↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
11/15

第九章 最初と最後の一曲

 約束の日、ニナは鏡の前で、もう一度襟元を確かめた。


 深緑のドレスには、試着のときよりも細やかな葉の刺繍が施されていた。裾は歩く邪魔にならない長さに整えられ、身体の向きを変えるたび、軽やかに揺れる。


 亜麻色の髪には、小さな髪飾りを添えてもらった。


 派手すぎないだろうか。


 反対に、地味すぎないだろうか。


 何度見ても、答えが変わる気がした。


「ニナ様。閣下がお待ちです」


 扉の向こうから呼ばれ、ニナは息を吸った。


「はい。参ります」


 階段の下に、黒と深紅の礼装が見えた。


 侯爵はリュシアンと話していたが、すぐにこちらへ顔を上げた。


 それきり、動かなくなった。


 ニナは手すりに指を添え、一段ずつ下りる。


 下まで来ても、彼は黙っていた。


「……お待たせいたしました。どこか、おかしなところはございませんか?」


 侯爵は、一度だけ深く息をついた。


「ない」


 ニナがほっとすると、彼は顔を背け、襟元を整えた。


「その問いは、仕立屋にもしたのだろう」


「はい。でも、侯爵様にも、見ていただきたくて」


「ならば、俺の答えを信じろ。何も直す必要はない」


 向き直った彼が、腕を差し出す。


 ニナが手を添えると、近くで小さな息が聞こえた。


「……よく似合っている」


 思わず見上げたが、彼はもう玄関へ目を向けていた。


 リュシアンが扉を開ける。


 冷たい夜気の向こうで、馬車の灯りが揺れていた。


     *


 車輪が石畳を踏む音を、ニナは膝の上で指を重ねながら聞いていた。


 向かいには侯爵が座っている。


「まだ、気になるところがあるのか」


「いえ。楽しみなのですが、少し緊張してしまって」


「挨拶は、俺と一緒にすればいい。名前を紹介されたら、習った通りに礼をしろ」


「はい」


「分からぬ話題に、分かったふりをする必要もない」


 初めて商会へ行く朝にも、聞いた言葉だった。


 ニナは顔を上げた。


「……侯爵様がご一緒だと、どこへでも伺えそうです」


「あまり、無茶な場所を選ぶなよ」


「はい。今日は、舞踏会だけで」


 侯爵が、こらえきれなかったように笑った。


 その顔を見たら、ニナの肩からも力が抜けた。


「……楽しんでこい。せっかくの衣装だ。会場の隅で縮こまっていることはない」


「侯爵様も、楽しんでくださいますか?」


 彼は少し黙り、ニナの膝の上にある手へ目を落とした。


 やがて、大きな手が差し出される。


 ニナは、自分からその上へ手を置いた。


「……俺も、そのつもりで来た」


 包まれた指先が温かくなる。


 窓の外の灯りが、次第に増えていった。


 会場へ続く馬車の列へ入る頃、侯爵はニナの手を一度だけ握った。


「さあ。今夜は、存分に咲き誇れ」


 ニナは微笑んだ。


「では、お隣で」


 彼が返事をするまでに、少しだけ間があった。


     *


 広間には、幾つもの燭台が輝いていた。


 磨かれた床。高い天井。花を飾った卓。


 人々の話し声の向こうから、弦の音が聞こえてくる。


 侯爵の腕へ添えた指に、知らず力がこもった。


 彼は歩調を緩める。


「……大丈夫か」


「はい。綺麗で、驚いてしまって」


「ならば、よく見ておけ。あとで菓子のことしか思い出せぬ、などと言うなよ」


「お菓子も、楽しみですが」


「知っている」


 ニナは笑い、背筋を伸ばした。


 挨拶は、思っていたより落ち着いてできた。


 侯爵は相手に応じて言葉を選び、ニナの名と、商会で学んでいることを紹介してくれた。


 誰かが家業について尋ねれば、すぐに代わって答えるのではなく、ニナへ顔を向ける。


 そのたびに、ニナも口を開いた。


 幾組かとの挨拶を終えたところで、一人の男性が近づいてきた。


「ローゼンヴァルト侯爵。お目にかかれて嬉しいですよ」


「公爵殿。こちらこそ、光栄に存じます」


 侯爵の声が、少し改まった。


 ニナも隣で礼をする。


 公爵は穏やかに頷き、紹介されたニナへ微笑んだ。


「ベルネット商会。街道沿いの宿へ、品物を届けていらっしゃるところですね」


「はい。ご存じいただけて、光栄です」


「道中の宿で、お話を伺ったことがあります。定期的に必要な品が届くのは、ありがたいと。今は、リーヴェンで実務を?」


「はい。まだ、教えていただくことばかりですが」


「では、あなたからも、お仕事の話を伺いたいものです」


 ニナが答える前に、楽団の音が変わった。


 広間の中央へ、人々が動き始める。


「まずは、今夜をお楽しみください」


 公爵が一礼して離れると、侯爵はその背を見送った。


 ニナは腕から手を離した。


 こちらを向いた彼へ、練習した通りに礼をする。


「侯爵様。私と、踊っていただけますか」


 彼の目が、わずかに大きくなった。


 それから、差し出した手が丁寧に取られた。


「……最初の一曲は、俺のものだったな」


「はい。約束です」


 侯爵は微笑んだ。


 今度は、目を逸らさなかった。


     *


 練習よりも、音が多かった。


 楽団の旋律に、衣擦れと、人々の足音が重なる。


 けれど、背に添えられた手も、握られた指の感触も覚えていた。


「下を見るな」


「……はい」


「ここだ」


 顔を上げると、赤い瞳があった。


 ニナは息を整え、一歩を踏み出す。


 練習で迷ったところを、彼の手が教えてくれた。


 進んで、向きを変える。深緑の裾が広がっても、足元を見ずにいられた。


「……できている」


 ニナにだけ聞こえる声がした。


 嬉しくて笑うと、侯爵も少し表情を和らげる。


「どうだ。怖いか」


「いいえ。練習より、楽しいです」


 彼の指が、ほんの少し握り返してきた。


「……そうか」


 回転すると、いくつもの灯りが視界の端を流れた。


 その中で、彼の顔だけが、はっきり見えていた。


     *


 一曲を踊り終え、壁際で飲み物を受け取ったときだった。


「素晴らしい一曲でしたね」


 公爵が、再び声をかけてきた。


 ニナはグラスを持ち直して、礼をする。


「ありがとうございます」


「ベルネット令嬢。十分にお休みになったあとで構いません。よろしければ、私とも一曲、お相手いただけませんか」


 ニナが顔を上げる。


 その隣で、侯爵が動いた。


「公爵殿。今、踊り終えたばかりでして」


「ええ。ですので、休憩のあとにと」


 公爵は穏やかに答えた。


 侯爵が口を閉じる。


 ニナは二人を見比べた。


 少し休めば、また踊れそうだった。家の商会を知ってくれていた公爵とも、もう少し話してみたい。


 けれど、侯爵の表情が気になった。


「何か、差し支えがございますか?」


「差し支え、というほどではないが……」


 彼はニナを見た。


 声が、少し低くなる。


「お前を、そう簡単に、ほかの男へ貸し出すわけには」


 ニナは瞬きをした。


 それから少し近づき、声を落とす。


「あの。私は、お貸しするものではございませんよ」


 侯爵の言葉が止まった。


「……分かっている」


「公爵様のお話も、伺ってみたいんです。お返事は、私からいたしますね」


 彼は、すぐには頷かなかった。


 けれど、ニナから目を逸らすこともしなかった。


「……ああ。今の言い方は、よくなかった」


 短い返事があった。


「誰と踊るかは、お前が決めろ」


 ニナは頷き、公爵へ向き直った。


「少し休ませていただいたあとで、ぜひ。私でよろしければ、お相手させてください」


 公爵は丁寧に一礼した。


「光栄です」


 休憩の間も、侯爵はそばにいた。


 けれど、いつものような言葉は、あまり出てこなかった。


 次の曲に向けてニナがグラスを置くと、彼はこちらを見た。


「……最後の一曲は、忘れるなよ」


「もちろんです」


 ニナは、まっすぐ答えた。


     *


 公爵のリードは、穏やかで分かりやすかった。


 初めの一歩に迷っても、さりげなく合わせてくれる。


「侯爵とは、長いお付き合いなのですか」


「家同士では、以前から取引がございます。ですが、こうしてお世話になっているのは、ひと月あまりです」


「そうでしたか。あの方が、ご令嬢を伴って舞踏会へいらっしゃるのは、珍しいことですから」


 ニナは目を上げた。


「よい滞在をされているのでしょうね」


「……はい。とても」


 自然に答えが出た。


 食卓のこと。ブランのこと。庭の花のこと。


 何を話そうか迷っていると、公爵は商会での仕事について尋ねてくれた。


「宿へ届ける品は、季節でも変わるのでしょうね」


「はい。冬が近づくと、保存の利く食品や、灯りに使う品が増えます。前の年の記録も、見せていただいています」


「各地の宿からも、話を集めておられるのですか」


「父たちは、そうしていると思います。私は、まだ……」


 言いかけて、考えた。


 納めた数だけでなく、いつ品薄になったかも分かれば、次の年の手配に役立つかもしれない。


 そうしたことも、記録されているのだろうか。


 帰ったら、先輩に尋ねてみたい。


 そして、侯爵様にも。


 ふと、広間の端へ目が向いた。


 黒と深紅の姿が、すぐに見つかった。


 リュシアンと並んでいる。


 こちらを見ていた彼と、一瞬、目が合った。


 ニナは、思わず微笑んだ。


     *


「閣下」


 リュシアンの声で、ヴァレンティンは我に返った。


「……何だ」


「グラスが傾いております」


 果実水が、縁に近づいていた。


 彼は黙って、グラスを立て直す。


 公爵は、何も悪いことをしていない。


 無理に連れ出したわけでも、ニナを困らせているわけでもない。


 それが分かるから、余計に行き場がなかった。


 彼女は、楽しそうに話している。


 何の話だろう。


 こちらを見て笑った、あの顔のまま、公爵にも笑いかけるのだろうか。


「……長い曲だな」


「先ほど閣下が踊られた曲よりは、短うございます」


 リュシアンはそれだけ答え、通りかかった給仕へ声をかけた。


 ニナのための果実水が、一杯用意される。


 ヴァレンティンは自分のグラスを卓へ置き、そちらを受け取った。


 もう一度こちらを見てくれないかと、思ってしまう。


 待つのが強者の余裕などと、よく言えたものだった。


     *


 曲が終わると、公爵は壁際までニナを送り届けてくれた。


「お相手いただき、ありがとうございました。また、お仕事の話も伺わせてください」


「こちらこそ、ありがとうございました」


 ニナが礼をすると、公爵は侯爵へも会釈し、ほかの客人たちの方へ戻っていった。


 見送ってから振り返る。


 侯爵は、すぐ隣にいた。


「……戻ったか」


「はい」


 差し出された果実水を、両手で受け取る。


「ありがとうございます。ちょうど、喉が渇いていたんです」


「だろうと思った」


 ニナが一口飲むと、彼の肩が少し下がった。


「……公爵とは、何を話した」


「商会の仕事や、宿へ届ける品のことを。とてもご親切に聞いてくださいました」


「そうか」


「でも、途中で侯爵様を探してしまいました」


 彼がこちらを見る。


「何かあったのか」


「いいえ。お顔が見えたら、安心したんです。それに、お話ししたいことができたので」


「……俺に?」


「はい。宿への物資のことで、思いついたことがあるんです。まだ、考えがまとまっていないのですが」


「聞く」


 あまりに早い返事に、ニナは笑った。


「明日、お時間のあるときに、お願いしてもよろしいですか。今夜は、もう少し、舞踏会のお話もしたいです」


「……ああ。明日、聞かせろ」


 彼の顔に、いつもの食卓で見る表情が戻った。


 ニナも、先ほどより近くに立った。


 今日会った人のことも、広間で見たものも、話したい。


 戻ってきてからの時間が、また、楽しみになっていた。


     *


 夜が更けるにつれ、広間の空気は少しずつ落ち着いていった。


 何人かと挨拶を交わし、菓子を味わい、侯爵から、かつての交易の話を聞いた。


 リュシアンはジンジャーの利いた焼き菓子を、早々に見つけていた。


「館のものと、どちらがお好きですか?」


「難しいご質問ですね。比較には、もう一つ必要かもしれません」


「十分に比較しているだろう」


 侯爵が呆れたように言う。


 そのやり取りに笑っていると、楽団が最後の曲を奏で始めた。


 ニナが顔を向けるより先に、侯爵がグラスを置いた。


「……約束の時間だ」


 手が差し出される。


 ニナは、迷わずその手を取った。


     *


 最初の一曲より、楽に動けた。


 けれど、胸の鼓動は静かにならなかった。


 背を支える手に合わせて進み、向きを変える。少し迷っても、彼の顔を見れば、次の一歩を踏み出せた。


「今夜は、どうだった」


「とても、楽しかったです」


「……ならば、よかった」


「侯爵様は?」


 彼はすぐには答えなかった。


 ゆっくりと旋回する間、燭台の光が、その横顔を照らした。


「……終わるのが、惜しい」


 ニナは、握った手に少し力を込めた。


「私も、もう少し踊っていたいです」


 彼がこちらを見る。


「ニナ。お前が、俺の館を……」


 途中で、声が止まった。


 ニナは顔を上げたまま、待った。


 彼は一度目を伏せ、小さく息をつく。


「……いや。今は、この一曲だ」


 支える手が、少し近づいた。


 ニナはその先を尋ねず、彼と一緒に最後の旋律を辿った。


 音が終わっても、すぐには手を離したくなかった。


     *


 帰りの馬車で、ニナは窓の外へ目を向けていた。


 灯りの多い通りを抜けると、広間の音楽も、遠いことのように思えた。


 けれど、最後に繋いだ手の温かさは、まだ残っている。


 ニナは向かいを見た。


「……先ほど、何を仰りかけたのですか?」


 侯爵が窓から顔を戻す。


「最後の曲で、です。館のことを」


 彼の指が、膝の上で組み合わされた。


「……お前が帰ったあとも、こういう話をする機会は、作らねばならんなと思っただけだ」


 帰ったあと。


 ニナは、その言葉を心の中で繰り返した。


 まだ先のことだと思っていた。


 毎日、商会へ出かけて、館へ戻る。


 そうしている間にも、帰る日は近づいてくる。


「……寂しく、なりますね」


 声にしてから、自分でも少し驚いた。


「一日のことを、侯爵様にお話しするのが、当たり前になってしまって」


 侯爵は黙っていた。


 灯りが揺れ、彼の横顔に影が落ちる。


「……手紙を、書けばいい」


 やがて、低い声がした。


「家へ戻ってからも、話すことはあるだろう。何を学んで、どう使ったのか。俺にも知らせろ」


「お返事も、いただけますか?」


「無論だ」


 ニナは微笑んだ。


「では、書きます。毎日は難しいかもしれませんが、お話ししたいことを、忘れないように」


 彼は頷いた。


「庭の様子も、知らせてやる」


「ブランちゃんのお話も、お願いします」


「あいつは、毎日同じことをしているぞ」


「それでも、知りたいです」


 侯爵が少し笑った。


 それから、ニナの手のそばへ、彼の手が伸びる。


 触れる手前で止まったので、ニナは自分から指先を重ねた。


「……まだ、時間はあります」


 彼が目を上げる。


「明日も、お話しできますから」


「ああ」


 今度は、すぐに答えがあった。


 彼の手が、ニナの手を包む。


「明日は、今夜の続きを聞く」


 ニナは頷いた。


 馬車の窓の向こうに、見慣れた丘が現れる。


 その上で待つ館の灯りへ、二人は一緒に帰っていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。