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第六章 この声が聞こえる夜

 庭の本を返しに図書室へ来たニナは、書棚の前で手を止めた。


 本を戻した、その隣。深い赤の背表紙に、金色の文字が並んでいる。


 物語だろうか。


 取り出してみると、表紙の角が擦れていた。何度も開かれたらしく、頁の端も柔らかくなっている。


 開いたところには、館の広間らしい挿絵があった。


 長い食卓の端に座る貴族と、その向かいに立つ、剣を帯びた男性。


 その下に、台詞が記されていた。


 ――よく来た。我が館のもてなしを、忘れられぬ夜として覚えて帰るがいい。


「……あら」


 ニナはもう一度、その一行を読んだ。


 どこか、聞き覚えがある。


 ちょうど扉の開く音がして、顔を上げた。


「……こんなところにいたのか」


 入ってきたのは、ヴァレンティンだった。


「侯爵様。こちら、お借りしてもよろしいでしょうか」


 手元の本を示すと、彼の足が止まった。


 ニナは表紙へ目を戻す。大切な本で、貸し出せないものだっただろうか。


「……それを、どこで」


「こちらの棚に。お芝居の台本なんですね」


「ああ。ただの娯楽と思うなよ。その本には、貴族たる者の振る舞いを考えるうえで、重要な示唆がある」


 彼は近づき、ニナの開いた頁を覗き込んだ。


 挿絵を見た途端、口元が少し緩む。


「ここを読んでいたのか」


「まだ、開いたばかりです。こちらの方が、館の主でしょうか」


「そうだ。主人公に敵対する貴族で、この使者が武器を持ち込んでいることにも気づいている」


 長い指が、剣を帯びた人物を示した。


「それでも、食卓につかせる。剣を取り上げるために騒ぎ立てたりはしない。館の主が慌てていては、余裕も威厳もあったものではないからな」


 ニナが隣へ場所を空けると、彼は自然とそこへ並んだ。


 頁に添えた指が、次の台詞へ移る。


「この男は、最高の食事と部屋を用意してから、敵へ勝負を告げる。相手が誰であれ、もてなしに隙は見せぬ。その余裕がいい」


「……なるほど」


 初めて館へ来た日の、三種類のお茶菓子を思い出した。


 部屋が寒ければ言えと、食事を抜くなと、彼は言っていた。


 ニナは挿絵と、その上へ置かれた指を見比べた。


「閣下のお気に入りの場面でございますね」


 扉のところから、別の声がした。


 リュシアンが書類を手に立っている。


「幼い頃、何度も演じるお相手をいたしました」


「……リュシアン」


「私は剣を預けぬ使者の役でした。入室の仕方から、随分とご指導を」


「貴様が、台詞を言う前に帰ろうとするからだ」


「おやつの時刻でしたので」


 ニナは、小さく笑った。


 リュシアンはいつも通りの顔で書類を近くの机へ置き、確認をお願いしたい箇所を伝えた。


 侯爵は頷いてから、ニナへ向き直る。


「……昔、舞台で観たことがある。それで、台本も手に入れた」


「幼い頃から、ずっと大切にされているんですね」


 ニナは本を両手で支え直した。


「まだ、この方がどんな人物かは分からないのですが、敵にも最高のおもてなしをするところは、面白いと思いました」


「……そうか」


「よろしければ、侯爵様のいちばんお好きな場面を教えていただけますか」


 彼は本へ手を添え、何枚かめくった。


 迷わず、一つの場面で止まる。


「ここだ」


     *


 図書室の窓辺に、長椅子があった。


 侯爵がそちらを示したので、ニナも本を持って移った。


 隣へ腰を下ろした彼は、窓からの光が届くように頁を傾ける。


「……読んでみせよう。そのほうが、分かる」


 ニナが頷くと、彼は一度、姿勢を正した。


「剣は、そのままで結構。だが、食事の間は抜かぬことだ。料理人の仕事に、血の匂いを添えるのは無粋だからな」


 声が、変わった。


 大きくなったのではない。低く響く言葉の間に、ゆったりとした沈黙がある。


 相手の返事を待っているようで、初めから答えを知っているようでもあった。


 ニナは、文字を追っていた目を上げた。


 彼は続く台詞へ視線を落とし、わずかに口元を上げる。


「私と争うのは、明日にしたまえ。今宵の君は客人だ。我が家で不自由をさせたとあっては、私の名に傷がつく」


 広い食卓も、豪華な料理も、今ここにはない。


 けれど、館の主が椅子へ深く腰掛け、使者へ席を勧める姿が、見える気がした。


 ひと区切りついたところで、ニナは息を吐いた。


「……文字で読むのとは、ずいぶん違うんですね。本当に、その方が目の前で話しているみたいでした」


「当然だ。台詞とは、声にして初めて――」


「侯爵様、とてもいいお声ですね」


 彼が口を閉じた。


 ニナは感心したまま、続ける。


「低くて、よく響いて……もっと聞いていたくなります」


 そこで、ずいぶん近くから見つめていたことに気づいた。


 少し頬が熱くなり、頁へ目を戻す。


「……次の場面も、お願いしてよろしいですか?」


 隣で、紙を持ち直す音がした。


「構わん。ただし、物語を正しく理解するためだ。途中で分からぬところがあれば聞け」


「はい」


 朗読が再び始まった。


 先ほどより少し長い間があき、ニナが顔を向けると、彼もこちらを見ていた。


 目が合った途端、侯爵は本へ視線を戻す。


 机で書類を整えていたリュシアンが、静かに尋ねた。


「閣下。今の間も、演出でございますか」


「……無論だ」


「失礼いたしました」


 ニナは口元を緩めたが、今度は邪魔をしないよう、黙って耳を傾けた。


 窓の光が薄くなるまで、物語の声は続いた。


     *


 その夜、ニナは借りた台本を少し読み進めてから眠った。


 彼が読んでくれた台詞に目が留まると、昼間の声が思い出された。


 その先は、自分で読んでいても、同じ声が聞こえるようだった。


 区切りのよいところへ紙を挟み、枕元に置いた。


 次に目を覚ましたとき、部屋は夜の静けさに包まれていた。


 ランプが、低くともっている。


 喉が渇いていた。


 寝台から起きて水差しを傾けたが、杯には数滴しか落ちなかった。眠る前、残りを確かめずに飲んでしまったらしい。


「……少しだけ、お水をいただいてこようかな」


 羽織りものを肩にかけ、履き物をつける。


 扉を開くと、廊下にも灯りは残されていた。


 ほっとして、一歩出る。


 窓が、小さく鳴った。


 ニナは肩を揺らした。


 風が窓を揺らしたのだと、分かっている。


 それなのに、明かりの届かない曲がり角へ目が向いた。


「……風。今のは、風だから」


 言い聞かせ、もう一度足を動かしかける。


 けれど、扉から手を離せなかった。


 呼び鈴を鳴らすために、部屋へ戻ろうか。


 この時間に、水のためだけに人を呼んでもよいのだろうか。


 迷っていると、廊下の向こうから足音がした。


 ニナは思わず息を止めた。


「……ニナ?」


 名を呼ばれた瞬間、張りつめていた肩が下がった。


 曲がり角から、手燭の灯りが見えた。夜着に黒い上着を羽織ったヴァレンティンが、こちらを見て足を止めている。


「侯爵様……」


「どうした。具合でも悪いのか」


「いいえ。お水をいただこうと思ったのですが……」


 言いながら、少し恥ずかしくなった。


「廊下の音が気になって、出られなくなってしまって」


 彼はニナを見て、それから手の中の杯へ視線を落とした。


「……そうか。俺も水を飲みに出たところだ。一緒に来い」


 歩き出しかけて、彼は一度止まった。


 ニナが扉から手を離すのを待ち、それから、ゆっくり廊下を進んだ。


     *


 少し先の控えの間には、水差しと杯が用意されていた。


 夜のために支度してある場所だと教えられ、ニナは廊下へ振り返った。


 自分の部屋から、最初の曲がり角の手前。


 昼間に、もう一度確かめておこうと思った。


「次に水が要るなら、ここへ。一人で歩けぬときは、呼び鈴を使えばいい」


「この時間に、お呼びするのは申し訳なくて」


「そのために、夜の当番がいる。何でも一人で済ませる必要はない」


 水を注いでもらい、ニナは礼を言った。


 ひと口飲むと、喉の渇きが落ち着く。


 侯爵も自分の杯へ水を注ぎ、手燭を棚に置いた。


 壁へ長く伸びていた影が揺れ、ニナの足元から外れる。


「……灯りだけでは、足りなかったか」


「灯りは、ちゃんとつけてくださっていました。お部屋では平気だったんです。でも、一人で歩こうとすると、どうしても……」


 ニナは杯を両手で包んだ。


「先ほど、私の名前を呼んでくださったでしょう?」


「ああ」


「侯爵様のお声だと分かって、安心しました」


 彼は、手燭から手を離した。


 少し黙ってから、ニナへ目を向ける。


「……戸締まりも、見回りもさせている。この館で、貴様が夜ごと身構える必要はない」


「はい。ありがとうございます」


 廊下の向こうで、また窓が鳴った。


 今度は、肩をすくめずにいられた。


 ニナは控えの間の椅子を見て、それから彼へ顔を上げた。


「もう少しだけ、お話ししていてもよろしいですか?」


「……今から?」


「はい。落ち着いたら、眠れそうなので」


 彼は一度、廊下へ目を向けた。


 それから、椅子を一脚引く。


「ならば、座れ。立ったままでは冷える」


 ニナが腰を下ろすと、彼も向かいへ座った。


「……今日の台本の話だが」


 静かな声が、始まった。


「あの貴族は、使者が食事に手をつけるまで、自分も席を立たぬ。部下に迎えさせて、それきりにはしない」


「ご自分で、もてなしていらっしゃるんですね」


「ああ。支度を命じただけで、十分だったとは限らんからな」


 ニナは頷いた。


 今は、大きく声を響かせることも、芝居のような間を置くこともない。


 それでも、本の話をするときには、少し楽しそうになる。


 ニナが尋ねると、彼は使者のその後を話してくれた。次に主人へ何を伝えるのかと聞けば、そこはまだ秘密だと、口元を上げた。


 やがて、ニナは小さなあくびをこぼした。


 慌てて口元を押さえると、侯爵が話を止める。


「……眠くなったか」


「すみません。退屈だったわけではなくて。安心したら、急に……」


「分かっている。詫びることではない」


 彼は立ち上がり、手燭を取った。


「戻ろう。今なら眠れそうだろう」


「はい。侯爵様も、お休みになってくださいね」


 二人で部屋の前まで戻った。


 扉を開けてから、ニナは振り返る。


「……続きは、また聞かせていただけますか?」


 侯爵は手燭を持ち直した。


「構わん。今度は、眠る前にな」


「はい。楽しみにしております」


 彼が頷くのを見て、ニナは微笑んだ。


「おやすみなさいませ。お話しできて、嬉しかったです」


「……ああ。おやすみ、ニナ」


 扉を閉めると、部屋の中には先ほどと同じ灯りがあった。


 窓の外で、風が鳴る。


 ニナは一度そちらを見たが、今度はそのまま寝台へ向かえた。


 枕元には、小さな紙を挟んだ台本がある。


 その隣へ、水を入れ直してもらった杯を置いた。


 続きは、また明日。


 ニナは、昼間と夜の二つの声を思い出しながら、目を閉じた。

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