第五章 薔薇の隣に、白い花を
翌朝、ニナは目を覚ますと、まず窓へ向かった。
厚い雲はなかった。庭の木々に光が差し、葉の先に残った雫が輝いている。
「……晴れた」
口にしてから、少しおかしくなった。
商会へ出かける朝にも、天気は確かめる。けれど今日は、カーテンを開ける前から気になっていた。
朝食を済ませ、深緑の服へ薄い羽織りものを合わせる。歩きやすい靴を選び、客室を出る前に、髪をもう一度整えた。
テラスでは、ヴァレンティンがブランと待っていた。
ニナを見ると、欄干から背を離す。
「……支度はできたか」
「はい。今日は、お散歩日和ですね」
ブランが足元へ来て、尾を振った。ニナが挨拶をして撫でる間、侯爵は外套の襟を整えていた。
「お仕事は、よろしかったんですか?」
「必要な確認は済ませた。今日の案内に抜かりがあっては、昨日の宣言に傷がつくからな」
「閣下には、昨夜のうちに書類をお返しいただきました」
背後から来たリュシアンが付け加えた。
「ですから、ごゆっくりどうぞ。私は庭師へ用件がございますので、途中までご一緒いたします」
ニナは二人へ礼を言い、庭へ続く段を下りた。
前の散歩のときよりも、日差しが高い。見覚えのある小径にも違う影が落ち、花壇の奥が明るく見えた。
「まずは、こちらだ」
侯爵が、東屋とは別の道を指した。
*
先へ進むと、深紅の薔薇を絡ませたアーチがあった。
盛りを過ぎた枝もあるが、まだ花を残したところには、幾重にも重なった花弁が、しっとりと濃い影をつくっている。
「……綺麗」
ニナは少し手前で立ち止まった。
「この色が、お好きなんですね」
「ああ。一輪でも、見る者を惹きつける。悪役の庭に相応しいだろう」
彼は一輪を見上げ、得意げに続けた。
「だが、忘れるな。美しいものには棘がある。……俺のようにな」
「その棘で、昨日、指先を傷つけておいででしたね」
リュシアンが言った。
「……あれは、手入れを確認していたときのことだ」
「お怪我を?」
ニナが手元へ目を向けると、侯爵はその手を背へ回しかけた。
けれど、目の前に小さな段差があるのに気づき、すぐに差し出し直す。
「大したものではない。それより、足元を見ろ。露が残っている」
「ありがとうございます。……少し、お借りしますね」
手を重ねると、彼の指が一度動いた。
その手に支えられ、ニナは段差を越える。足元が落ち着いてから手を離し、改めて彼を見上げた。
「もう、痛みませんか?」
「……問題ない」
「それなら、よかったです。こんなに綺麗に咲くまでには、お手入れも大変なのでしょうね」
彼の視線が、手から薔薇へ戻る。
「放っておけば、この形にはならん。枝を残すにも、翌年どちらへ伸びるかを考える。俺は毎年、庭師に相談するがな」
「ご一緒に考えていらっしゃるんですね」
「あいつは、俺が残したい枝を、あっさり切れと言う」
不満そうな声に、ニナは少し笑った。
「きっと、もっと綺麗に咲くように、でしょう?」
「……結果は、概ねその通りだ」
アーチの向こうで、ブランが立ち止まっていた。
薔薇の枝が届かない、開けた場所だ。小径の脇に花の植わっていない一角があり、その近くへ腰掛けが置かれている。
「ブランちゃん、そこが好きなの?」
ブランは草を嗅ぎ、ゆっくり伏せた。
葉の間を抜けた日差しが、淡い金色の背へ降り注ぐ。
「……散歩の続きをする気は、ないらしいな」
「気持ちよさそうですね」
ニナは腰掛けのそばへ寄った。
ここなら、少し休みながら花を眺められる。
薔薇の手前に、小さな白い花が揺れていたら。
「……こちらにカモミールが咲いたら、素敵でしょうね」
侯爵も、同じ場所を見た。
「ふむ。道からも見えるな。……アルトに確かめよう」
「ちょうど、あちらに」
リュシアンの視線の先から、道具を手にした男性が歩いてきた。
小柄な初老の人だった。日焼けした顔に皺が刻まれ、二人を見つけると、帽子へ手を添えて会釈する。
「アルト。この一角に、カモミールを植えられるか」
侯爵はそう尋ね、それからニナへ向き直った。
「我が館の庭を預かる者だ」
「初めまして。ニナ・ベルネットと申します。しばらく、こちらでお世話になります」
「アルトでございます。侯爵様から、お花のお話は伺っておりますよ」
ニナが顔を上げると、侯爵は既に花壇を見ていた。
「今朝、伝えたまでだ」
アルトは穏やかに笑い、土の様子を確かめるために腰を下ろした。
「場所はよさそうですね。水の流れと、土の具合をもう少し見ておきましょう。薔薇の手入れと混ざらないよう、境をつけておくとよいかもしれません」
「ここで、育てられそうですか?」
「ええ。来年の花を楽しみに、支度を進められると思います」
来年、とニナは心の中で繰り返した。
その頃には、見習いを終えて、実家へ戻っている。
ニナはまだ何も植わっていない土を見た。それから、アルトへ尋ねる。
「私にも、お手伝いできることはありますか?」
「でしたら、場所を整えるときに。何をするかは、その日にご説明いたします」
「ぜひ、お願いいたします」
ニナが頷くと、侯爵が横から口を挟んだ。
「道具は使いやすいものを用意してやれ。初めて使うものもあるだろうからな」
「承知しております。侯爵様も、ご一緒に?」
「……必要があればな」
リュシアンが手帳を開いた。
何か書き込む前に、侯爵がその手元を見る。
「まだ、日を決めたわけではない」
「はい。これから伺おうとしていたところです」
ニナは思わず微笑んだ。
それから、侯爵へ顔を向ける。
「……帰ってからも、お花を見に伺ってよろしいでしょうか」
彼の表情が、少し変わった。
「来年には、こちらで学ぶ期間が終わっていますから」
すぐには答えがなかった。
ブランが顔を上げ、二人を見た。それから、また前脚へ顎を載せる。
「……この俺が招いた場所だぞ」
やがて、低い声がした。
「三ヶ月を過ぎたからといって、門を閉ざすような男に見えるか」
「いいえ。そうではなくて」
「ならば、来ればいい。……花を見に」
ニナは、ほっと息をついた。
「ありがとうございます。では、そのときはお菓子を持ってまいります。ここで、お茶もご一緒できたら嬉しいです」
「菓子だと?」
「はい。今度は、私が選んでまいりますね」
彼は、来年の花壇になる場所をもう一度眺めた。
「……よかろう。楽しみにしてやる」
ニナはリュシアンにも向き直った。
「おすすめのお店を、教えていただけますか?もちろん、リュシアンさんの分も選びたいです」
「東通りのフォルベック菓子店でしたら、ご案内できます。蜂蜜のタルトをお出しした店でございます」
答えが、いつもより少し早かった。
「焼き菓子も、持ち運びに向いておりますので」
「では、そちらへ行ってみます」
リュシアンは一礼し、アルトと用件を話すため、二人から少し離れた。
侯爵が、薔薇園の奥へ手を向ける。
「……まだ、見せていない場所がある。もう少し歩けるか」
「はい。私も、もう少し拝見したいです」
ニナが答えると、彼は腰を屈めてブランへ声をかけた。
「聞いたか。案内はまだ途中だぞ」
ブランは伸びをし、立ち上がった。
*
庭の奥には、ハーブの区画があった。
ミントの香りを確かめ、実家で飲んでいたお茶のことを話す。小径を曲がれば、今度は背の高い木があり、落ちた実へ鼻先を寄せるブランに、侯爵が短く声をかけた。
歩くたび、ニナには聞きたいことが見つかった。
この木も、昔からあるのか。
池へ来る鳥は、冬にもいるのか。
侯爵が分からないことは、後で庭師に聞いておくと言った。
ニナも実家の庭を思い出し、商会の裏へ来ていた猫の話をした。いつも同じ場所で寝ていたのに、荷を積む日だけはいなくなる、要領のよい猫だった。
話をしている途中で、遠くから鐘が聞こえた。
「……えっ」
ニナは顔を上げた。
「もう、お昼ですか?」
侯爵も、懐中時計を取り出した。
「……そうらしいな」
「すみません。私、すっかり話し込んでしまって」
けれど、謝りながらも笑みがこぼれた。
「楽しくて、気づきませんでした」
彼は時計を閉じ、外套へ収めた。
「……館へ戻ろう。厨房の者が、待ちくたびれているかもしれん」
「はい。歩いたら、お腹が空いてしまいました。侯爵様も?」
「当然だ。まさか、俺が空腹にならぬと思っているのか」
ニナは笑って首を振った。
ブランを呼び、二人で来た道を戻る。
「午後は、本でも読むつもりか」
「そうですね。図書室を拝見してみようかと」
「あそこには、庭の本もある。……それから」
侯爵は一度、言葉を区切った。
「茶の時間には、俺も戻れる」
「では、ご一緒してもよろしいですか?」
「構わん。そうだな。今度は、貴様が淹れてみるか」
ニナは顔を向けた。
「私が、ですか?」
「実家でも淹れていたと言っただろう。毒見くらいは、直々にしてやる」
「毒は、入れませんよ」
真面目に答えると、彼は小さく息を詰め、それから口元を緩めた。
「……味を確かめてやろうと言っているのだ」
「はい。ぜひ、淹れさせてください。濃いめと軽めでしたら、どちらがお好きですか?」
「濃いめだ。菓子と合わせても、負けぬものがいい」
ニナは頷いた。
今度は、自分が支度をする番だった。
*
午後、使用人に茶器の扱いを確認してから、ニナはポットを温めた。
茶を淹れることは、初めてではない。
それなのに、茶葉を量る指先は、いつもより慎重になった。
濃いめがお好きだと聞いた。
けれど、渋くしすぎたくはない。
頃合いを見てカップへ注ぐと、立ち上る香りに少し安堵した。
「……お待たせいたしました。侯爵様の分です」
彼の前へ差し出し、リュシアンの分も用意してから席につく。
侯爵は香りを確かめ、ひと口飲んだ。
ニナは、思わずその顔を見つめた。
「……いかがですか?」
彼はカップを置いた。
「悪くない」
それから、もう一度持ち上げる。
「……いや。このくらいがいい」
ニナの肩から、そっと力が抜けた。
「よかった。普段は、こんなに緊張しないんですけれど」
「緊張?」
「お好きな味にできていたら、嬉しいなと思って。……次も、このくらいの濃さで淹れますね」
侯爵が、カップの向こうからこちらを見た。
ニナは少し気恥ずかしくなり、用意しておいた菓子皿を二人へ勧める。
「いつもご用意いただいてばかりでしたから。今日は私からも、楽しんでいただけるものがあって嬉しいです」
彼はすぐには菓子を取らず、ニナを見ていた。
「……では、貴様も茶を飲め。淹れた本人が、冷めるまで眺めていてどうする」
「はい」
ニナも、ようやく自分のカップを取った。
実家で淹れるものより、少し濃い。ひと口飲んでから菓子をかじると、よく合う味だと思った。
向かいでも、侯爵が同じように茶を飲んでいる。
リュシアンは皿の菓子を一つ選び、静かに口へ運んだ。
「こちらの濃さでしたら、この菓子にもよく合いますね」
勧められ、ニナも同じものを取った。
朝、庭で話したことを思い出しながら、三人で茶を飲んだ。
しばらくして、侯爵が空きかけたカップへ目を落とす。
「……ニナ。まだ、ポットに残っているか」
「はい。ございます」
「ならば、もう一杯」
ニナは笑顔で立ち上がった。
実家へ戻ったあとにも、花を見に来てよいと言ってもらえた。
今日は、自分の淹れたお茶を、もう一杯と頼んでもらえた。
カップへ注ぐと、また湯気が立ち上った。
ニナは、その向こうにいる彼へ微笑んだ。




