第十二章 侯爵様、今度はお願いですか
翌朝、談話室の卓には、お茶と一緒に何枚もの紙が並んでいた。
結婚式に招く人々のこと。
衣装や部屋の用意のこと。
両家で、いつまでに何を確かめるのか。
ニナは父と母の隣に座り、向かいのヴァレンティンを見ていた。
彼は、支度を整えるのが好きだ。
初めて泊まった日の食事も、寝具も、廊下の灯りも、ニナが頼む前から用意されていた。
今日も、驚くほど話が進んでいるのではないかと思っていた。
けれど、卓の上の紙には、まだ空欄がたくさんあった。
「……季節については、初夏を考えております。天候と街道の状況も、落ち着く頃ですから」
ヴァレンティンが言った。
父は頷き、商会の予定と照らし合わせながら答えた。
忙しくなる時期や、遠方から来る親戚のこと。
日取りは、少しずつ絞られていった。
「ニナは、どう思う?」
父に尋ねられ、ニナは顔を上げた。
「私も、その頃がよいと思います。皆様が、無理なく来られる日でしたら」
向かいで、ヴァレンティンが頷く。
ペンを持ち直したあと、書き込む前に、もう一度こちらを見た。
初夏。
その頃には、この人と結婚する。
手紙で何度も話していたのに、両親と同じ卓で日付を確かめると、急に現実になった。
ニナが膝へ目を落とすと、母がそっとカップを寄せてくれた。
「少し、飲んだら?」
「……はい」
カップを持ち上げると、向かいのヴァレンティンも、同じようにお茶へ手を伸ばした。
目が合って、二人とも少し笑った。
*
午後は、二人の暮らしについて話した。
結婚後の住まいは、この館にする。
そのことは、すでに手紙で相談していた。
けれど、ここに住むと決めるだけでは、一日の過ごし方までは決まらなかった。
「家の仕事には、これからも関わりたいと思っています」
ニナは覚え書きを開いた。
「父たちと相談して、まずは、リーヴェンでの取引の記録を整理するお手伝いができればと。今までの担当の方に教わりながら、少しずつ」
「どのくらい通うつもりでいる?」
「初めは、週に何日か。ただ、まだこちらの担当の方には相談できておりませんので、明日、伺えればと思っています」
ヴァレンティンは頷いた。
「今の仕事の流れもあるだろうからな。任せてもらえることを、確かめてくるといい」
「はい」
習ったことを、もっと使えるようになりたい。
実家へ戻ってからも、それは変わらなかった。
ニナは覚え書きの次の行へ目を移した。
「それから、館のことも教えていただきたいです。お客様として過ごしていたときには、気づかなかったことが多いと思うので」
「一度に、すべて覚える必要はない」
彼は紙へ書きつけてから、ニナを見た。
「分からぬことを、分かったふりはするな。それは今までと同じだ」
ニナは笑った。
「はい。何度でも、伺います」
「何度でも、聞けばいい」
記録を取っていたリュシアンが、顔を上げた。
「館のことは、担当の者から順にご説明いたします。閣下より、細かくお伝えできることもございますので」
「……そこは、否定せん」
ヴァレンティンが言うと、ニナの母が小さく笑った。
「それを伺えて、安心しました」
彼が顔を向ける。
「ニナは、教わったことを全部きちんとしようとして、抱え込むことがありますから。分からないと言える方がいらっしゃるのは、ありがたいです」
ニナは思わず母を見た。
何か言おうとしたが、実家で、途中まで広げた帳面を抱えていた日のことを思い出す。
ヴァレンティンは少し考え、静かに答えた。
「こちらも、黙って察してもらおうとはせず、ニナに話すようにいたします」
今度は、ニナが彼を見た。
彼は紙を揃えながら、続ける。
「疲れていることや、手が回らぬことも。……俺の方が、言いそびれることが多いかもしれんからな」
最後の言葉は、ニナへ向いていた。
ニナはゆっくり頷く。
「はい。聞かせてください」
執務室で、初めてそう伝えたときの返事は、機会があれば、だった。
今は、隣で頷いてもらえた。
*
実家へ帰ることについても相談した。
商会で直接確かめたい仕事があるときや、家族に会いたいとき。
館を空ける間のことを、前もって話す。忙しい時期が重なれば、日程を調整する。
「俺も、都合がつけば同行する」
ヴァレンティンが言った。
ニナは嬉しくなり、それから確かめた。
「ご一緒できないときは、お留守番をお願いいたしますね」
「……ああ」
少し間があった。
「ブランと、土産話を待っている」
「お土産も、探しますね」
リュシアンのペンが止まった。
ヴァレンティンが、その手元を見る。
「お前のためとは、まだ言っていないぞ」
「ええ。お菓子とも仰っていませんので、伺ってからと思っておりました」
父が、声を上げて笑った。
ニナも笑い、リュシアンへ頷いた。
「おいしそうなものがあれば、皆様でいただけるように」
「楽しみにしております」
紙の上の空欄が、少しずつ埋まっていった。
すぐに決まることもあれば、担当の者へ確かめてから、続きを話すことにしたものもある。
ヴァレンティンは、次に尋ねる相手や、確かめる日を書き留めた。
ニナが言い足すと、ペンを止めて顔を上げる。
その横顔に、商会の荷下ろし場で見た姿が重なった。
自分も、思いついたときに話していい。
ニナは、覚え書きにもう一行、書き加えた。
*
夕方、話し合いが一段落すると、ヴァレンティンが庭へ誘ってくれた。
両親は部屋で休むと言い、リュシアンは明日の確認を済ませてから合流すると告げた。
「ブランは、一緒でしょうか」
ニナが尋ねると、リュシアンは窓辺へ目を向けた。
ブランは日向で横向きになっていた。
片耳だけが、わずかに動く。
だが、それきりだった。
「……あれは、しばらく動かんな」
ヴァレンティンが言った。
ニナは声を潜めて笑い、二人で庭へ出た。
風は、まだ少し冷たい。
けれど、小径のそばには新しい葉が見えた。
手を繋いで池のほとりを通り、薔薇の枝の間を抜ける。
行き先は、尋ねなくても分かった。
カモミールを植えると決めた一角には、小さな緑が並んでいた。
ニナは足を止める。
「……育っていますね」
「アルトが、よく見てくれている」
ヴァレンティンも花壇へ目を向けた。
「まだ花はないが、見せておきたかった」
ニナはしゃがみ、葉を覗き込んだ。
あの日、ここにはブランが寝転んでいた。
白い花が咲いたら、お茶を飲みたいと話した。
帰ってからも来ればいいと、言ってもらえた。
「お菓子、また選んでおきます」
ニナが言うと、彼は頷いた。
「ああ。俺も、茶を用意する」
花壇のそばには、小さな卓と椅子があった。
ニナは笑った。
「本当に、整えてくださったんですね」
「約束したからな」
立ち上がるために手を伸ばすと、彼の手が来た。
ニナが立っても、その手は離れなかった。
「……もう一つ、話がある」
声が変わった。
ニナは顔を上げた。
*
ヴァレンティンは、繋いだ手を一度見た。
それから外套の内側へ、反対の手を入れる。
取り出したのは、小さな箱だった。
ニナの胸が強く鳴った。
「結婚の話は、すでにしている」
彼は言った。
「お前が返事をくれたことも、忘れてはいない。ただ……改めて、俺から渡したかった」
箱が開かれる。
中には、細い金の指輪があった。
縁に、小さな葉を思わせる線が刻まれている。飾りは控えめだったが、夕方の光を受け、静かに輝いた。
「普段も、つけやすいものをと思った。手を使う仕事の邪魔にならぬように」
ニナは指輪を見つめた。
「……お選びくださったのですか」
「ああ。今回は、俺が選んだ。リュシアンのせいにはできんな」
ニナは笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
また、泣きそうになった。
彼は箱を持つ手へ目を落とし、息を整えた。
「お前を迎えるために、何もかも整えておこうと思っていた。部屋も、食事も、暮らしも」
ニナは黙って聞いた。
「だが、今日、話してみて、俺だけでは考えつかぬことが、いくつもあった」
赤い瞳が、こちらへ向く。
「お前がどうしたいのかを、これからも聞きたい。俺の考えも聞いてほしい。違うところがあれば、二人で考えたい」
「はい」
「……ただ、俺は、これからも格好をつけるぞ。長い名乗りも、赤い薔薇も、やめるつもりはない」
あまりに真剣な顔だったので、ニナの口元が緩んだ。
「存じております」
「時には、また言い方を間違えるかもしれん。そのときには、聞き直してくれ。俺も、演出で答えを隠さぬようにする」
ニナは、繋がれていた手を少し持ち上げた。
「私も、分かっていただけると思って、黙らないようにします」
彼が頷いた。
繋いだ手をそっと離し、片膝をつく。
ニナは息を呑んだ。
いつもは見上げている赤い瞳が、今は、下からまっすぐ自分を見ていた。
「ニナ・ベルネット」
名前を丁寧に呼ばれる。
「俺と、結婚してくれるか」
風の音がした。
ニナは指輪を見て、それから彼の顔を見た。
恐れられたいと、あんなにも熱心に格好をつけていた人が。
今は、自分の返事を待っている。
「……今のは、お願いですか?」
声が少し震えた。
ヴァレンティンは、一度だけ目を細めた。
「ああ」
低く、穏やかな返事だった。
「俺の、願いだ」
ニナは微笑んだ。
「はい。喜んで」
彼の顔が、ゆっくり緩む。
肩から力が抜け、息をついてから、もう一度ニナを見た。
「……手を」
ニナは左手を差し出した。
彼がそっと指を支え、指輪を通す。
金色の輪が、自分の指に収まった。
手を動かすと、小さな葉の線が光る。
「……きつくはないか」
ニナは指を曲げ、それから首を振った。
「はい。大丈夫です」
「そうか」
彼が、心底ほっとしたように言う。
その顔を見たら、もう待てなかった。
ニナは彼の手を両手で包んだ。
「ありがとうございます。大切にします」
ヴァレンティンが立ち上がる。
ニナはその胸へ近づいた。
腕が背中に回り、静かに抱きしめられる。
「……愛している」
耳元で声がした。
「私も、愛しております」
ニナが答えると、彼は少しだけ強く抱きしめた。
*
遠くから、砂利を踏む音がした。
ヴァレンティンが顔を上げる。
薔薇の枝の向こうから、リュシアンが現れた。その隣を、ブランが鼻を下げて歩いてくる。
「お話は、お済みでしょうか」
ニナが身を離すと、リュシアンの目が指輪へ止まった。
ほんのわずかに、表情が和らぐ。
「……お渡しになれたのですね」
ヴァレンティンは頷いた。
「ああ。俺から、頼んだ」
「左様でございますか。……おめでとうございます」
「ありがとうございます」
ニナが答えると、リュシアンは二人へ一礼した。
ヴァレンティンは少し黙ってから、彼を見た。
「何だ。その顔は」
「何か、変わっておりますか」
「言いたいことがあるなら、言え」
リュシアンは、少し考えるように間を置いた。
「幼い頃から、閣下の立派な宣言を幾つも伺ってまいりましたので。今日は、お願いがかなったと伺えて、嬉しく思っております」
ヴァレンティンが黙った。
ニナも、リュシアンを見た。
側近はいつもの落ち着いた顔で、続けた。
「……お幸せに」
やがて、ヴァレンティンが短く答える。
「ありがとう」
その足元で、ブランが鼻を鳴らした。
手が下ろされると、大きな頭がすぐにその下へ収まる。
「お前も、来たか」
首元を撫でながら、ヴァレンティンが言った。
「式が済んだら、ニナも一緒に暮らすぞ」
ブランは尾を振り、ニナの方へ移動した。
しゃがんで、柔らかな耳を撫でる。
「よろしくお願いしますね」
ブランは目を細めた。
それから鼻先を上げ、リュシアンの持つ籠へ顔を向けた。
「そちらは、差し上げられません」
籠が少し高くなる。
ヴァレンティンが中を覗いた。
「茶か」
「はい。お二人の分と、私の分を」
「……お前の分もか」
「お邪魔でしたら、席を外しますが」
ニナは立ち上がり、二人を見た。
「ご一緒に、いかがですか。お菓子も、皆様でいただきたいです」
ヴァレンティンがニナを見る。
それから小さく頷き、卓へ手を向けた。
「……そうだな。茶が冷める前にしよう」
*
まだ花のない、小さな花壇の隣でお茶を飲んだ。
リュシアンが、少し離れた場所から椅子を一脚運んできた。
ブランは三人の足元を確かめ、やがて、ニナとヴァレンティンの間で丸くなった。
菓子を分け、お茶を注ぐ。
ニナは左手でカップを支えた。
見慣れない金の輪に、つい目が向く。
「……気になるか」
隣から、低い声がした。
「はい。でも、違和感があるのではなくて……」
指輪を見たまま、微笑む。
「本当なのだなと、思いまして」
ヴァレンティンは少し黙った。
それから、卓の上でニナの手へ触れる。
「……本当だ」
指先に、温かさが重なった。
「これからも、何度でも言う」
ニナが顔を上げる。
彼は照れたように口元を引き締めていたが、目は逸らさなかった。
ニナも手を握り返す。
「はい。私も、何度でもお返事します」
風が通り、カモミールの小さな葉が揺れた。
初夏の式までに、二人はまた何度も、同じ卓で紙を広げるだろう。
今日、決まらなかったことも、まだ思いついていないことも、一緒に話していく。
ニナはカップを置き、皿の菓子を彼の方へ少し寄せた。
「こちらも、召し上がりますか?」
ヴァレンティンが、いつものように口元を上げる。
「無論だ。お前の選んだ品が、俺の期待に応えるか、確かめねばならん」
「では、ご感想もお願いいたします」
彼は一つ取り、口へ運んだ。
少しだけ眉が緩む。
「……うまい」
飾りのない答えに、ニナは笑った。
花が咲く日を、一緒に待てる。
左手に光る指輪を、あとで両親にも見てもらおう。
そう思いながら、ニナは自分の分の菓子へ手を伸ばした。




