とは、長いお付き合いなのですか」
「家同士では、以前から取引がございます。ですが、こうしてお世話になっているのは、ひと月あまりです」
「そうでしたか。あの方が、ご令嬢を伴って舞踏会へいらっしゃるのは、珍しいことですから」
ニナは目を上げた。
「よい滞在をされているのでしょうね」
「……はい。とても」
自然に答えが出た。
食卓のこと。ブランのこと。庭の花のこと。
何を話そうか迷っていると、公爵は商会での仕事について尋ねてくれた。
「宿へ届ける品は、季節でも変わるのでしょうね」
「はい。冬が近づくと、保存の利く食品や、灯りに使う品が増えます。前の年の記録も、見せていただいています」
「各地の宿からも、話を集めておられるのですか」
「父たちは、そうしていると思います。私は、まだ……」
言いかけて、考えた。
納めた数だけでなく、いつ品薄になったかも分かれば、次の年の手配に役立つかもしれない。
そうしたことも、記録されているのだろうか。
帰ったら、先輩に尋ねてみたい。
そして、侯爵様にも。
ふと、広間の端へ目が向いた。
黒と深紅の姿が、すぐに見つかった。
リュシアンと並んでいる。
こちらを見ていた彼と、一瞬、目が合った。
ニナは、思わず微笑んだ。
*
「閣下」
リュシアンの声で、ヴァレンティンは我に返った。
「……何だ」
「グラスが傾いております」
果実水が、縁に近づいていた。
彼は黙って、グラスを立て直す。
公爵は、何も悪いことをしていない。
無理に連れ出したわけでも、ニナを困らせているわけでもない。
それが分かるから、余計に行き場がなかった。
彼女は、楽しそうに話している。
何の話だろう。
こちらを見て笑った、あの顔のまま、公爵にも笑いかけるのだろうか。
「……長い曲だな」
「先ほど閣下が踊られた曲よりは、短うございます」
リュシアンはそれだけ答え、通りかかった給仕へ声をかけた。
ニナのための果実水が、一杯用意される。
ヴァレンティンは自分のグラスを卓へ置き、そちらを受け取った。
もう一度こちらを見てくれないかと、思ってしまう。
待つのが強者の余裕などと、よく言えたものだった。
*
曲が終わると、公爵は壁際までニナを送り届けてくれた。
「お相手いただき、ありがとうございました。また、お仕事の話も伺わせてください」
「こちらこそ、ありがとうございました」
ニナが礼をすると、公爵は侯爵へも会釈し、ほかの客人たちの方へ戻っていった。
見送ってから振り返る。
侯爵は、すぐ隣にいた。
「……戻ったか」
「はい」
差し出された果実水を、両手で受け取る。
「ありがとうございます。ちょうど、喉が渇いていたんです」
「だろうと思った」
ニナが一口飲むと、彼の肩が少し下がった。
「……公爵とは、何を話した」
「商会の仕事や、宿へ届ける品のことを。とてもご親切に聞いてくださいました」
「そうか」
「でも、途中で侯爵様を探してしまいました」
彼がこちらを見る。
「何かあったのか」
「いいえ。お顔が見えたら、安心したんです。それに、お話ししたいことができたので」
「……俺に?」
「はい。宿への物資のことで、思いついたことがあるんです。まだ、考えがまとまっていないのですが」
「聞く」
あまりに早い返事に、ニナは笑った。
「明日、お時間のあるときに、お願いしてもよろしいですか。今夜は、もう少し、舞踏会のお話もしたいです」
「……ああ。明日、聞かせろ」
彼の顔に、いつもの食卓で見る表情が戻った。
ニナも、先ほどより近くに立った。
今日会った人のことも、広間で見たものも、話したい。
戻ってきてからの時間が、また、楽しみになっていた。
*
夜が更けるにつれ、広間の空気は少しずつ落ち着いていった。
何人かと挨拶を交わし、菓子を味わい、侯爵から、かつての交易の話を聞いた。
リュシアンはジンジャーの利いた焼き菓子を、早々に見つけていた。
「館のものと、どちらがお好きですか?」
「難しいご質問ですね。比較には、もう一つ必要かもしれません」
「十分に比較しているだろう」
侯爵が呆れたように言う。
そのやり取りに笑っていると、楽団が最後の曲を奏で始めた。
ニナが顔を向けるより先に、侯爵がグラスを置いた。
「……約束の時間だ」
手が差し出される。
ニナは、迷わずその手を取った。
*
最初の一曲より、楽に動けた。
けれど、胸の鼓動は静かにならなかった。
背を支える手に合わせて進み、向きを変える。少し迷っても、彼の顔を見れば、次の一歩を踏み出せた。
「今夜は、どうだった」
「とても、楽しかったです」
「……ならば、よかった」
「侯爵様は?」
彼はすぐには答えなかった。
ゆっくりと旋回する間、燭台の光が、その横顔を照らした。
「……終わるのが、惜しい」
ニナは、握った手に少し力を込めた。
「私も、もう少し踊っていたいです」
彼がこちらを見る。
「ニナ。お前が、俺の館を……」
途中で、声が止まった。
ニナは顔を上げたまま、待った。
彼は一度目を伏せ、小さく息をつく。
「……いや。今は、この一曲だ」
支える手が、少し近づいた。
ニナはその先を尋ねず、彼と一緒に最後の旋律を辿った。
音が終わっても、すぐには手を離したくなかった。
*
帰りの馬車で、ニナは窓の外へ目を向けていた。
灯りの多い通りを抜けると、広間の音楽も、遠いことのように思えた。
けれど、最後に繋いだ手の温かさは、まだ残っている。
ニナは向かいを見た。
「……先ほど、何を仰りかけたのですか?」
侯爵が窓から顔を戻す。
「最後の曲で、です。館のことを」
彼の指が、膝の上で組み合わされた。
「……お前が帰ったあとも、こういう話をする機会は、作らねばならんなと思っただけだ」
帰ったあと。
ニナは、その言葉を心の中で繰り返した。
まだ先のことだと思っていた。
毎日、商会へ出かけて、館へ戻る。
そうしている間にも、帰る日は近づいてくる。
「……寂しく、なりますね」
声にしてから、自分でも少し驚いた。
「一日のことを、侯爵様にお話しするのが、当たり前になってしまって」
侯爵は黙っていた。
灯りが揺れ、彼の横顔に影が落ちる。
「……手紙を、書けばいい」
やがて、低い声がした。
「家へ戻ってからも、話すことはあるだろう。何を学んで、どう使ったのか。俺にも知らせろ」
「お返事も、いただけますか?」
「無論だ」
ニナは微笑んだ。
「では、書きます。毎日は難しいかもしれませんが、お話ししたいことを、忘れないように」
彼は頷いた。
「庭の様子も、知らせてやる」
「ブランちゃんのお話も、お願いします」
「あいつは、毎日同じことをしているぞ」
「それでも、知りたいです」
侯爵が少し笑った。
それから、ニナの手のそばへ、彼の手が伸びる。
触れる手前で止まったので、ニナは自分から指先を重ねた。
「……まだ、時間はあります」
彼が目を上げる。
「明日も、お話しできますから」
「ああ」
今度は、すぐに答えがあった。
彼の手が、ニナの手を包む。
「明日は、今夜の続きを聞く」
ニナは頷いた。
馬車の窓の向こうに、見慣れた丘が現れる。
その上で待つ館の灯りへ、二人は一緒に帰っていった。




