第四章 侯爵様の横顔
荷馬車の列は、商会の角を曲がった先まで続いていた。
書類を届けに来たニナは、いつもより騒がしい荷下ろし場の入口で足を止めた。馬の鼻息が聞こえ、御者たちが荷台から身を乗り出して前を窺っている。
先日の一箱の件から、さらに数日が過ぎていた。今日は荷が多いと朝から聞いていたが、これほどとは思わなかった。
通れる場所を探していると、倉庫の脇から声がした。
「人を増やす前に、どこで止まっているのか確かめたい」
ニナは顔を上げた。
黒いコートを着たヴァレンティンが、商会の責任者と並んでいた。少し後ろでは、リュシアンが紙を広げている。
侯爵は近くの御者へ向き直った。
「荷を下ろしたあと、どこから出るように言われている?」
「来た道を戻るように、と。ですが、ご覧の通りでして」
御者が示した先では、出ようとする馬車と、入ってくる馬車が向かい合っていた。どちらも脇へ寄ろうとしているが、前後にも車が続き、動けなくなっている。
侯爵は通路の端を歩き、倉庫の裏手へ目を向けた。
「北側は使えぬか」
「しばらく荷を置いておりましたので、幅の確認が必要です。出口の手前には、排水溝を渡す板もあります」
「設備を見ている者に確かめてもらおう。荷を除けば使えるのか、それ以外にも問題があるのか、先に知りたい」
責任者が係の者を呼ぶ。
その間、侯爵は別の御者にも話を聞いた。
いつから並んでいるのか。荷を下ろす場所は知らされていたか。
問いは短く、相手の答えが終わるまで、次を重ねなかった。
ニナは壁際へ寄り、書類を抱え直した。
いつもの、長い前置きがない。
御者が車輪の位置を指せば、彼もそこまで歩いて確かめる。責任者が何かを説明すると、列の先へ視線を向けたまま、耳を傾けていた。
やがて、北側を確認した係員が戻ってきた。
排水溝に渡してある古い板は、そのまま馬車を通すには心もとないという。
「では、今日は使わぬ。先に直してからだ」
ヴァレンティンは答え、入口へ視線を戻した。
「今の通路で、入る車と出る車を交互に動かすことはできるか。入口の手前で待つ場所が必要だが」
「隣の空き地をお借りできれば」
責任者の言葉に、リュシアンが頷いた。
「管理者に確認してまいります」
「頼む。それまでは、新たに入ろうとする車を止めておいてくれ。外の街道へ列が延びぬよう、そちらにも声をかけてほしい」
係員が入口へ走った。
ほどなく空き地を使えるという知らせが届くと、責任者は御者たちへ順番を説明し、待つ車を少しずつ移していった。
侯爵は、一番前の御者へ歩み寄る。
「今、出る車を先に通す。向こうの係員が合図するまでは、動かさずにいてくれ」
「承知しました。お手数をおかけします」
手綱が握り直される。
通路の両端に立った係員が、互いの位置を確かめた。
合図を受けて、空の馬車がゆっくり動き出す。
ニナは、気づけばその様子を見つめていた。
朝の食卓では、ブランに足を踏まれたと言っていた人だ。
先日は、リュシアンの菓子へ手を伸ばして止められていた。
その人が、今は御者たちの話を聞き、次に動く者へ声をかけている。馬車が通り抜ける間も、その場を離れずに見ていた。
肩に落ちた髪を払う横顔へ、ニナの目が戻った。
「……おや。ニナ様」
リュシアンの声で、我に返る。
侯爵が振り向いた。
「貴様、どうした」
「あ……こちらの書類を、倉庫の担当の方へお届けに参りました」
腕の中にある封筒を示す。
持ってきた仕事を、忘れかけていた。
「侯爵様は、いつも、こうしてお話を聞いていらっしゃるんですね」
「……何のことだ」
「皆さんが何に困っているかを確かめて、できることから順に決めていらして」
また一台、空の馬車が入口を抜けていく。
その音を聞きながら、ニナは彼を見上げた。
「私、つい見入ってしまいました。……とても、格好よかったです」
侯爵が黙った。
先ほどまでは、すぐに次の言葉が出ていたのに。
ニナは、仕事場で申し上げることではなかったかもしれないと思った。
「……お引き止めして、申し訳ありません。書類をお渡ししてまいりますね」
「待て」
足を止めると、彼はコートの襟を一度整えた。
「俺は、必要な確認をしただけだ。道が詰まれば、商会だけでなく、街の往来にも響く」
「はい。それを、いつも考えてくださっているんですね」
「……いつも、完璧に分かるわけではない」
彼は荷馬車の方を見てから、ニナへ視線を戻した。
「だから、話を聞く。使う者が、使いにくいと言っているのだからな」
ニナは頷いた。
侯爵はその顔を少し見て、喉を鳴らした。
「……そう見えたのなら、足を運んだ甲斐もあったというものだ」
ニナが微笑むと、彼の視線が封筒へ移った。
「仕事中だったな。引き止めた」
「いいえ」
「俺もしばらく、ここの様子を見ている。貴様の仕事が終わる頃にまだ残っていたら、帰りは声をかけろ」
「ご一緒してもよろしいんですか?」
「帰る方角は同じだろう。……茶もある」
横でリュシアンが顔を上げた。
「閣下。もし、昨日お尋ねになった茶葉でしたら、あちらは私の私物ですが」
「分かっている。分けてもらうという話だ。代わりの品も用意する」
「では、後ほどご相談を」
ニナは二人を見比べ、笑顔で一礼した。
書類を届け、帳場へ戻ると、先輩に控えの整理を頼まれた。
窓の外を馬車が通るたび、あの通路を思い出したが、今度は手を止めずに済んだ。
帰り支度をする頃、商会の者が、侯爵たちもそろそろ出るそうだと教えてくれた。
*
「……いい香りですね」
屋敷へ戻り、身支度を整えてから、ニナは談話室で茶をいただいた。
カップから立ち上る香りは、前に飲んだものより少し華やかだった。
「リュシアンさんのとっておきだと伺いました。分けていただいて、ありがとうございます」
「お口に合いましたら、何よりでございます」
リュシアンは二人の茶を注ぎ終えると、部屋の端で書類を確かめ始めた。
ニナの向かいで、ヴァレンティンがカップを持ち上げる。
黒いコートは脱ぎ、いつもの装いに戻っていた。席につく前には、茶葉を選ぶのも館の美学だと説明し、菓子皿の位置まで直していた。
けれど、ふと目を伏せる横顔に、荷下ろし場で見た表情が重なる。
皆の話を聞いていた、真剣な顔。
あの人々へ声をかけるときも、この低い声だった。
「……そういえば、侯爵様には、婚約者の方はいらっしゃらないんですか?」
彼のカップが、口元の少し手前で止まった。
ニナも、自分の言葉に少し驚いた。
「すみません、急に。こうして私とお茶をご一緒していて、気になさる方はいらっしゃらないのかな、と思って……」
彼は、ゆっくりとカップを戻した。
「……いない」
「そう、なんですね」
ニナは頷いた。
ほっとした。
そう感じたことが不思議で、自分のカップへ目を落とす。
「この俺の美学を理解する者など、そう多くはないからな」
侯爵が腕を組んだ。
「……何だ。そんなに意外か」
「あ、いいえ。ただ、私ばかりお時間をいただいて、よいのかなと」
「構わん。……貴様が、この時間を悪くないと思っているのなら、それで」
少し、言葉が途切れた。
ニナは顔を上げる。
「悪くない、というより。私は、楽しみにしております」
彼の指が、カップの持ち手から離れた。
「商会で何か教わると、帰ったら侯爵様にお話ししようって、考えることがあるんです。侯爵様のお話も、もっと伺いたいですし」
言いながら、急に気恥ずかしくなった。
けれど、本当のことだった。
「ですから……また、ご一緒させていただけたら嬉しいです」
「……ふん。そうか」
侯爵は手を組み直し、わずかに顎を上げた。
「ならば、そのためにも仕事をきちんと終えて帰ることだ。語るべきことがなくては、話にならんだろう」
「閣下。ニナ様がお茶を飲みにいらっしゃるたび、成果をお求めになるおつもりですか」
リュシアンが書類から顔を上げた。
「……そうは言っていない。世間話でも構わん」
「でしたら、お好きな花など、まだ伺っておいででないでしょう」
「今、その話を――」
「カモミールが好きです」
二人がこちらを向いた。
ニナは少し笑って、続けた。
「実家の庭にも咲いているんです。白い小さなお花が、風で一緒に揺れるところが好きで。……侯爵様は、どんなお花がお好きですか?」
彼は一度リュシアンを見たが、側近は静かに書類へ目を戻していた。
「……薔薇だ。特に、深い紅のものがいい」
「お庭にも咲いていましたね」
「ああ。まだ見せていない場所がある」
ニナは、初めての散歩を思い出した。
東屋へ案内してもらったが、庭の奥へは行かなかった。朝食に戻る時刻だからと、途中で引き返したのだ。
「……明日は、貴様の商会は休みだったな」
「はい」
侯爵は窓の外を見た。
夕方の光が、庭の端へ残っていた。
「その、カモミールだが。空いている一角がある。庭師に確かめれば、育てられるかもしれん」
「こちらのお庭に、ですか?」
「白い花があっても、悪くはないだろう」
ニナも窓へ目を向けた。
好きな花が咲くとしたら、どこがよいだろう。東屋へ続く道か、それとも、まだ見たことのない奥の花壇か。
「ありがとうございます。でも、急いでご用意なさらなくても大丈夫です。まずは、どこに咲いていたら綺麗か、見てみたいです」
彼が、ニナを見る。
「よろしければ、明日、お庭の続きをご案内いただけませんか?」
「……構わん」
返事があってから、侯爵はリュシアンへ顔を向けた。
「朝食のあとで、時間を取れるか」
「お持ちした書類を、本日中にご確認いただければ。明朝は、お出かけになる前に、短いご報告だけで済みます」
「分かった。後で見る」
リュシアンが頷き、机の端へ書類を揃えた。
侯爵は再びカップを取った。
けれど、すぐには飲まなかった。
「……明日も、晴れるといいな」
ニナは彼を見た。
その声は、ただ静かだった。
窓の外の庭を、彼と一緒に眺める。
「……はい。晴れてほしいです」
明日は、商会へ向かう支度をしなくていい。
朝食のあとで、ブランに挨拶をして、それから彼と庭へ出る。
ニナはカップへ口をつけた。
少し冷めた茶からも、まだ、よい香りがした。




