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第十章 演出ではない言葉

 舞踏会の翌日、ニナは約束通り、侯爵に仕事の話をした。


 宿ごとに、品物が足りなくなった時期を記録してはどうか。


 そう話すと、彼はまず、商会ではすでに何を記録しているのかと尋ねた。


 ニナは、すぐには答えられなかった。


 翌日、先輩へ聞いてみると、似た記録は、すでにあった。


 ただ、宿から届く相談は、担当者ごとの手控えに残っていることも多いという。ニナは許可を得て、それらを納品の記録と照らし合わせる仕事を、少しずつ手伝わせてもらうことになった。


「新しく考えたことでは、なかったんです」


 その晩、そう報告すると、侯爵は頷いた。


「確かめる前より、分かることが増えたのだろう」


「はい」


「ならば、続けろ。思いついたことが、すべて新発見である必要はない」


 それからも、話すことは尽きなかった。


 記録の読み方を教わったこと。


 ある宿では、寒くなる前に客室を増やしていたこと。


 荷の多い日に、先輩と搬入口へ回り、荷札の確認を手伝ったこと。


 侯爵にも、話があった。


 街道の工事が予定より進んだこと。雨のため、一日止めることになったこと。巡回の途中、村で大きなパンを持たされ、リュシアンと分けて帰ったこと。


「そのまま持って帰ると、ほかの書類が潰れるところだった」


「焼きたてだったのでしょうか」


「ああ」


「では、少し召し上がってから帰られればよかったのに」


「……そうした」


 ニナが笑うと、彼も少し笑った。


 忙しくて、お茶の時間が合わない日もあった。


 そんな日は食卓で短く話し、翌日に続きを聞いた。廊下で行き会って、そのまま二人とも立ち止まってしまうこともあった。


 庭の木の葉は、少しずつ数を減らした。


 散歩には、厚い羽織りが要るようになった。


 ブランは落ち葉の山へ鼻先を突っ込み、侯爵に呼ばれて、何も知らない顔で戻ってきた。


 ニナは、その耳についた葉を取ってやった。


 いつの間にか、滞在の残りを数えるより、明日話すことを考える方が習慣になっていた。


     *


 手紙が届いたのは、風の冷たい午後だった。


 商会から戻ったニナは、見慣れた家の封を見て微笑んだ。


 両親とは、滞在中も手紙を交わしていた。教わったことを書けば、父からは短い助言が返ってきた。母の手紙には、家での出来事や、食事をきちんと取っているかという問いが添えられていた。


 今回も、初めはそうした話が続いていた。


 馴染みの宿から、新しい注文があったこと。


 親戚の出張が、ようやく終わったこと。


 そして、帰りの馬車について。


 ニナは、そこで指を止めた。


 実務を学ぶ期間が終わるのは、二週間後だった。


 その翌日に迎えを寄越すので、商会と侯爵家へ、日程に差し支えがないか確認してほしい。


 父の文字は、いつもと同じだった。


 急に呼び戻されるわけではない。


 初めに決めた約束の日が、近づいただけだった。


 窓へ目を向ける。


 庭の向こうに、街が見えた。


 あそこへ通う道も、帳場の窓も、馴染みのあるものになった。


 帰ったら、家の仕事で試してみたいことがある。


 父に相談したいことも、母に直接話したいことも、たくさんあった。


 けれど、二週間あまりで、この部屋で迎える朝は終わる。


 向こうの食卓へ下りても、彼はいない。


 ニナは、読み終えた手紙を、すぐには畳めなかった。


     *


「お時間を、少しいただいてもよろしいでしょうか」


 執務室の扉を叩くと、返事があった。


 侯爵は書類に向かっていたが、ニナを見るとペンを置いた。


「どうした」


「実家から、手紙が届きまして」


 彼の目が、手元へ向く。


 ニナは机の前で足を止めた。


「二週間後に、商会で学ばせていただく期間が終わります。その翌日に、父が馬車を寄越してくれるそうです。日程に差し支えがないか、ご相談したくて」


 侯爵は答えなかった。


 窓の外で、枝が揺れる音がした。


「……もう、そんな時期か」


「はい」


 彼は椅子の背へ身を預け、机の上の紙を一枚揃えた。


「商会の方では、どうなっている」


「責任者の方には、今日、伺いました。予定通りでよいと。残りの間に、今お手伝いしている記録をまとめることになりました」


「……そうか」


「侯爵様には、本当にお世話になりました。最後の日まで、ご迷惑をおかけしないように」


「まだ、最後ではなかろう」


 思っていたより強い声に、ニナは口を閉じた。


 侯爵も気づいたのか、一度息をつく。


「……二週間、ある」


「はい」


「帰りの馬車はこちらでも用意できる。護衛も、必要なら手配する。道中で不便がないようにはしてやる」


「ありがとうございます。父の馬車の予定もございますので、相談してお返事してもよろしいでしょうか」


「ああ」


 相談は、それで終わったはずだった。


 けれど、ニナは足を動かせなかった。


 侯爵も、書類へ戻らなかった。


「……これで、少しは静かになるな」


 やがて、彼が言った。


 いつもの、わざと重々しい調子だった。


「ブランも、客人を追い回す仕事から解放される。俺の執務室へ、毎晩のように報告が届くこともなくなるわけだ」


 冗談なのだろうと思った。


 普段なら、では残りの報告はまとめてお持ちしますと、笑って返せたかもしれない。


 けれど今日は、笑えなかった。


「……静かになった方が、よろしいですか?」


 侯爵が顔を上げた。


 ニナは、手紙の端を指で押さえる。


「実家へ帰る日が来ることは、分かっていました。私も、学んだことを家の仕事で生かしたいと思っています」


 声が、少し震えた。


「でも、寂しいです。侯爵様と、毎日お話しできなくなるのは」


 彼は何も言わない。


 ニナは目を逸らさなかった。


「私が帰ることを、侯爵様は、どう思っていらっしゃいますか」


 言い終えると、胸が痛いほど鳴っていた。


 手紙を交わす約束は、もうある。


 花を見に来てもよいと、言ってもらえた。


 それでも、この人も同じように、毎日の終わりを惜しんでくれるのか。


 その返事を、聞きたかった。


     *


 椅子が、静かに引かれた。


 侯爵は机を回り、ニナの前へ来た。


 すぐには言葉を並べなかった。


 手が一度持ち上がり、ニナへ触れる前に下ろされる。


「……今のは、違う」


 低い声がした。


「静かになる方がいいなどと、思っていない。……あんな言い方をして、すまなかった」


 ニナは、息を止めた。


 彼は言葉を探すように、目を伏せた。


「お前が来る前は、これが普通だった。仕事をして、食事をして、明日の予定を確かめる。それで、何も足りないとは思わなかった」


 一度、声が途切れる。


「だが、今は違う。夕方になると、お前が帰ったか気になる。食卓の席が空いていれば、何かあったのかと思う。姿が見えなければ、リュシアンに尋ねる」


 ニナの胸が、ゆっくり熱くなった。


「話を聞くのは、客人を管理するためだと、何度も言ったな」


 彼は、困ったように笑った。


「……聞きたかっただけだ。俺が」


 手紙を持つ指から、力が抜けた。


「うまくできた日も、失敗した日も。お前が、どんな顔で話すのか。それを、隣で見ていたかった」


 赤い瞳が、まっすぐこちらへ向いた。


「寂しくなる。……帰ってほしくない」


 目の前が滲んだ。


「本当は、ずっとここにいてくれと、言いたい」


 彼の声も、少し震えていた。


「だが、お前が家へ戻って、何をしたいと思っているかも、知っている。仕事の話をしている顔を、俺は好きで見ていたのだ。それを、俺の都合で諦めさせたいわけではない」


 頬を、温かいものが伝った。


 侯爵が目を見開く。


「……ニナ」


 彼は、今度は手を伸ばした。


 頬へ指が触れ、涙の跡をそっと拭う。


 ニナはその手へ、自分の手を添えた。


「……嬉しいんです」


 言葉にしようとすると、また涙がこぼれた。


「本当のお気持ちを、伺えたので」


 彼の指が止まった。


 ニナは、その手を握った。


「私も、お話ししたかっただけです。報告しなければならないことがあったからではなくて……今日のことを、侯爵様に聞いていただきたくて」


 あのお茶も、隣の椅子も、自分だけが楽しみにしていたわけではなかった。


 そう分かったら、今まで言えなかったことまで、こぼれそうになった。


「商会から帰ると、一番にお会いしたくなるんです」


 侯爵は、何かを堪えるように唇を結んだ。


 それから、ニナの手を持ち直す。


「……ニナ」


 朗読のときのように、よく通る声ではなかった。


 夜の廊下で安心させてくれたときよりも、頼りなかった。


 けれど、ニナは、今まで聞いたどの声よりも、耳を澄ませた。


「俺は、お前を愛している」


 彼の指が、小さく震えた。


「客人だから、大切にしたいのではない。お前と、これからも一緒にいたい。……俺の妻に、なってほしいと思っている」


 声が、そこで一度途切れた。


「家へ戻ることを、やめろとは言わん。仕事も、家族も、お前にとって大切なものだ。その先を、どうすれば一緒に歩けるのか、話し合いたい」


 ニナは、涙を拭おうとした。


 けれど彼が、先に拭ってくれた。


「……命令では、ない」


 彼は視線を逸らさなかった。


「お前の気持ちを、聞かせてほしい」


     *


 ニナは、すぐには言葉を出せなかった。


 お茶を淹れて、好みに合ったと分かれば嬉しかった。


 仕事の話を聞いてもらえれば、帰り道のことまで話したくなった。


 朗読の声が好きだった。


 仕事をするときの、真剣な顔も。


 ブランを撫でる、大きな手も。


 格好をつけているのに、いつも気遣いが先に出てしまうところも。


 それらを、この館での楽しい思い出として、大事に持ち帰ろうとしていた。


 けれど、本当は。


 思い出にするだけでは、足りなかった。


「……私も」


 ニナは息を吸った。


「私も、お慕いしております」


 彼の目が、揺れた。


「ヴァレンティン様」


 初めて、その名を呼んだ。


 もう、元の距離には戻れない気がした。


 戻りたくも、なかった。


「あなたのお隣に、いたいです。帰ってからのことも、その先のことも……一緒に、考えさせてください」


 彼は目を閉じた。


 繋いだ手だけが、少し強く握り返される。


 ニナは、もう一つだけ確かめた。


「……今のお言葉は、演出ではありませんよね?」


 ヴァレンティンが目を開けた。


 困ったように笑った、その目も潤んでいた。


「ああ。演出ではない」


 彼の手が、ニナの背へ触れた。


 そのまま一瞬、止まる。


 ニナは自分から一歩進み、彼の胸へ頬を寄せた。


 背中に、腕の重みが加わる。


「……好きです」


 小さく言うと、抱きしめる腕が、わずかに強くなった。


 ニナは、その胸元へ指を添えた。


 彼の鼓動が、自分と同じように速かった。


     *


 しばらくして、扉が控えめに叩かれた。


 ニナは慌てて顔を上げたが、ヴァレンティンの腕は、すぐには離れなかった。


 彼も、どうしたものか分からないようにこちらを見ている。


 その顔を見て、ニナは涙の残ったまま、少し笑った。


「……お返事を」


「ああ。そうだな」


 ようやく腕が緩む。


 けれど、片方の手は繋がれたままだった。


「入れ」


 リュシアンが、書類を持って現れた。


 二人を見て、ニナの頬に残った涙と、繋がれた手へ目を向ける。


「……お取り込みでしたか」


 ヴァレンティンが咳払いをした。


「いや。その……」


 ニナを一度見てから、短く続ける。


「大事な話を、していた」


「左様でございますか」


 リュシアンは、それ以上尋ねなかった。


「こちらの確認は、夕食のあとでも間に合います。お茶をお持ちいたしましょうか」


 ニナは、ヴァレンティンを見上げた。


 彼もこちらを見ていた。


 顔を見合わせただけで、また少し笑ってしまう。


「……頼む」


「承知いたしました」


 扉が静かに閉まった。


 ヴァレンティンは、繋いだ手へ目を落とす。


「ニナ。帰りの日程は、予定通りでいい」


「はい」


「男爵への挨拶についても、相談させてくれ。手紙だけで済ませるつもりはない」


 その言葉で、告白の先にあるものが、少し形になった。


 実家へ帰る。


 学んだことを、家の仕事で生かす。


 そして、この人と、また会う。


 どこで、どう暮らしていくのか。家族には何を伝えるのか。


 決めることは、きっとたくさんある。


 ニナは彼の手を握り直した。


「……春には、カモミールを見に来てもよろしいですか?」


 尋ねると、彼は少し眉を下げた。


「約束しただろう」


「はい。でも、今度は……」


 ニナが言い淀むと、ヴァレンティンは目を合わせた。


「今度も、俺に会いに来てほしい」


 頬が熱くなった。


 ニナは、まっすぐ答える。


「はい。あなたに、会いに参ります」


 窓の外で、風が木の枝を揺らしていた。


 机の上には、二週間後の帰り道を知らせる手紙がある。


 その日付は変わらない。


 けれど、その先にも会えることを、今は二人で話していた。

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