第十一章 紙の上の声、帰る場所
次の朝、ニナは食堂の扉の前で立ち止まった。
何度も通っている場所だった。
いつもの時間に、いつもの席へ向かうだけ。
けれど、今日は違った。
ヴァレンティン様、と心の中で呼んでみる。
昨日の執務室を思い出した。
繋いだ手。背中に回った腕。頬を寄せた胸から伝わった、速い鼓動。
ニナは頬に触れ、扉を開けた。
彼は、もう席についていた。
目が合う。
すぐに、二人とも視線を逸らした。
「……おはよう」
「おはようございます」
それから先が、続かない。
ニナが席へ向かうと、彼が立ちかけた。同時に、使用人が椅子へ手を添える。
ヴァレンティンは、そっと座り直した。
ニナも、そのことには触れずに腰を下ろした。
卓へパンが置かれ、彼が皿をこちらへ寄せてくれる。
礼を言って受け取ると、また目が合った。
「……よく眠れたか」
「はい。あの、ヴァレンティン様は?」
彼の手が、パンの上で止まった。
「……ああ。眠れた」
けれど、手はまだ動かない。
隣で給仕をしていたリュシアンが、静かにポットを置いた。
「閣下。ニナ様のお顔も結構ですが、お茶が冷めますよ」
「……分かっている」
ようやくカップを持ち上げる。
ニナは俯いて笑った。
顔を上げると、ヴァレンティンも、困ったように笑っていた。
*
残りの日々が、急に暇になることはなかった。
商会では記録の整理を進め、どこまで確認し、何がまだ分からないのかを、先輩へ説明した。
自分のために残した短い書き込みでは、ほかの人には伝わらないものもあった。ニナはそれらを書き直し、もう一度、目を通してもらった。
帰る前に終わらせたい仕事が、一つずつ片付いていく。
それが嬉しくもあり、寂しくもあった。
館では、少しずつ荷物をまとめた。
来たときより、帳面が増えていた。仕事の覚え書きの間に、実家から届いた手紙が挟まっている。
図書室で借りていた本も返した。
けれど、赤い表紙の台本だけは、手元に残った。
「まだ、読み終えていないだろう」
返そうとしたニナへ、ヴァレンティンは言った。
「お持ちしても、よろしいのですか?」
「貸すだけだ。返しに来い」
ニナは、擦れた表紙を撫でた。
「はい。必ず」
彼は頷き、それから少し声を落とした。
「……感想も、聞かせろ」
仕事が早く終わった日には、ブランと庭を歩いた。
芝生は冷たく、薔薇の花も少なくなっていた。それでもブランは、いつもの木の根元を念入りに嗅ぎ、池の手前で足を止めた。
「毎回、同じところが気になるんですね」
「あいつにしか分からぬ事情があるらしい」
ニナは笑い、隣へ手を伸ばした。
彼の指が、すぐに絡む。
自分から繋ごうとするのは、まだ、少し勇気が要った。
初めは、二人とも前だけを見て歩いた。
別の日には、ニナが顔を見上げ、目が合って笑った。
次には、ヴァレンティンが、冷えていないかと尋ねた。
アルトの手伝いをした日には、カモミールを育てる一角から、小石を取り除いた。
使い慣れない道具の持ち方を教わり、土を掘り起こす邪魔にならないところへ、二人で石を運ぶ。
手入れを終えた花壇を見て、アルトが頷いた。
「暖かくなりましたら、また見てやってください」
「はい。楽しみにしております」
ニナが答えると、隣からも声がした。
「その頃には、茶を飲む場所も整えておく」
「今のままでも、素敵ですのに」
「座る場所くらいは、確かめておかねばな」
彼はいつものように答え、ニナの手についた土へ目を向けた。
差し出された布を受け取って礼を言うと、穏やかな笑みが返ってきた。
*
出発の朝は、よく晴れていた。
父の手配した馬車が、館の前に止まっている。帰りの日程と道中のことは、両家で相談を済ませてあった。
荷物を積む間、ブランはニナのそばにいた。
しゃがんで首を撫でると、大きな頭が肩へ寄ってくる。
「また、会いに来ますからね」
ブランはニナの手を舐めた。
約束を分かってくれたかどうかは、分からない。
ニナはもう一度、柔らかな首元へ顔を寄せた。
「ニナ様」
リュシアンが、小さな包みを差し出す。
「道中のお菓子です。日持ちのするものを、お入れしております」
「ありがとうございます。リュシアンさんも、どうぞお元気で」
「ええ。ニナ様も。……次は、お茶の好みを伺うところから始めずに済みますね」
ニナは微笑んだ。
「はい。覚えておりますから」
最後に、ヴァレンティンの前へ立った。
彼は何度も確かめたはずの荷物を見て、馬車の踏み段にも目を向けた。
「……着いたら、知らせろ」
「はい」
「男爵には、挨拶の日程を改めてお伺いすると伝えてくれ。手紙も出す」
「お待ちしております」
彼がニナを見た。
手が差し出され、ニナは自分の手を重ねた。
踏み段までは、ほんの数歩だった。
その前で、二人とも足を止める。
「……行ってまいります」
声が小さくなった。
ヴァレンティンは手を持ち直し、ニナの指を包んだ。
「ああ」
真剣な顔で言う。
「待っている」
ニナは頷いた。
泣かずに返事をしたかったのに、目の奥が熱くなった。
彼はそれを見ても、からかわなかった。
ただ、馬車へ上がるニナの手を、最後まで支えていた。
席についてから、窓の外を見る。
ブランが一歩前へ出た。
ヴァレンティンが、その首輪へ手を添える。
もう片方の手が、ニナへ向けて上がった。
ニナも手を振った。
角を曲がるまで、何度も。
*
実家の玄関をくぐると、慣れ親しんだ匂いがした。
母が迎え、父が荷物へ手を伸ばす。
自分の部屋へ戻ると、机も窓辺の椅子も、出発した朝のままだった。
ニナは荷物を置いて、息をついた。
その晩の食卓では、話が尽きなかった。
商会で教わったこと。街の様子。館での日々。
ヴァレンティンの名を口にすると、父が母と顔を見合わせた。
ニナは背筋を伸ばす。
結婚を考えている人がいることは、出発前の手紙でも伝えていた。
けれど、今度は、顔を見て話したかった。
どんな人なのか。
何を大切にしているのか。
そして、自分が、なぜ一緒にいたいのか。
父も母も、途中で遮らずに聞いていた。
話し終えると、父は少し考え、それから頷いた。
「まずは、お目にかかって、ゆっくりお話ししよう」
ニナは、深く息をついた。
その夜、机へ向かった。
紙を前にすると、いつもの報告より、書き出しに時間がかかった。
無事に着いたこと。
両親と話したこと。
ブランの毛が、外套に一本ついていたこと。
考えるうち、少し笑ってしまった。
書きたいことは、やっぱり、たくさんあった。
*
『ヴァレンティン様
無事に実家へ着きました。
いただいたお菓子は、途中の休憩で一つ食べました。残りは、父と母にも少し分けました。とてもおいしいと喜んでおります。
父も母も、お会いできる日を楽しみにしております。私も、今日、改めて二人にお話ししました。
記録のことは、明日から父に相談する予定です。こちらの商会にも、リーヴェンとは違う決まりがあるので、まずは教えてもらおうと思います。
今、これを書きながら、つい、続きを声に出して話しそうになりました。
お返事を、楽しみにしております。』
*
『ニナ
無事に着いたと聞き、安心した。
こちらは変わりない。ブランは、お前のいた椅子の下を確かめてから、俺のところへ来る。今日はそこへ俺の手袋を持ち込んでいた。見つけたときには、すでに片方が湿っていた。
台本は、気の済むまで読め。ただし、結末の感想は、会ったときに聞く。
次の巡回の日程が決まり次第、男爵へ挨拶に伺う日を相談させてほしい。
追伸。俺も、続きを聞きたいと思っている。』
*
手紙は、毎日ではなかった。
こちらが出す前に、向こうから届くこともあった。返事を待つ間に、次に書くことを、小さな紙へ残しておくこともあった。
言葉が見つからず、一晩、机に置いたままにする手紙もあった。
封をしたあとで、書き忘れたことを思い出した。
ニナは、また次の紙を用意した。
家の商会では、教わったことを、そのまま使えない場面に何度も出会った。
扱う荷の量も、担当者の人数も違う。記録の欄を増やしすぎて、かえって手間をかけてしまったこともあった。
父と相談して、必要なところだけに絞った。
うまくいったときには、すぐに知らせたくなった。
返事には、「よくやった」とあった。
その五文字を見つめてから、ニナは紙を畳んだ。
声まで、聞こえた気がした。
*
冬の間に、ヴァレンティンがベルネット家を訪れた。
ニナは玄関へ向かう途中、二度、自分の服を確かめた。
けれど、窓から見えた彼も、馬車を下りたところで袖口を整えていた。
玄関で顔を合わせると、ニナは迎える言葉より先に笑ってしまった。
「……何だ」
「いいえ。お会いできて、嬉しいです」
彼は言いかけた口を閉じた。
「……俺もだ」
父と母への挨拶では、芝居がかった言い回しは出なかった。
彼はニナとの結婚を望んでいることを、まっすぐに告げた。
父からの問いにも、一つずつ答えた。ニナの仕事について話が及ぶと、ニナ自身へ目を向けた。
家の仕事に、これからも関わっていたいこと。
リーヴェンで学び始めたことを、続けたいこと。
ニナも、隣で自分の考えを話した。
一度の訪問ですべてが決まるわけではなかった。
それでも、帰るときには、次に話すことが決まっていた。
「今度は、こちらから伺おう」
父がそう言うと、ヴァレンティンは一礼した。
見送りの少しの間、ニナは彼と玄関の外へ出た。
「緊張なさいましたか?」
「……した」
あまりに正直な返事に、ニナは目を丸くした。
彼は少し眉を寄せる。
「大事な話だったからな」
ニナは、外套の陰で彼の指先へ触れた。
手が、すぐに返ってきた。
*
ニナが実家へ戻ってから、数ヶ月が過ぎた。
街道の脇には、柔らかな緑が戻り始めていた。
リーヴェンへ向かう馬車の中で、ニナは窓の外を見ていた。
今度は、両親も一緒だった。
侯爵家と、結婚の日取りや準備について相談するための訪問だった。数日間滞在し、話し合いを終えたら、いったん実家へ戻る予定になっている。
膝の上には、赤い表紙の台本と、菓子の包みがあった。
母が、それらを見て微笑む。
「ずいぶん、大切に持っているのね」
「お約束したものなので」
ニナは答え、包みを抱え直した。
手紙では、何度も話している。
冬には、顔も見た。
それでも、あの丘を上るのは久しぶりだった。
窓の向こうへ、館の屋根が現れる。
ニナは、知らず背筋を伸ばした。
*
玄関の前に、人影があった。
黒い上着に、深紅の襟元。
その足元から、大きな金色の影が飛び出しかける。
ヴァレンティンが首輪へ手を添えると、ブランは踏みとどまった。けれど、尾だけは止まらなかった。
馬車が止まり、扉が開く。
ニナが顔を出した瞬間、ブランが鳴いた。
「ブランちゃん……!」
使用人へ荷物を託し、先に下りた父の手を借りて、地面へ足をつける。
ヴァレンティンが両親へ挨拶する間、ニナの目は、彼と、隣で身を揺らすブランを行き来した。
リュシアンも出迎えに加わり、両親を館へ案内する。
「どうぞ、こちらへ。閣下、ニナ様のご案内は、お願いいたします」
「……ああ」
返事を聞いたときには、ニナはもうブランの前へしゃがんでいた。
大きな頭が、胸元へ押しつけられる。
「覚えていてくれたんですね。私も、会いたかったです」
耳の後ろを撫でると、ブランは目を細めた。もっと撫でてほしいとばかりに、手へ体重を預けてくる。
「……相変わらず、遠慮がないな」
頭の上から声がした。
ニナは笑って、見上げた。
ヴァレンティンも、こちらを見ていた。
手を借りて立ち上がる。
彼はニナの指を離さなかった。
「……よく来た」
「はい」
用意していた挨拶が、幾つもあった。
招いてくれた礼。
手紙への返事。
両親も、今日を楽しみにしていたこと。
けれど、玄関の向こうに見える廊下を見たら、先に別の言葉が出た。
「……ただいま、戻りました」
彼の目が、わずかに大きくなった。
ニナは、少し恥ずかしくなる。
「まだ、その……お客様なのに。おかしかったでしょうか」
「おかしくない」
返事は早かった。
彼は手を握り直す。
「お前のいた場所だ。そう言えばいい」
胸の奥が、温かくなった。
「お話ししたいことが、また、たくさんあるんです」
「聞く」
今度も、すぐに答えがあった。
「手紙に書いたことの続きも、書ききれなかったことも。……俺の務めだからな」
言ってから、彼は少し黙った。
ニナが見上げていると、困ったように笑う。
「……務めでは、ないな」
繋いだ手が、近づいた。
「聞きたいのだ。俺が。お前の声を」
ニナは返事をしようとした。
けれど、その前に身体が動いた。
一歩近づき、空いている手を彼の背へ回す。
ヴァレンティンの肩が、はっきり強張った。
「……会いたかったです」
ニナが言うと、彼は長く息をついた。
繋いでいた手が解かれ、二本の腕で抱きしめられる。
「……俺もだ」
耳元に、低い声が戻ってきた。
紙の上で、何度も思い浮かべた声だった。
けれど、本当は、こんなふうに息も混じる。
肩に触れる頬も、背中の手も、手紙では届かなかった。
ニナは腕に少し力を込めた。
「今度は、帰る日を数えるだけでは済まぬぞ」
彼が、いつもの調子を少し取り戻して言った。
「決めることが山ほどある。お前の好きなものも、暮らし方も、もっと聞かねばならん」
「はい」
「……覚悟しておけ」
ニナは笑った。
「そのために、帰ってまいりました」
抱きしめる腕から、少し力が抜けた。
彼が身を離し、ニナを見つめる。
「……おかえり、ニナ」
それだけの言葉に、また泣きそうになった。
「はい。ただいま」
ヴァレンティンが、額へそっと唇を寄せた。
短い、温かな触れ方だった。
ニナが顔を上げると、彼も少し照れていた。
足元で、ブランが鼻を鳴らす。
二人の間へ、大きな頭が入り込んできた。
「……分かっている。お前も、待っていたな」
ヴァレンティンが撫でると、ブランの尾がニナの裾へ触れた。
玄関の奥から、リュシアンの声がする。
「お茶の用意が整いました。お預かりしたお菓子は、お出ししてよろしいでしょうか」
「はい。皆様でいただけるように、持ってまいりました」
「では、お皿に並べておきます。閣下、ご入室をお待ちしております。お茶の方は、あまり長く待てませんので」
ヴァレンティンが、呆れたように息をついた。
ニナは笑い、彼の隣へ並んだ。
扉の向こうから、懐かしい館の匂いがする。
両親が待っている。
話したいことも、これから相談することも、たくさんあった。
ニナは、繋ぎ直した手を一度握った。
彼の手も、同じ強さで握り返した。




