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終章 これからも、この食卓で

 初夏の朝、窓の外には、よく晴れた空が広がっていた。


 ニナは鏡の前に座り、母が髪を整えるのを見ていた。


 亜麻色の髪に、小さな白い花の飾りが添えられる。


 今日は、柔らかな白の衣装だった。裾と袖には葉の模様が刺繍され、動くたび、光の中へ静かに浮かび上がった。


 母が、最後の飾りを留める。


「できたわ」


 鏡の中の自分は、少し緊張した顔をしていた。


 けれど、笑おうとしなくても口元が緩んだ。


「……どうでしょうか」


「とても綺麗よ」


 母は、ニナの肩へそっと触れた。


「あの方にも、よく見ていただきましょうね」


 ニナは頷いた。


 ヴァレンティンに、見てもらいたい。


 初めて深緑のドレスを着た日と、同じことを思った。


 けれど今日は、その隣から帰る日を、決めなくてよかった。


     *


 式は、館の広間で行われることになっていた。


 庭へ向かう扉が開かれ、薔薇と、若いオークの枝が飾られている。


 招かれた人々の声が、廊下まで聞こえていた。


 父が、ニナの前へ立つ。


 いつも商会で人を迎えるときより、ずっと言葉が少なかった。


「準備は、いいか」


「はい」


 差し出された腕へ、手を添えた。


 ニナは父を見上げる。


「……これからも、よろしくお願いいたします」


 父は少し驚いたようにこちらを見て、それから笑った。


「こちらこそ。相談したい仕事も、まだあるからね」


 ニナも笑った。


 扉が開く。


 父の腕に添えた指へ、少し力を込めてから、歩き出した。


     *


 広間の奥に、ヴァレンティンがいた。


 黒い礼装に、深紅の飾り。


 胸元には、ニナの髪飾りと同じ、小さな白い花が添えられていた。


 背筋を伸ばして、こちらを見ている。


 ニナが一歩進むと、彼の唇がわずかに動いた。


 何を言ったのかは、聞こえなかった。


 けれど、隣に控えたリュシアンが少し顔を伏せた。


 笑ったのかもしれない。


 父と歩く道は、長いようで、短かった。


 ヴァレンティンの前まで来ると、父が足を止める。


 ニナが腕から手を離すと、父は二人を見て言った。


「どうか、二人で、よく話をしてください」


 ヴァレンティンが頷いた。


「はい。……約束いたします」


 それから、ニナへ手が差し出された。


 何度も、取ってきた手だった。


 庭の段差で。


 鏡の前で。


 舞踏会の、最初と最後の一曲で。


 ニナは、その手へ自分の手を重ねた。


 彼の指が、丁寧に包んでくれる。


「……よく似合っている」


 小さな声だった。


 ニナは顔を上げる。


「ありがとうございます」


 彼は、困ったように眉を下げた。


「本当は、もっと言うつもりだったのだが」


 ニナは笑いそうになり、唇を結んだ。


「あとで、聞かせてください」


「……ああ」


 彼の手にも、少し力がこもった。


     *


 誓いの言葉を口にするとき、ニナの声は震えた。


 覚えていたはずの言葉を、一つずつ、確かめるように告げる。


 喜びのある日も、思うようにいかない日も。


 互いを大切にし、共に生きていくこと。


 目を上げると、彼が聞いていた。


 言葉に詰まっても、先を促さずに待ってくれている。


 ニナは最後まで告げ、息をついた。


 ヴァレンティンの番になる。


 台本を読んでくれたときのように、低く、よく通る声だった。


 けれど、一か所だけ、言葉の前に息が入った。


 ニナの名を、呼ぶところだった。


「ニナ」


 彼は、まっすぐこちらを向いた。


「お前と共に生きることを、俺自身の望みとして、誓う」


 ニナは、握った手を少し強くした。


 彼も握り返した。


 式のために預けていた指輪を、彼が受け取る。


 ニナの左手へ、あの庭で贈ってもらった金の輪が、もう一度通された。


 小さな葉の線が光った。


 ニナも、彼の手を支えた。


 書類に印をつける手。


 ブランの頭を撫でる手。


 夜の廊下で、灯りを持っていてくれた手。


 その指へ、自分が選んだ輪を通した。


 彼はそっと手を動かしてから、ニナを見る。


 目が合うと、小さく笑った。


 進行役が、誓いの口づけを促した。


 会場が、静かになる。


 ヴァレンティンの指が、ニナの頬へ触れた。


 彼も、緊張していた。


 分かってしまうほど近くで、赤い瞳がニナを見ている。


 ニナは少し顎を上げ、目を閉じた。


 唇が、触れた。


 ほんの短い、けれど、はっきりと温かな口づけだった。


 離れたあとも、すぐには目を開けられなかった。


 息をつくと、近くで彼も同じように息をした。


 拍手が広がる。


 ニナは顔を上げ、ヴァレンティンを見た。


 彼も、少し赤くなっていた。


「……大丈夫か」


 こんなときにも、確かめてくれる。


 ニナは頷いた。


「はい。……とても、幸せです」


 彼は何か言いかけて、やめた。


 代わりに、笑った。


 目元まで緩んだ、その顔を見ていると、ニナもまた笑ってしまった。


     *


 祝宴では、何度も名を呼ばれた。


 両親や親戚、商会の人々、館で働く人たち。


 ニナはヴァレンティンと並び、一人ずつ礼を伝えた。


 商会の先輩は、祝いの言葉のあとで微笑んだ。


「また、お仕事でお会いできますね」


「はい。これからも、教えてください」


「こちらこそ」


 短い返事が嬉しかった。


 庭師のアルトにも、礼を伝えた。


 花の飾りは、今朝まで丁寧に整えてくれたものだった。


「お庭も、あとで拝見しますね」


 ニナが言うと、アルトは日に焼けた顔を綻ばせた。


「ええ。今日はあちらも、よく咲いておりますよ」


 隣でヴァレンティンが庭へ目を向けた。


 ニナも、同じ方を見た。


 彼の手が、そっとこちらへ触れる。


 あとで、一緒に行こう。


 そう聞こえた気がして、ニナは頷いた。


 音楽が始まると、彼が手を差し出した。


「一曲、付き合え」


 いつものような言い方だった。


 けれど、すぐに少し言い直す。


「……俺と、踊ってくれるか」


 ニナは笑い、手を取った。


「喜んで」


 広間へ進むと、白い裾が足元を揺れた。


 彼の手が背に添えられる。


 もう、足元ばかりを確かめずにいられた。


「今日は、何を考えていたのですか」


 ニナが尋ねる。


「いつだ」


「私が、広間へ入ってきたときです。何か、仰ったように見えたので」


 ヴァレンティンは少し目を逸らした。


 それから、観念したように答える。


「……綺麗だ、と言った」


 ニナの足が、危うく遅れかけた。


 支える手が、そっと動く。


「おい。今さら、慌てるな」


「それは……慌てます」


 彼が低く笑った。


 ニナは見上げ、もう一つ尋ねた。


「明日も、踊っていただけますか」


「明日も?」


「はい。今日だけでは、もったいないので」


 彼はしばらくニナを見た。


 それから、ゆっくり頷く。


「構わん。音楽がなくとも、相手をしてやる」


 背中の手が、少し近づいた。


「……明日も、その先も」


 ニナは次の一歩を踏み出した。


 曲の終わりを惜しむより先に、明日のことを考えていた。


     *


 夕方、二人は少しだけ庭へ出た。


 賑やかな広間から離れると、風の音が戻ってきた。


 ニナは裾を持ち上げ、彼と並んで歩く。


 池のそばを通り、薔薇の向こうへ向かった。


 カモミールが咲いていた。


 白い花びらと、小さな黄色い中心。


 風が通るたび、花々がそろって揺れた。


 ニナは立ち止まった。


「……咲きましたね」


「ああ」


 ヴァレンティンが、隣で答えた。


 初めて来た日には、ブランが寝転んでいた。


 ここに花が咲いたら、お茶を飲む場所によさそうだと話した。


 その頃、自分はもう、この館にいないかもしれないと思った。


 ニナは彼の手を握った。


「一緒に、見られました」


 声にすると、胸がいっぱいになった。


 ヴァレンティンは花を見ていたが、やがてニナへ顔を向けた。


「……これからも、見よう」


「はい。来年も」


「その次もだ」


 ニナは笑って頷いた。


 小径の向こうから、足音が近づいてくる。


 ブランだった。


 リュシアンと一緒に、こちらへ歩いてきた。


 深紅の首輪には、今日は小さな飾りが添えられている。ニナを見つけると、尾が大きく揺れた。


「ブランちゃん」


 ニナが手を伸ばすと、ヴァレンティンが裾を気にして、そばへ寄った。


 ブランは二人の間へ頭を入れ、手を交互に確かめる。


「……お前は、今日も変わらんな」


 ヴァレンティンが撫でた。


 リュシアンは少し離れて足を止める。


「閣下。お戻りの前に、一つご報告を」


「何だ」


「厨房で、焼き菓子を包み終えたそうです。遠方へお帰りになる方の分も、忘れずにお渡しできます」


「そうか。ありがとう」


 ヴァレンティンが頷く。


 ニナはリュシアンを見た。


「今日は、ゆっくり召し上がれましたか?」


「ええ。ご心配には及びません」


「では、戻ったら、俺の皿の分も少し持っていけ。話してばかりで、まだ残っている」


 ヴァレンティンが言うと、リュシアンは静かに答えた。


「ありがとうございます。私の分も、すでに確保しておりますので、のちほどお茶と一緒にいただきます」


「……やはり、抜かりがないな」


 ニナは笑った。


 花のそばで、三人と一匹の影が長くなっていた。


     *


 結婚しても、毎日が祝宴になるわけではなかった。


 朝には仕事があり、急な相談も、予定の変更もあった。


 ヴァレンティンは街道を見に行き、ニナは商会で記録を確かめた。


 思うように仕事が進まない日もあれば、話が食い違って、もう一度尋ね直す日もあった。


 それでも、館へ帰れば、話せることがあった。


 夕食の前に時間ができた日には、ニナがお茶を淹れた。


「お味は、いかがでしょうか」


 カップを差し出すと、ヴァレンティンはいつものように、わざと目を細めた。


「ふむ。俺を油断させるつもりか。香りからして、なかなか巧妙だ」


「では、ごゆっくり、お確かめください」


 彼は一口飲み、満足そうに息をついた。


「……うまい」


「よかったです」


 ニナも自分のお茶を注ぎ、隣へ座った。


 彼が菓子皿を近づけてくれる。


「今日は、どうだった」


「あの、送り状のことで、一つ……」


「何かあったのか」


「最初は、うまくいかなかったんです。でも、先輩に教えていただいて、できるようになったこともございます」


「よし。順に聞こう」


 ニナは話した。


 彼は、ときどき尋ねながら聞いた。


 そのあとには、彼の話もあった。


 村へ向かう道で、荷馬車と行き会ったこと。


 役人との話が長引いたこと。


 ブランが執務机の下で眠ってしまい、椅子を引けなくなったこと。


「……それは、お困りでしたね」


「ああ。おかげで、予定より書類が進んだ」


 ニナが笑うと、彼も笑った。


 ブランは今、卓の下にいた。


 二人の足の間で、ゆっくり眠っている。


 窓辺には、アルトが分けてくれた花が、小さな器に挿してあった。


 日が傾き、リュシアンが書類を持ってきた。


「閣下。こちらを一件、ご確認いただけますか」


「急ぎか」


「明日の朝でも構いません。ただし、その場合は、庭のお散歩が短くなるかと」


 ヴァレンティンはカップを置いた。


「今、見る」


 書類を受け取り、広げる。


 ニナは空になった菓子皿を見て、残りの包みを開いた。


「では、お茶も淹れ直してきますね」


 彼が顔を上げる。


「……まだ、ここにいるか」


「はい。私も、書き留めておきたいことがあるので」


 ニナは自分の覚え書きを卓の端へ置き、茶の支度へ向かった。


 戻ってくると、彼はまだ同じところに座っていた。


 前へ新しいカップを置き、自分も隣へ腰を下ろす。


 しばらく、紙とペンの音が続いた。


 彼が確認を終え、リュシアンへ書類を渡す頃、ニナも最後の一行を書き終えた。


「お疲れさまでした」


「お前もな」


 ヴァレンティンがカップを取る。


 その指に、金の輪が見えた。


 ニナが目を留めていると、彼は空いている手を卓へ伸ばした。


 指が、そっと重なる。


「明日は、何時に庭へ出る?」


 ニナは顔を上げた。


 窓の外には、白い花が揺れていた。


「朝食のあとでは、いかがでしょう」


「ああ。では、その時間に」


 ニナは微笑んだ。


 今日の話を聞いてくれた人と、明日の約束をする。


 カップから立ち上る湯気の向こうで、彼も微笑んでいた。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!


「格好いい悪役に憧れているのに、どうしても世話を焼いてしまう侯爵がいたら面白そう」

そんなところから、ヴァレンティンとニナのお話は始まりました。


大げさな言葉で格好をつける侯爵と、それを真面目に受け取るニナ。そこへリュシアンの容赦ない一言と、ブランのふさふさの尻尾が加わる、賑やかなラブコメを書くつもりだったのですが……。


気づけば私まで、「もうすぐ帰るのか……寂しいな……」と、二人と一緒にしんみりしていました。どうしてこうなった。


けれど、振り返ると、この二人には似合うお話になった気がします。


今日あったことを話したくなる。

相手の好みを覚えて、次のお茶を用意する。

会えない日には寂しくなって、また会えたら嬉しくなる。


そんな小さな積み重ねの先で、恐れられたかった侯爵が「そばにいてほしい」と伝えられるようになるまでを、見届けていただけたなら嬉しいです。


結婚しても、ヴァレンティンの格好つけは続きます。ニナはきっと真面目に返事をするし、リュシアンは自分の菓子を確保しているでしょう。ブランも、いつも通り二人の足元で眠っているはずです。


この先も続いていく賑やかな毎日を、少しでも想像して楽しんでいただけたら。


ここまで二人を見守ってくださり、本当にありがとうございました!

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